第18話 平穏と困り事

 ヴェルデの診察から約一ヶ月が経過した。その間、健康診断の結果を渡しに来たヴェルデや、不定期に姿を現すハイシュが居たりとちょっとした出来事はあったものの、概ね何ごとも無く、平和な時間が流れていた。


 一ヶ月前に新たに屋敷にやってきた使用人たちも、屋敷での仕事や人間関係にもすっかり慣れてきていた。

 ノワールから伝えられていた『要望を考えて主人に伝える』という指示に関しても、ロンドを除く全員が既に達成している状況だった。


 また新人使用人の一部は、同行者は必要だが領地の街へ行く許可も降り、いつの間にか用意されていた給金で買い物を楽しんでいた。


 新人を指導している古参使用人たちも、仕事を教える量も一旦は落ち着き、それぞれが自身の時間を多く確保できるようになり穏やかな日々を過ごしていた。


 そんな中、この屋敷の主はというと――。


「困りましたね……」


 執務室にて、書類を読み上げたアイシャの前で唸り声をあげていた。


「そうですね……私含め定期的に通ってはいるもののまだ……」


 主と使用人が首を捻っている中、不意にコンコンと執務室を叩く音がした。ノワールが「どうぞ」と扉に向かって返した時には、アイシャが既に扉の前まで移動しており、部屋の外にいる声の主が扉を開けるより前に、アイシャが扉を開いた。


「わっ……アイシャさん! あっ、あの、すみませんノワール様。お仕事の途中に……」

「エミル、どうかしましたか? 急ぎの用事?」


 扉の前に姿を現したのは、教材を胸に抱えた幼い少年、エミルだった。入り口で立ち往生していると、アイシャが中に入るように促し、おずおずといった足取りで執務室へと入っていく。

 中に入ったエミルは、体躯たいくと全く合っていない大きな椅子に腰掛けているノワールの前まで行って立ち止まる。ノワールとエミルの間にある机には見たこともない書類や本が少し積まれていた。

 エミルがノワールの方へ目を向けた時、見えていないはずなのに、顔の向きは正確にエミルの方を向いていた。心配するような表情をしていることに気付き、慌ててエミルは口を開いた。


「あっその、急ぎ、ではないんですけど……その分からない問題があって……今日はリズさんたちもいなくて聞ける人が誰もいなくて、それで…………あの、僕やっぱり――」


 段々と声が弱々しくなっていったエミルは、こんなことを主人に聞くのは自身の立場から考えてやはりおかしいと考え直し、なんとか部屋を出ていこうと話を切り上げようとした。

 しかし、自身の話を途中まで聞いて、心の底から安心した様子でノワールが胸を撫で下ろしている様を見て、すぐに言葉が出せなかった。

 そのせいか、エミルの考えも虚しく、今度はノワールが口を開く。

 

「そういうことね、安心しました。ずっと勉強に励めているようで何よりです。アイシャ、申し訳ないけれど頼めるでしょうか」

「お任せくださいませ。それでは、エミルさんの分からない所はどこですか?」

「えっ、い、いいんですか……? 今お忙しい所だったんじゃ……」

「まだ色々考え始めたばかりなので、全く問題ありませんよ。それに、エミルのことも大事なことですから」

「あ……その、ありがとうございます。アイシャさん、お願いします」


 にこりと微笑みかけてくるノワールに、エミルは少し見惚みとれたかと思うとすぐに頭を振って教材をペラペラとめくり始める。やがてその手を止めると、隣にやってきたアイシャに指を差して示す。


 アイシャは開かれたページを見ながらエミルから疑問点の説明を受けると、一瞬考える素振りを見せ、すぐにスラスラと説明を始めた。エミルは初めのうちは難しい顔をしていたが、次第に表情を明るくさせていった。


「――そのため、このようになります。この説明で分かりましたか?」

「はい! 凄く分かりやすかったです! ありがとうございます!」

「これだけの説明で分かるまで、エミルさんが学ばれていたお陰です」

「やはりアイシャは頼りになります。それとエミルも、勉強熱心で大変良いことです。他には無いですか? 教材を見ることができないので、引き続きアイシャに答えてもらうことになりそうですが……」


 力なく笑いながらノワールはまたエミルに問いかける。エミルは口を開きかけて一度閉じる。その様子はアイシャにしか伝わっておらず、不自然な沈黙にノワールは首を傾げる。


「えっと……無いのであれば、戻っても大丈夫ですが……」

「いえ、何か伝えようとしていますが、言葉か内容かで悩んでいるように見えます」

「あ、アイシャさん!?」

「主様が不安に思われますので」


 素知らぬ顔でそうのたまうアイシャに、抗議の声を上げるも二人の主人はノワールだ。アイシャの行動は、従者として何ら間違っていない。そのことに気付いたエミルは閉口せざるを得なかった。

 安心したノワールは、机の上で両手を組みエミルが話を始めるのを待つ体勢に入る。こうなってしまっては、エミルとしても観念するしか無くなり恐る恐る口を開く。


「そ、その……お二人が何を話していたのかなって思っただけ、なんです……」

「なるほど、そのことでしたか。その話でしたら、私でもお話できますね。アイシャ、あの手紙をエミルに」

「畏まりました」


 なんてことは無いように話すノワールに、聞いてはいけないことでは無かったと今度はエミルが胸をなでおろした。アイシャが机に置いていた紙を手に取り、エミルへ手渡す。


「これは……?」

「国から直々に送られてきた手紙です。といっても、こちらの屋敷に届く手紙は無いのですが……読めますか?」

「まだ所々読めないですけど……誰か領地に来る……?」

「そうです。以前お話した、とある少女の昔話にもあった領地の視察、ですね。もうすぐこの対応が必要なのですが、困ったことがあって」

「領地? のことはよく分からないですけど……どういう問題が……?」

「そうですね……どう説明しましょうか……」


 ノワールが椅子に座ったままくるりと逆を向く。そして椅子から立ち上がると、考える仕草をしながらエミルとアイシャの近くまでやってくる。


「まず……この屋敷が領主邸宅の別邸……領主が本来暮らしている所ではないということはご存じですか?」

「え……? で、でもノワール様はここに……」

「そうですね。つまりは、私ではない別の領主がいるということなんですが……一先ず座りましょうか」


 ノワールはそこまで説明すると、休憩用に設置しているソファに向かっていきアイシャとエミルに座るように促す。エミルはノワールに連れられて腰掛けるが、アイシャは「お茶を淹れて参ります」と言って部屋を出ていった。

 

「では……アイシャは事情を把握していますし、話を続けますね。少女の昔話に出てきた、叔母の娘のことを覚えていますか?」

「えっと確か……最後は仲良しになったっていう……?」

「そう! その子です! 少女とその子が別れて暮らすようになった、というのは覚えていますか?」

「あ、覚えています」

「良かった。実は、表に出る役割を担っていたその子が本邸、裏で仕事をする少女が本邸を出てここ、別邸へ引っ越したんです」


 約一ヶ月前の話をなんとか思い出しながら話を頑張って聞いているエミルに、ノワールは微笑ましい気持ちになりながら手を組んでまた話始める。


「叔母の娘のみが本邸で暮らすようになってからは、彼女が貴族として、領主として振舞うようになりました。勿論双方同意の上です。年齢も近い二人は、両親も居なくなっていて内部事情がごたごたしていたこともあって、入れ替わるのは思っているより簡単でした」

「入れ替わる……」

「ただそうなると、彼女が貴族でもあり領主でもある立場となる以上、子孫も残していかなければなりません。少女は子を作れない状況にある、というのもありましたからね。その子は、そんな自身の人生に関わる重大なことも快諾してくれました。叔母たちがしたことへの贖罪しょくざいのつもりもあったのでしょう。とても幸いなことですが、結果として、叔母の娘はその後政略結婚でありつつも良きパートナーを見つけ、子を為しました。そうして、何とか少女の家を継いでくれていたんです。ここまで良いですか?」

「は、はい。大丈夫、です」


 ノワールは、今エミルが浮かべている難しい顔を見ることはできない。それでも、恐らくそんな顔をしているのだろうと察していた。少し待って、ノワールは話を再開する。


「そうして何代か続き、今も彼女の……曾孫ひまごでしたか玄孫やしゃごでしたか……とにかく、叔母の娘の家系は続いて今も生きていて、領地の本邸で暮らし、領主として生きているんです」

「なるほど……で、では視察も特に問題無いのではないでしょうか……? …………まさか、その領主様が何か良くないことをしている、とかですか?」


 領主が居るのに視察に来られては困るという以上、見られてはいけないものがあるのではと疑うのは当然の帰結だ。だからこそ、事情を知らないエミルがそう結論づけるのも無理からぬことであった。


 ノワールは珍しく何かを言い淀む様子を何度か見せると、一度深い溜息を吐き、いつもとは少し違う、低い声で苦悩を吐き出した。


「……領主が屋敷を出ていっておりまして…………本当にどうしましょうね……」

「…………え?」


 やがてお茶と菓子を用意したアイシャが戻り、落ち込んでいるノワールをエミルと二人で励ました。ノワールが立ち直るまでには、それなりの時間を要したのだった。

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