第6話 兄弟喧嘩と仲裁
屋敷のとある一室。二人の兄弟は、屋敷内の人間のほとんどが寝静まっている夜更けに、小声で話し合っていた。
そこには、提案するエミル、そしてその提案に反対するロンドの姿があった。
「ダメ。何回言ってもダメなものはダメ。そういう人間を信じた結果が前回のあれだったんだ。今思い出してもっ……!」
「で、でも、ノワール様もリズさんもあの人たちとは違う人だよ」
「いいや、俺たち奴隷を買う金持ちなんてみんなあんなもんだ。俺はエミルに同じ思いをしてほしくなくてだな」
「僕のことはいいよ! 兄ちゃんはどうなの? 兄ちゃんが傷付きたくないだけなんじゃないの!?」
いつの間にかヒートアップしていた兄弟は少しも潜めていない声で言い争いを始めていた。
すると、ある意味で当然ともいえる結果が待っていた。
コンコンと扉が叩かれた。兄弟の肩が跳ね、そろりと扉へ視線を注ぐ。
暫しの沈黙の後、再度ノックの音がなる。どうするか兄弟が悩んでいる合間にも何度か控えめなノックが鳴ったが、やがて扉から離れていく音がして兄弟は胸を撫で下ろした。
「……とにかく、早くこの屋敷から出るべきだ。長く居たら出にくくなるだろ」
「僕はもっと色んな事を勉強したいよ。それに、兄ちゃんもついでだとか言いながら今日リズさんに色々聞いてたでしょ?」
「それは……そうだけど……」
何度か返答に窮すことがあっても、お互いに主張を譲らない。あーだこーだとまた言い争っていると、またドアを叩く音がした。
「ロンド様、エミル様、言い争いをしているようだと相談を受けたので伺いました」
聞き覚えのある声に、兄弟は顔を強張らせた。今日一日仕事を共にしたリズの美しい声を忘れることはなく、二人はまた慌て始める。
「…………静か。カイル様、こちらで間違いはありませんか?」
「は、はい間違いないです」
「畏まりました」
再度控えめに叩かれるドアへと目を遣り、次いで顔を見合わせる兄弟。ロンドは首を横に振るが、エミルは扉へと歩いていこうとする。勿論そんなエミルをロンドが止めない訳もなく、腕を掴む。エミルはその手を振り払って行こうとする。すると、ロンドの掴む力は少しずつ強まっていく。
やがて、痛みを感じるほど強く掴まれた腕を、エミルは思いきり振り払った。ロンドは目を丸くしていたが、その直後に振り払った反動で転倒したエミルが大きな音を立てた。それが決め手となった。
「! 失礼致します。カイル様も私の後で中へ」
「わ、わかりました」
リズは迷う素振りもなく部屋へと入っていく。その後ろに付いていく形でカイルも共に部屋へと入る。
そして転倒しているエミルを見つけると、リズは駆け寄り、優しく抱き起こした。
「エミル様、お怪我はありませんか?」
背中から転倒したエミルは何度か咳き込みながら、やがて絞り出すような声で「大丈夫です」とだけ返す。
ロンドは、リズとこの部屋に入ってきたもう一人の人間の顔をチラリと見た。度々顔は見る機会はあるが、話したことはない。歳も近しく感じるが、特に馴れ合う必要も無いと思っていただけに話したことはない。
特に交流も無いのに、こんな時にリズを呼ぶなんてと、逆恨みもいいところなことを考えてしまう。そんな考えが頭に浮かんだところで、ロンドはカイルに向けていた視線を反らした。
エミルの背中を擦るリズに、ロンドは顔を向けられずにいた。自分もエミルもノワールの所有物であり、主人の物が反抗して主人の所有物を傷付けたともすれば、あの主人に仕えるリズが怒らないとも思えない。
リズの事はそれほど邪険にしておらず、むしろ好ましく思っているロンドは、余計に罰が悪かった。
「ロンド様も、お怪我はございませんか?」
だからこそ、急にそう呼び掛けられて、心配する言葉をかけられたロンドは困惑した。どう見たってエミルに手を挙げたのは自分だろうと不貞腐れた答え方にならないように、聞かれたことにだけ答える。
「……大丈夫」
「畏まりました。それではもう少しエミル様の状態を確認し、確認済み次第下がります。カイル様、この場は私が残りますので、お部屋にお戻りいただいても結構でございますが、いかがされますか?」
「えっ? えっと……じ、じゃあ戻りますね……」
「畏まりました。お休みなさいませ」
カイルは少し悩む素振りを見せたが、大人しく戻ることを選択し、足早に部屋から出ていった。
その後、リズはエミルの具合を確認し、本当に問題ないことが分かると「夜はお静かに」と一言だけ注意を促して立ち去ろうとする。
そんなリズを呼び止めたのは、意外にもロンドだった。
「なあ」
「? どうかなさいましたか?」
呼び止められるとも思っていなかったリズは、一瞬だけ反応が遅れながらも応答した。呼び止めた張本人はというと、次の言葉が出て来ないのか口を開いては閉じを何度か繰り返す。
リズは催促するでもなく、立ち去るでもなく、ロンドが発せられる言葉をじっと待ち、ロンドもその視線に負けて絞り出すように言葉を紡いだ。
「…………お、こらないのか」
「怒る、ですか? ……理由が特にございません」
「だって俺が! ……エミルに怪我させるところで…………あんたの主人の物だろ」
「……それでは、エミル様はお怒りでしょうか?」
「えっ僕!? えっ、えーいや……ま、まぁ手ちょっと痛かったからもうしないでね……後転けたのは僕がどんくさかっただけだから特に…………」
「エミル様はお怒りではないご様子ですので、問題ないかと思います」
「いやでもそれはエミルが、だろ! 奴隷の飼い主の考えなんて――」
「いいえ」
ロンドの主張は、リズのぴしゃりとした否定により最後まで言えなかった。もしかして怒っているのかと顔を見てみれば、今までに見たことがないほどに優しげな微笑みを浮かべていた。
「ご主人様は、今までの主人とは違いますよ」
それだけ言い残し、礼儀正しくお辞儀をすると、リズは颯爽と部屋から出ていった。
痛みも引き、立ち上がったエミルは兄へなんと言葉をかけていいか分からなかった。
そもそもこんな事態になったが、事の発端の話はまだ決着がついていない。
どう話を切り出すかエミルが悩んでいると、先にロンドが口を開いた。
「……兄ちゃん、その」
「…………だーもう! 分かったよ! そこまで言うならあの主人の本性を確かめてやる。それまではここに居る、これでいいな?」
「! 兄ちゃん!」
「ふん、ろくでもない人間だって分かったらとっとと出ていくからな」
「ありがとう兄ちゃん!」
*****
「本日のお仕事はどうでしたか? リズ」
もう日もとっくに跨いだ頃、ノワールとリズは厨房に居た。厨房に忍び込もうとしていたノワールは、その瞬間を発見したリズに暖めてもらったミルクをちまちまと飲みながら話題を振る。
「午前中は想定以上の進みでしたが、午後はあまり身が入っていないようでした」
「そうなの、ふふ。それで、後輩に色々教えるのは、良い経験になったでしょうか」
「どう……でしょうか。どう伝えれば良いか、他者への伝え方をよく考える機会が増えるので、頭をとても使います。嫌というわけでもありません。後は……私が考えを纏め終えた後、説明をしようとする前に気まずそうな顔をされているのが少し気がかりです」
「気まずそうな顔、ですか?」
リズの癖をノワールは知らない。リズと話すとき、時折沈黙の時間が生まれることを知ってはいるが、勿論その理由についても把握している。まさかその沈黙の間、ずっと目を見つめられ続けているとは露ほどにも思っていない上、リズの容姿についてもよくは知らない。
それでもリズの懸念を解消できるならと頭を捻っていたノワールがそのまま考えを吐き出す。
「うーん……もしかしたらリズが何か考えている最中ということが初めて接する人だと分からない……とかでしょうか。声をかけて突然無言だとやはりびっくりしてしまう、とか……考えをまとめる前に一度相手に伝えてみるのはどうでしょう」
そのノワールの案は、あながち見当違いというほどでも無かったが今回に限っては正解とするには賛否があるだろうものだった。
それでも、リズとしても思うところがあったのか、信頼の置いている主の言うことだからなのか、二つ返事で了承した。
「全くの見当違いだったら申し訳ありませんけれど……それでは、リズは引き続き教える仕事をしてみましょう。お互いの為にもなっているようですし、性に合っているかもしれません。リズはとても勉強熱心ですから」
「ご主人様に拾っていただけたお陰です。ここでご主人様にも、先輩方にもたくさんのことを教えていただいて、この言うだけでは足りないの感謝の気持ちを、どのように伝えたら良いのか……」
「気にしないで良いんですよ。私も、他の皆もそうしたかっただけなのですから。それよりも……私は貴女を拾ったつもりはありませんよ。出会って招いた、と言い直すことにしましょう、ふふ」
「畏まりました」
和やかな雰囲気で弾んでいた会話だったが、中身が空になったコップの縁を何度か指でなぞりながら、探るようにノワールがまた言葉を発した。
「リズは……ここから、この屋敷から出た時の事を考えていますか?」
「……? 私に外出の用事は無かったと記憶してますので、特には考えておりません」
「ああ、ごめんなさい、言い方が悪かったですね。この屋敷ではない別のところで働くことは考えていますか?」
質問の内容を誤って解釈したリズは、僅かな迷いすらなく答えた。
「いいえ、まだまだ未熟者ですので、外に出られることを選ばれた方々のようには参りません。それに、仮に熟達したとしても、私はご主人様の元で、ここで働き続けたいです」
「そう……いえ、変なことを聞きましたね。忘れてください」
「いいえ、ご主人様と共にした時間は一分一秒を取っても私にすれば宝物です。ご命令とあっても忘れることはできません」
「あらあら! そんなに嬉しいことも言ってくれるようになっちゃって」
満面の笑みで照れたように笑うノワールを、リズは目に焼き付け、記憶に刻み付け、心に残していく。
「それじゃあ私もお部屋に戻ろうかしら。今日はなんだか、リズのお陰で良い夢が見れそうですから」
「お力になれておりましたら何よりでございます。お部屋までお送りします。少々お待ちください」
ノワールが席を立つ前に、リズはミルクの飲み干されたコップを回収し洗いにいった。ノワールは礼を述べ、リズが戻ってくるまで座って待つ。
少し離れた所から聞こえてくる水音を聞いていたノワールは少し俯き、哀しげな表情で呟いた。
「私の元ではないどこかで、という意味だったけれど……やっぱりリズには言えないかぁ……」
その小さな独白も、哀しげな表情も、やがてリズが戻ってくる頃には、すっかりノワールの心の奥底へと押し込められていたのだった。
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