第3話 外交官と土産話

 入浴の時間も済み、屋敷に来たばかりの不馴れな面々は各使用人にそれぞれの部屋へと案内されていた。


 ノワールは便乗して付いていこうかとも思ったが、流石に仕事の邪魔をしてはいけないと思い直し、自室へと戻っていた。

 大きな物といえば、分厚い本のような物が綺麗に並べられた机と、小道具もきっちり整頓されている鏡台、そしてノワールが一人で寝るにはかなり大きなベッドがあるぐらいで、後は椅子がいくらか置いてあるだけの部屋。それがノワールの自室だった。

 

 ベッドに腰掛け、そのまま仰向けに倒れこみ、ノワールは思考の海へと沈もうとしていた。


 ――コンコンコン。

 二階にあるノワールの部屋の窓がノックされた。バルコニーに続く窓には人影があるが、ノワールに見えるはずはなかった。

 しかし、ノワールは驚く様子もなく返事をしながら身を起こす。


「開いていますよ」

「うん、知ってる」

「でもノックはするんですね」

「ばあ様もうら若き女性だからね。不法侵入はちょっとね」

「ふふ、では私の呼称と言ってることが噛み合っていないのではありませんか? おかえりなさいハイシュ」

「うん、ただいまばあ様」


 開かれる窓の前で待っているノワールを、バルコニーから入ってきた長身の男性がふわりと包み込むように優しく抱きしめる。ノワールと身長差が著しく、ハイシュがしゃがみ込む形にはなるが、お互いに慣れた動きで抱擁を交わす。

 暫しの間そのまま静止し、やがてどちらからともなく離れた。


「今回はどこまで行ってきたの? お話聞かせてくれるんでしょう?」

「うん、そのつもりだったんだけど、ばあ様疲れてない? 確か、今日は新人を迎える日だったでしょ?」

「いいえ、全然! それに、ハイシュが久しぶりに帰って来てくれたんだもの、本当に疲れていてもそんなこと言っていられませんよ。ほら座ってください、ほらほら」

「ちょっ、わ、分かったから、落ち着いて」


 ノワールが椅子を持ってこようとするので、ハイシュはそれを押し留め、ノワールをベッドに寝かせると自分で椅子をベッドの横に持ってきて座った。


「ふふ、疲れていないと言ったのに」

「仕事のことは明日報告するから、私的なことを、ばあ様が眠るまでね。えっと、東の隣国で最初に行った街がね――」


 ハイシュは、一見すると淡々と話を始めた。ハイシュが遠くで何を見て、何を聞いて、何を食べて、どう思ったか等を言い連ねていく。それをノワールはとても楽しそうに聞いていた。


 話が始まっておよそ三十分前後が経過した頃、何度かノワールが眠たそうな相槌をしつつ、眠りに落ちないよう堪えていた。その様子を確認したハイシュが「今日はここまで」と話を区切る。


「まだまだ聞きたいです」

「うん、知ってる」

「でもやめちゃうんですか?」

「今日はね。また明日聞いてもらうから安心して眠って」

「分かりました……おやすみなさいハイシュ」

「良い夢を、ばあ様」


 ハイシュの言葉ににこりと笑みだけを返したノワールは、数分と待たずにノワールは寝息を立て始めた。ハイシュは物音を一切立てずに部屋の入り口から出ていく。


「おや、ハイシュ。戻っていたのですか。……さては、またご主人様の部屋から帰ってきましたね」

「うん、ただいまセバスチャン。よくわかったね」

「いつものことで――」


 ハイシュは口元に手を持っていき、静かに、とジェスチャーをする。セバスチャンはそれだけで理解したのか、声を潜め、足音も立てずにハイシュと共にノワールの部屋から離れていく。

 十分に離れたと判断し、セバスチャンはまた口を開く。

 

「……いつものことではないですか。玄関から普通に入ってきなさいと言っているでしょう」

「うん。聞いてるけど、聞き流してる。やっぱり、帰ってきたら最初にあの人に『おかえり』って言われたいからね」

「それは同意しますけれども」

「そういうこと。流石にばあ様から真面目に怒られたらそうするけど、まだお小言も言われてないからね」


 やれやれと頭に手を当てるセバスチャンも、この家の、そして自身の主人が何も言わないのであればこれ以上言えることもない。

 セバスチャンが短く溜め息を吐いたところで、ハイシュがまた口を開く。


「そういえば、明日詳細を話すけど、東の隣国の様子がちょっと変わった気がする」

「様子?」

「うん。まぁまだ推測の域を出ないけど、奴隷商人が減ってる気がするんだよね」


 ピクリと眉尻を釣り上げるセバスチャンに、ハイシュは目線を向ける。


「一人の外交官でしかない僕では内部の詳細までは知れないけど、主要都市でほとんど見なかった。まあそんなにおおっぴらにするものでも無いから偶然かもしれないけど」

「ふむ……」


 考え込む様子のセバスチャンを見ながら、肩をすくめるハイシュ。二人ともが廊下で立ち止まって考え込む中で、足音のしない使用人が二人の背後から近付いた。


「こんなところで立ち話しないでくださいよ、ハイシュ」

「お、っと。アイシャか」

「セバスチャン様もいらっしゃるのであれば、大事な話なんでしょうけど」

「これは失敬。アイシャがここにいるということは、皆就寝しましたか」

「はい、私以外の使用人たちも各々のやることが済み次第休むように伝えています。……主様は?」

「もう眠っておられます。今日は人数も多かったので、お疲れだったのでしょう」

「そうですか……では、私も仕事に戻ります」


 これで、とお辞儀をして足早に通りすぎていくアイシャを見送った二人は、また声を潜めて話し始める。


「……相変わらずだし、僕も言えたことでは無いんだけど、ご主人大好きすぎるよね、僕の姉は」

「……今日は一緒に大浴場で湯浴みをされたそうです」

「二人で!? うらやっ……ましくは……」

「新しく来られた女性の方々とナイラ含む他の使用人もいたので二人では無かったみたいですが……貴方も相変わらずですね」


 ほっと胸を撫で下ろすハイシュに、セバスチャンは呆れた目線を送っていた。


「この屋敷に来たばかりの時は、騙されないように、信用しないようにと『ババア』なんて呼んでいた時もありましたね。いつの間にか恋愛感情を抱かないように、とかなんとか変な理由に変わって今の呼び方にしていたと記憶していますが」

「うん、だから羨ましくは……ない……」

「いつもの通り平然と言って欲しいところですが、やなり幼少期の初恋は恐ろしい物を感じますな。……そういえば、ここに来たばかりの貴方に少し似た少年が本日来られましたよ」

「僕にとっては忘れたい記憶だからあまり会いたくないような、むしろ会ってみたいような……」

「やれやれ……それにしても双子揃って変に不器用なんですから。それでは私もそろそろ失礼しますよ。貴方も早く部屋に戻りなさい」


 その後、結局耐えかねたハイシュがアイシャに詰め寄り、事の経緯を聞いたハイシュは悶絶しながら勝ち誇るアイシャに見下されていたとか、部屋にとぼとぼ帰っていったハイシュがノワールからの贈り物に気付き、アイシャの元へ自慢しに戻り、アイシャがハンカチを噛んだとか姉弟のじゃれあいがあったという。


 話の中心人物であるノワールはといえば――



 ――今日も悪夢に魘されていた。



 


 ――――…………



 まだ陽も昇っていない程の時間に、ノワールは静かに体を起こした。少し汗ばんだ服の感触を気持ち悪く思いながら、ベッドから這い出る。


 ノワールはほぼ毎夜悪夢に魘されていた。夢に見る遥か昔の記憶は、まだノワールに両目があったときの物であり、両目を無くした時の記憶でもあった。


 額の汗を拭い、ハイシュが入ってきたときに使った窓を開く。吹き込む風が汗をかいている体を冷やすが、同時に取り乱した心に冷静さを取り戻してくれた。

 簡単に羽織れる物だけを纏い、ノワールはバルコニーへと出る。


 夜も更け、皆も寝静まっている。ノワールは、夜中起きてしまったとき、度々夜のバルコニーで一人黄昏ていた。


「早くこれに慣れておかないとね……」


 ノワールの寂しげな独り言は、誰が聞くこともなく夜の空へと消えていき、やがてぶるりと身を震わせたノワールも自室へと戻っていった。

 

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