【学園百合小説】紫霞の囁き、あるいは四季が織り成す愛の詩篇

藍埜佑(あいのたすく)

第1章:春の序曲

 淡いピンク色の桜の花びらが、そよ風に乗って舞い散る4月の朝。紫霞女学院の校門に向かって歩む椿凛の長い黒髪が、春の柔らかな光を受けて艶やかに揺れていた。凛は足を止め、校門の傍らに立つ古木の桜を見上げた。


「今年も、きれいに咲いたね……」


 独り言のように呟いた声は、儚げで、どこか寂しげだった。凛は深呼吸をし、胸の内にある言葉にならない想いを押し殺すように、ゆっくりと前に進み出した。


 教室に向かう廊下で、凛は何人もの後輩たちから挨拶を受けた。


「おはようございます、椿先輩!」


「今年もよろしくお願いします!」


 凛は優しく微笑みながら頷き返す。しかし、その表情の奥底には、かすかな緊張の色が漂っていた。文芸部の部長として、そして昨年の文芸誌で高い評価を受けた作家として、周囲からの期待は以前にも増して大きくなっている。その重圧が、凛の繊細な心を少しずつ蝕んでいた。


 教室に入ると、クラスメイトたちの明るい声が飛び交っていた。凛は静かに自分の席に着き、窓の外を見つめる。桜の花びらが風に舞う様子は、まるで凛の心の中で渦巻く不安と期待を表現しているかのようだった。


「ねえ、凛。今年の文芸誌のテーマ、もう決まったの?」


 隣の席の友人が声をかけてきた。凛は一瞬、言葉に詰まる。


「ごめん、まだ……考え中なの」


 凛は申し訳なさそうに微笑んだ。実際には、いくつものアイデアが頭の中を駆け巡っていた。しかし、それらはどれも凛の本当の想いを表現できていない気がして、筆を執る勇気が出ないでいた。


 朝のホームルームが始まり、担任の先生が新学期の挨拶を述べる。凛はその言葉を聞きながら、ふと自分の手元のノートに目を落とした。そこには、昨夜書きかけた詩の断片が書かれている。


「私の中で、言葉にできない何かが、静かに、でも確実に芽吹いている……」


 凛は密かに息を呑んだ。この言葉は、まるで自分の心の奥底にある想いを映し出しているようで、少し怖くなる。しかし同時に、この言葉に惹かれる自分がいることにも気づいていた。


 放課後、凛は文芸部の部室に向かった。開けた扉の向こうには、すでに数人の部員たちが集まっていた。凛が入室すると、皆の視線が一斉に彼女に注がれる。


「部長、おかえりなさい!」


「今年も、よろしくお願いします!」


 歓迎の言葉を受け、凛は優しく微笑んだ。しかし、その笑顔の裏で、彼女の心は複雑に揺れ動いていた。期待に応えなければならないという責任感と、自分の本当の姿を表現できないもどかしさが、胸の内で衝突していた。


「みんな、今年もよろしくね。さて、新入生の勧誘について話し合いましょうか」


 凛は自然と部長としての口調になる。しかし、その言葉を発している間も、彼女の心の片隅では、別の言葉が囁いているのだった。


(私は、本当に自分の言葉で語れているのかな……)


 会議が終わり、凛は一人部室に残った。窓から差し込む夕陽が、部室内を優しく染め上げている。凛はゆっくりとペンを取り、ノートを開いた。


「言葉にならない想い、それは春の芽吹きのように……」


 凛は書きかけてペンを止めた。この詩が、自分の内なる何かを表現しようとしているのは分かる。しかし、それが具体的に何なのか、まだ掴みきれない。


 凛は深いため息をつき、顔を上げた。そのとき、部室の扉がゆっくりと開く音がした。


「失礼します。文芸部はこちらでしょうか?」


 凛は声のする方を振り向いた。そこには、まだあどけなさの残る顔立ちの少女が立っていた。大きな瞳が凛をまっすぐに見つめている。


「はい、そうよ。入部希望かしら?」


 凛は優しく微笑みかけた。少女の目が輝きを増す。


「はい! 私、風花と言います。椿先輩の作品に憧れて、この学校に入学したんです!」


 風花の言葉に、凛は一瞬戸惑いを覚えた。自分の作品に憧れて……その言葉が、なぜか胸に刺さる。


「そう……ありがとう。でも、私はまだまだよ。風花さんも、自分の言葉を大切にしてね」


 凛はそう言いながら、風花の純粋な眼差しに、どこか懐かしさを感じていた。かつての自分を見ているようで、少し切なくなる。


 その日の帰り道、凛は図書室に立ち寄ることにした。新しい本を探すというよりは、自分の心を整理する時間が欲しかった。静寂に包まれた図書室で、凛は本棚をゆっくりと眺めていく。


 そのとき、背後から声がかかった。


「椿さん、こんなところで会うなんて奇遇ね」


 凛が振り向くと、そこには生徒会長の月詠が立っていた。凛よりも少し背が高く、短い黒髪が凛とした印象を与える月詠は、どこか近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。


「月詠さん……こんにちは」


 凛は少し緊張しながら挨拶を返した。月詠は凛の手元の本に目を向けた。


「吉屋信子の『花物語』? 素敵な選択ね」


 月詠の唇が、かすかに微笑みを浮かべる。凛は思わず本を胸に抱きしめた。


「ええ、昔から好きな作品なの」


「女性同士の繊細な関係性を描いた名作よね。椿さんの作品にも、そういう繊細さを感じるわ」


 月詠の言葉に、凛は顔が熱くなるのを感じた。自分の作品の本質を見抜かれたような気がして、少し怖くなる。しかし同時に、理解されたという安堵感も芽生えていた。


「ありがとう……でも、私はまだ……」


「謙遜しなくていいのよ。あなたの才能は本物だと思う」


 月詠の真っ直ぐな眼差しに、凛は言葉を失う。その瞳の奥に、凛は何か新しいものを感じ取っていた。


 二人は図書室を出て、夕暮れの校庭を歩いていた。桜の花びらが、オレンジ色に染まった空を舞っている。


「ねえ、椿さん。あなたの作品には、何か隠されたメッセージがあるように感じるの」


 月詠の言葉に、凛は足を止めた。心臓が早鐘を打つのを感じる。


「それは……どういう意味?」


「言葉の奥に、まだ言葉になっていない想いを感じるのよ。それは……」


 月詠は言葉を選ぶように一瞬黙り、そして静かに続けた。


「自分自身への問いかけのようにも感じるわ」


 凛は息を呑んだ。月詠の言葉が、凛の心の奥深くにある何かを突いたような気がした。自分でも気づいていなかった、または気づこうとしていなかった何かを。


「私は……まだ分からないの。自分が本当に表現したいことが」


 凛の声は震えていた。月詠はそっと凛の肩に手を置いた。


「焦らなくていいのよ。その答えは、きっと自然とあなたの中から生まれてくるわ」


 月詠の言葉に、凛は少し肩の力が抜けるのを感じた。二人は再び歩き始める。夕暮れの光が二人の姿を優しく包み込んでいた。


 その夜、自室のデスクに向かった凛は、新しいノートを開いた。ペンを握る手が少し震えている。しかし、凛は深呼吸をして、ゆっくりとペンを走らせ始めた。


「春の風に乗って、未だ名づけられぬ想いが芽吹く……」


 凛は書きながら、自分の内側で何かが確かに動き始めているのを感じていた。それはまだ形にならない、しかし確かに存在する何か。凛は、その何かをいつか言葉にできる日が来ることを、密かに、しかし強く願いながらペンを走らせ続けた。


 窓の外では、夜桜がそっと花びらを揺らしていた。新しい季節の始まりを告げるように。

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