第4話 平和な朝と新たな願望
明朝。
そろそろ誰か起きる頃かと考えたノワールは、静かに自室から出た。静寂に包まれているようで、耳を澄ませば朝から働いている者たちの労働の物音が僅かに聞こえてくる。
階段を下り、誰に会うこともなくそのまま玄関を出ると、
「ナイラ?」
「……おー、流石はご主人。私がここにいることを見抜かれているとは」
「楽しそうな音が聞こえたから……朝から剪定作業ですか?」
「いいえ、鋏女の真似です」
「は、はさみおんな……それはどういう人ですか?」
「何も切ってない時も、つい鋏をシャキシャキ鳴らしてしまう化物です。私が考えました」
「まぁ怖い、ふふふ」
「大丈夫です、ご主人。私が守るから安心して欲しい」
「それはとても頼もしいわ、ありがとうございます」
庭にいた銀髪の女性、ナイラは剪定鋏を持って空を何度も切っていた。静かな朝に、甲高い音が一定のリズムで響く。
ノワールは少しの間その音に耳を澄ましていたが、やがて誰かが近付いてくる音に気付いた。
「アイシャが来ましたね」
「あ、やばい。ご主人助けて」
「あらあら」
「こらナイラ! いつまで遊んで……あ、主様!?」
ノワールの後ろに身を隠すナイラ。アイシャの怒号はノワールの存在に阻まれ、行き先を失っていた。
アイシャはノワールの手前強く発言できず、ナイラも胸を撫で下ろしていた。
「ごめんなさい、少しナイラをお借りしていました。話し相手になってくれていたんです、そう責めないであげて?」
「あ、主様がそう仰るのであれば……」
「それと、お仕事の呼び出しなら、ナイラとのお喋りも一旦ここまでね」
「うん、ありがとご主人。またお礼しなきゃポイントが増えたから、いつでも頼って」
「ふふ、お礼なんてむしろ私がしないといけないのに……ちなみに、どれくらい貯まってるんでしょうか、その、お礼しなきゃポイント、というのは?」
ノワールの問いに、ナイラは両手をいっぱいに広げて大きな円を何度も描く。
「もうこんなに。この屋敷よりも遥かに大きい。だからいつでも呼んで。それじゃあ働いてきます」
「はい、よろしくお願いします…………そんなに何かしたでしょうか……?」
マイペースなナイラは、アイシャの視線から逃げるように、足早に屋敷へと戻っていった。
ナイラと一緒に屋敷に戻るのだろうと思われたが、アイシャはこの場に留まり、ノワールへと話しかける。
「主様も中に戻られますか?」
「そうですね、戻りましょう。それと後で、新しく来たみんなが起きて、朝食等諸々済ませてからで良いので、中広間に集まるようお伝えしてもらえませんか?」
「心得ております。昨日の内に、各自部屋に案内した際に段取りを伝えてあります。集合場所は中広間、時間は九時頃を目処にしておりますが、皆の様子を見て適宜ご連絡いたします」
「まぁ! まるで私の考えが分かるようで驚きました。ありがとうございます、その流れでお願いします。いつも苦労をかけますね」
「そんな苦労なんて、滅相もありません」
「……ふふ、私もみんなにお礼しなきゃ量が貯まりっぱなしです。では、戻りましょうか。ついでにもう一つお願いがあって、手を引いてもらえませんか? ちょっと今どこに立ってるのか立ち位置が曖昧になってしまって」
「畏まりました……それではお手を拝借します」
アイシャは恐る恐るノワールが差し出した手を取り、屋敷へと戻っていった。
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「欲しいものやして欲しいこと、そういった要望を考えて、私に教えてください」
時刻にして九時過ぎの中広間にて、集められた人間たちは主人の言葉がいまいち理解できず目を瞬せていた。
「……申し訳ございません。仰ってる意味がよく……」
「難しく考えなくて大丈夫ですよハイン。あれがしたいこれがしたい、あの原理を学びたいこの技術について学びたい、あの服が欲しいこの宝石が欲しい。そういった要望を教えていただきたいのです」
困惑してる中、年配の男性ハインが代表して問いを口にするが、ノワールからの返答を聞いても、未だに理解が追い付いていないようだ。
厳密に言えば、質問の内容は分かるが意図が読めない、ということだった。
ハインは、ノワールの機嫌を損ねないようにと慎重に言葉を選びながら
「例えば……その例えば、腰が痛いというのを何とかしたい……というようなことでもよろしいのでしょうか……?」
「あ……ええと……ハインは腰を痛めているのですか?」
了承の答えが得られなかったハインは、内心慌てつつ主人に聞かれたことに答える。
「あ、はい。その、こういう身分ですので、自分の場合は重労働もしていたので……」
「なるほど、ありがとうございます。ではヴェルデに……今この屋敷には居ませんが、医者として外で働いている者がいますので、なんとか時間を取ってもらうよう伝えておきますね。他にも調子の悪いところがある人は教えていただけますか?」
「よ、よろしいのですか?」
「勿論です。むしろごめんなさい、私が至らないばかりに気付くのが遅れました」
深々と頭を下げるノワールに、ハインは今度こそ目に見えて慌てた。この主人の距離感、対応、気遣いはなんだという疑問に包まれ、なんとか言葉を絞り出す。
「で、ですが既にこんなにしていただいて……」
ハインは、この屋敷に来るまでの自分からは想像もつかない程身綺麗な自分が鏡に写っているのを見たとき、あまりの現実味の無さに暫し呆けていた事を思い出しつつ、不思議な主人へ言葉をぶつける。
しかしノワールはその言葉に、さも当然というような顔をした。
「皆様の生活環境改善は私の勤めであり義務です。今は慣れないかもしれませんが、少しずつで良いので慣らしていきましょう。それで他に――」
ノワールが見た目からこれまでの主人と異なることは明白だった。とはいえ過去の主人に、ノワールと変わらないぐらいの娘がいるところもあった。その娘は主人と同様の対応を自分たちに向けてきたものだ。
――しかし、この新しく幼い主人はなんだ?
昨日よりも強く、そんな疑問がこの場にいるノワールと使用人を除くほぼ全員に浮かんでいた。
「皆の前で言いづらい人もいるかもしれませんね……後で一人ずつ伺うのでその時でいいでしょうか。私では恥ずかしい、男性に伝えたいという人はセバスチャンに対応していただくよう伝えてますので安心してください。…………ええっと何の話をしていましたか……?」
「要望の話です、ご主人様」
「そうでした、ありがとうリズ。お願いしたいことは、別に今すぐでなくて構いませんので、必ず何か一つは教えて下さい。死者を生き返らせたり若返らせたりと不可能なことは申し訳ないのですができません。ただ極力叶えられるよう取り計らいます」
「か、叶えてくださるんですか!?」
「余程難しくない限りは、尽力することを約束します」
少しざわめく声が上がり始めた中広間だったが、一人の少年がノワールの前に歩みでたことで静寂が戻った。
「あの、いいですかノワール様」
「おいやめろって!」
歩み出るエミルの手を掴んでロンドが声をあげた。少し強く掴んでいるのかエミルの顔が少し歪むが、歩みは止めなかった。
「エミルね。構いませんよ。ロンドも?」
「……違う。エミルに深入りして欲しくないだけだ。…………勝手にしろ」
掴んでいた手を話すと、ロンドはそっぽを向いてしまった。まだ屋敷に来て一日も経っていないにも関わらず強気な態度を取れるロンドに、ノワールは微笑ましさを覚えていたが、この広間に一人だけいる金髪の使用人――リズは真顔で佇んでおり、他の者は肝を冷やしていた。
それもどこ吹く風と微笑みを絶やさないノワールは、場の空気を無視して話を続ける。
「嫌われていますね私、ふふ。では……エミルはこの場でいい? 場所を変えることもできるけれど」
「あ、えとここで大丈夫です」
「そう、分かりました。要望でしょうか、それとも体調が悪い?」
「その、お願いしたい事です」
「ありがとうございます、では聞かせてください」
「は、はい。その……」
エミルは一度言い淀んだが、意を決したように顔を上げ、射貫かんばかりの眼光でノワールへと目線を向けた。
「その、僕……勉強したいんです!」
その言葉にノワールは今日一番に嬉しそうな表情を浮かべて、反対にロンドは首を傾げていた。
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