第2章:心の揺らぎ

 五月の陽光が、新緑の葉を透かして紫霞女学院の校庭を温かく照らしていた。椿凛は図書室の窓辺に立ち、その光景を静かに眺めていた。風に揺れる若葉が、凛の心の揺らぎを映し出しているかのようだった。


「ねえ、椿さん」


 突然呼びかけられ、凛は我に返った。振り向くと、月詠が微笑みながら立っていた。その姿は、まるで絵画から抜け出してきたかのように美しく、凛は思わず息を呑んだ。


「あ、月詠さん。こんにちは」


 凛は少し慌てて挨拶を返す。月詠の存在が、最近になって妙に気になり始めていた。


「今日も素敵な天気ね。少し散歩でもしない?」


 月詠の誘いに、凛は一瞬躊躇したが、すぐに頷いた。二人は静かに図書室を出て、校庭へと足を向けた。


 歩きながら、凛は月詠の横顔を盗み見る。凛とした目つき、整った鼻筋、そして柔らかそうな唇。その完璧な横顔に、凛は自分の心臓が少し早く鼓動するのを感じた。


「椿さん、最近の創作はどう? 何か進展はある?」


 月詠の質問に、凛は少し言葉に詰まる。


「うーん、少しずつだけど……でも、まだ自分の本当に書きたいものが掴めない気がして」


 凛は正直に答えた。月詠はそっと凛の肩に手を置いた。その温もりに、凛は小さく震えた。


「焦らなくていいのよ。本当に大切なものは、急いでも見つからないものだから」


 月詠の言葉に、凛は少し安堵の表情を浮かべる。しかし同時に、その優しさに心が揺さぶられるのを感じていた。


 二人が校舎に戻ろうとしたとき、風花が走ってきた。


「椿先輩! あ、月詠先輩も」


 風花は少し息を切らしながら二人の前に立った。その無邪気な笑顔に、凛は思わず微笑み返す。


「どうしたの、風花?」


「えっと、先輩に見ていただきたい詩があって……」


 風花は恥ずかしそうに、一枚の紙を差し出した。凛はそれを受け取り、目を通す。素朴だが、純粋な想いが込められた言葉たちが、凛の胸に響いた。


「素敵よ、風花。あなたの気持ちがよく伝わってくる」


 凛の言葉に、風花の目が輝いた。


「ほんとですか? ありがとうございます!」


 風花は嬉しそうに飛び跳ねると、そそくさと立ち去っていった。その後ろ姿を見送りながら、凛は自分の中に湧き上がる複雑な感情に戸惑いを覚えた。風花の純粋さに心を動かされる一方で、自分はもうそんな風に素直になれないのではないかという不安が、心の片隅でささやいていた。


 その日の放課後、凛は一人で文芸部の部室に残っていた。窓から差し込む夕陽が、部屋を柔らかなオレンジ色に染めている。凛はペンを握り、ノートと向き合っていたが、なかなか言葉が紡げない。


(どうして、最近は書けなくなってしまったんだろう……)


 凛は深いため息をついた。そのとき、ノックの音が聞こえた。


「はい、どうぞ」


 扉が開き、詩音が顔を覗かせた。


「お邪魔します、椿先輩」


 詩音は静かに部室に入ってきた。その手には、スケッチブックが握られている。


「詩音さん、どうしたの?」


「実は、先輩にモデルになっていただきたくて……」


 詩音の言葉に、凛は少し驚いた。


「私が? でも、私なんかよりもっと適任の人が……」


「いいえ、先輩の繊細な雰囲気を絵にしたいんです」


 詩音の真剣な眼差しに、凛は言葉を失った。しばらくの沈黙の後、凛はゆっくりと頷いた。


「分かったわ。でも、あまり上手くできないかもしれないけど……」


 詩音は安堵の表情を浮かべ、凛の正面に腰を下ろした。スケッチブックを開き、鉛筆を走らせ始める。凛は少し緊張しながら、詩音に見つめられる感覚に身を委ねた。


 時が過ぎていく。詩音の鉛筆の音だけが、静かな部室に響いている。凛は、詩音の真剣な眼差しに見つめられることで、自分の内側で何かが変化していくのを感じていた。それは言葉にならない、しかし確かに存在する何か。


「できました」


 詩音の声に、凛は我に返った。詩音がスケッチブックを差し出す。凛はそっとそれを受け取り、描かれた自分の姿を見つめた。


 そこには、凛が知らなかった自分の表情が捉えられていた。繊細さの中に秘められた強さ、不安と期待が入り混じった複雑な眼差し。それは、まるで凛の心の内側を映し出しているかのようだった。


「これが……私?」


 凛の声は震えていた。詩音はゆっくりと頷いた。


「はい。先輩の中に隠れている、言葉にならない想いを描こうとしました」


 凛は息を呑んだ。詩音の言葉が、凛の心の奥深くにある何かを突いたような気がした。自分でも気づいていなかった、または気づこうとしていなかった何かを。


「ありがとう、詩音さん。この絵、大切にするわ」


 凛は微笑みながら言った。詩音も柔らかな笑顔を返す。二人の間に、言葉以上の何かが通じ合ったような気がした。


 その夜、自室に戻った凛は、詩音が描いた絵を机の上に置いた。そして、ノートを開き、ペンを手に取る。しばらくの間、凛は絵を見つめていた。そして、ゆっくりとペンを走らせ始めた。


「鏡に映る私は、知らない私

 言葉にならない想いを抱えて

 それでも、確かに在る何かを求めて」


 言葉が、少しずつだが確実に紡がれていく。凛は、自分の内側で何かが動き始めているのを感じていた。それはまだ形にならない、しかし確かに存在する何か。


 窓の外では、満月が静かに輝いていた。その柔らかな光に包まれながら、凛は自分の心の声に耳を傾け続けた。



翌日の朝、凛は少し遅めの時間に目覚めた。昨夜遅くまで言葉と向き合っていたせいか、体が重く感じる。しかし、心の中には不思議な高揚感があった。鏡に映る自分の顔を見つめながら、凛は昨夜書いた詩の一節を思い出す。


「知らない私……か」


 凛は小さくつぶやいた。その言葉が、今の自分の状況を的確に表しているように感じられた。


 教室に向かう途中、凛は月詠とすれ違った。


「おはよう、椿さん」


 月詠の声に、凛は思わず足を止めた。


「あ、おはよう、月詠さん」


 凛は少し慌てて返事をする。月詠の姿を見ただけで、心臓が早鐘を打ち始めるのを感じた。


「昨日の夕方、図書室で椿さんを探したんだけど、見つからなくて」


「ごめんなさい。文芸部の部室にいたの」


 凛は申し訳なさそうに言った。月詠はにっこりと微笑んだ。


「気にしないで。それより、放課後また一緒に過ごせたらいいな」


 月詠の言葉に、凛は顔が熱くなるのを感じた。


「うん、わかった……」


 凛は小さく頷いた。月詠は軽く手を振って去っていった。その後ろ姿を見送りながら、凛は自分の中に湧き上がる複雑な感情に戸惑いを覚えた。


(これは一体、何なんだろう……)


 授業中、凛は窓の外を見つめながら、自分の心の中を整理しようとしていた。月詠への想い、風花の純粋さ、詩音の洞察力。それらが絡み合って、凛の中で何かを形作ろうとしている。しかし、それが具体的に何なのか、まだ掴めない。


 放課後、約束通り凛は月詠と図書室で待ち合わせた。二人は静かに本を読みながら、時折会話を交わす。その空気が、凛にとってはどこか居心地が良かった。


「ねえ、椿さん」


 月詠が突然声をかけてきた。


「何かしら?」


「椿さんは、自分の性的指向について考えたことある?」


 月詠の唐突な質問に、凛は息を呑んだ。


「え……それは……」


 凛は言葉に詰まる。月詠はそんな凛の様子を優しく見つめていた。


「私ね、自分がレズビアンだってことに気づいたとき、すごく怖かったの。でも、自分を受け入れることで、本当の自分を見つけられた気がするの」


 月詠の言葉に、凛は動揺を隠せなかった。自分の中にあった漠然とした違和感が、少しずつ形を持ち始めるのを感じた。


「私は……わからない。でも、最近自分の中で何かが変わりつつあるのは感じているの」


 凛は正直に答えた。月詠はそっと凛の手を取った。


「焦らなくていいのよ。自分と向き合う時間は、人それぞれだから」


 月詠の温かい手に包まれて、凛は少し安心感を覚えた。しかし同時に、自分の内側で何かが大きく揺れ動いているのも感じていた。


 その夜、凛は再び自室で言葉と向き合っていた。ペンを握る手が少し震えている。


「私の中の、まだ見ぬ私

 隠された想い、芽吹く感情

 それは春の風のように、静かに、しかし確実に……」


 言葉が紡がれていく。凛は、自分の内なる声に耳を傾けながら、ゆっくりとではあるが、確実に自分自身と向き合い始めていた。


 窓の外では、満月が優しく輝いていた。その光に照らされながら、凛は自分の心の奥底にある、まだ名付けられていない感情を探り続けた。


 それは、新しい自分との出会いの始まりだった。

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