第4章:夏の陰影

 7月に入り、紫霞女学院の校庭に蝉時雨が響き渡る。夏の日差しが強くなり、生徒たちの制服の袖も短くなった。椿凛は文芸部の部室で一人、窓際に佇んでいた。外の蒸し暑さとは対照的に、エアコンの効いた部室内は涼しく、凛の長い黒髪が微かに揺れていた。


 凛の心の中では、まだ梅雨の名残のような湿った空気が漂っていた。自分の気持ちの整理がつかないまま、夏休みが近づいてきている。月詠への想い、風花の純粋さ、そして詩音の複雑な感情。それらが凛の中で渦を巻き、創作の手を止めていた。


「凛、ここにいたのね」


 突然の声に、凛は我に返った。振り向くと、月詠が部室の入り口に立っていた。その姿は夏の陽光のように輝いており、凛は思わず目を細めた。


「月詠さん……どうしたの?」


「ちょっと話があって。少し散歩でもしない?」


 月詠の提案に、凛は少し躊躇したが、結局頷いた。二人は静かに校舎を出て、誰もいない中庭へと足を向けた。


 蝉の鳴き声が二人を包み込む。凛は月詠の横顔を盗み見ながら、自分の鼓動が少しずつ早くなっていくのを感じていた。


「凛、最近どう? 創作は進んでる?」


 月詠の質問に、凛は言葉に詰まる。


「うーん、あまり……言葉が出てこなくて」


「そう。無理しないでね」


 月詠の優しい言葉に、凛は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。


 二人は中庭の木陰に腰を下ろした。涼しい風が二人の間を吹き抜ける。


「ねえ、凛」


 月詠が凛の名を呼んだ瞬間、世界が一瞬止まったかのように感じた。


「なに?」


 凛が答える前に、月詠の唇が凛の唇に触れた。柔らかく、そして切なく。


 凛は驚きのあまり、身動きができなかった。月詠の唇の感触、その香り、すべてが凛の感覚を鋭敏にさせた。キスは数秒で終わったが、凛にはそれが永遠のように感じられた。


「ごめんね、突然で」


 月詠の声は少し震えていた。凛はまだ言葉が出てこない。


「私、凛のことが好きなの。でも、凛の気持ちを確かめたくて……」


 月詠の言葉に、凛の中で何かが大きく揺れ動いた。それは恐れだったのか、それとも期待だったのか。凛には分からなかった。


「月詠さん、私……」


 凛は言葉を選びながら、ゆっくりと口を開いた。


「私も月詠さんのことは大切だと思う。でも、自分の気持ちがまだよく分からなくて……」


 月詠は凛の言葉を静かに聞いていた。その瞳には、理解と少しの寂しさが混ざっていた。


「分かったわ。焦らなくていいのよ。凛が自分の気持ちと向き合う時間が必要なら、私は待つわ」


 月詠の言葉に、凛は安堵と同時に、申し訳なさも感じた。


 その日以降、凛は自室に籠もり、創作に没頭した。言葉を紡ぐことで、自分の気持ちを整理しようとした。ペンを走らせる音だけが、静かな部屋に響いていた。


「夏の陽射しに照らされて

 影が濃くなる心の奥

 光と影が交錯する場所で

 私は自分を探している」


 言葉が紙の上に並んでいく。凛は自分の中で何かが変化していくのを感じていた。それは痛みを伴う成長だった。


 一方、風花は凛の様子の変化に気づいていた。以前のような明るさが凛から消えていることに、風花は不安を覚えていた。


「椿先輩、大丈夫ですか?」


 ある日の放課後、風花は勇気を出して凛に声をかけた。


「え? ああ、大丈夫よ。ちょっと考え事があっただけ」


 凛の答えに、風花は安心したような、そうでないような複雑な表情を浮かべた。


「先輩、何か悩んでいるんですか?」


 風花の真っ直ぐな質問に、凛は言葉を失った。風花の純粋な眼差しに、凛は自分の複雑な感情を説明する言葉を見つけられなかった。


「大丈夫よ、風花。ありがとう」


 凛は優しく微笑んだが、その笑顔は風花の目には少し寂しげに映った。


 その頃、詩音は月詠との思い出の場所である美術室で、二人きりになる機会を得ていた。


「月詠先輩、私たちの関係について聞きたいことがあります」


 詩音の声は少し震えていた。月詠は詩音の真剣な表情を見て、静かに頷いた。


「なあに? 詩音」


「先輩は……椿先輩のことが好きなんですか?」


 詩音の質問に、月詠は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに落ち着きを取り戻した。


「そうね。私は凛のことが好きよ。でも、それは詩音のことを大切に思う気持ちと矛盾しないわ」


 月詠の言葉に、詩音は複雑な表情を浮かべた。嫉妬と諦め、そして理解が入り混じっていた。


「わかりました。ありがとうございます、先輩」


 詩音の声は静かだったが、その中に秘められた強さを月詠は感じ取っていた。


 夏休みが始まり、四人はそれぞれの場所で自分の想いと向き合っていた。凛は創作に没頭し、月詠は凛の答えを静かに待ち、風花は凛への想いを整理し、詩音は新たな可能性を探っていた。


 蒸し暑い空気の中、四人の感情は次第に熱を帯びていった。それは、まるで夏の日差しのように強く、時に影を作り出すほどの強さだった。


 ある日、凛は書いた詩を読み返していた。


「夏の光は真実を照らし

 影は心の奥底を映す

 この光と影の狭間で

 私は新しい自分に出会う」


 凛は深呼吸をした。自分の中で何かが変わりつつあることを、はっきりと感じていた。それは恐ろしくもあり、同時に期待に胸を膨らませるものでもあった。


 窓の外では、蝉の声が鳴り響いていた。その音は、凛の心の中の変化を告げるかのようだった。夏の暑さと共に、凛の心も熱を帯びていく。それは、新しい自分との出会いの予感だった。


 凛は窓を開け、熱い外気を感じながら、深く息を吸い込んだ。


「これから、私はどんな自分に出会うのだろう」


 その言葉は、誰にも聞こえない独り言だった。しかし、その瞬間、凛は確かに自分の内なる声を聴いていた。


 夏の光と影が交錯する中で、凛の新しい物語が始まろうとしていた。

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