第2話 主と名付け
「それじゃあ貴方の名前はカイル。よろしくね、カイル」
顔や体をペタペタと触りながら、ノワールは目の前の少年に名前を付ける。カイルと名付けられた少年は、自分は汚れているから触れない方が良いと伝えようとしたが、主の命に逆らって罰を食らいたくないという気持ちとせめぎ合い、結果的にされるがままになっていた。
「声は出せる?」
「は、はいノワール様」
「あら、もう名前覚えてくれたのね、嬉しい。ありがとう」
嬉しそうに微笑むノワールが手を止めることはなかったが、正面からその笑顔を浴びたカイルは少し顔を赤くした。ノワールはカイルの熱くなった顔を触り続け、「暑い?」や「無理してない?」等、逐一言葉を交わす。
ようやく解放されたカイルは、次にノワールの元へ歩み寄る人と入れ替わり、セバスチャンに連れられ中広間を後にした。
ノワールが行っているのは、名前の確認である。
名前はなんだ、と聞いて名乗らせるだけのものではない。呼ばれていた名前があるか、というだけではなく、その名前のままがいいか、他に名前があるか、呼ばれたい名前があるか等、名前1つを確認することに時間をかけた。
カイルは前の主人に名前で呼ばれたことは無いと答え、ノワールが名前を付ける流れとなった。
そして顔を触ったり、歩かせたり、声を出させているのはノワールがカイルを覚えるために必要なことだった。
声は勿論のこと、本人の感触や足音でさえノワールにとっては貴重な情報だった。
「お次はどなた?」
ノワールの優しげな声音に釣られるように、一人、また一人と近付いていき、話をしていく。
中には言葉を発することができないもの、足を引きずるもの、片目が潰れているものもいたが、あの手この手でノワールは巧みにコミュニケーションを取っていった。
「そろそろ最後? お次はどなた?」
「俺たちで最後だ、です」
最後に残ったのは、初めてノワールに質問した兄弟だった。ノワールが主人であることは認知しているはずだが、兄の対応は若干反抗的な意志が垣間見えるものだった。
そんなことはお構いなしに、ノワールは変わらず質問を続ける。
「そう、ありがとう。申し訳ないのだけれど、私が触れるところまで来てもらえる?」
「分かった……ここでいい、ですか?」
「ありがとうね。喋りにくければ普段通りの口調で構いませんよ。では、触られたくない所とか痛いところがあったら教えて頂戴ね」
ノワールは声の発生地点からおよその顔の位置を判断し、手を伸ばす。問題なく顔に触れたノワールの手は、そのまま色々な所へ触れていく。
「ではお兄さん。お名前を教えてくださる?」
「…………ロンド」
「兄ちゃん……?」
「……ふん、そうやって俺たちにも平等なように相手して、親切にして、優しいフリをしていつ裏切ろうか考えているんだろ。そんな奴に名前なんて教えたくない」
「うーんと、裏切る……と言いましても……」
ノワールは絶えず動かしていた手を止め、困ったような表情を浮かべた。そして何かを考えるように頤に手を当てながら、改めて口を開く。
「私たちの関係性は私が皆様をお金で買って得たものですが、先ほどもお伝えしたとおり『お互いを利用しましょう』という関係です。私に利用価値が無くなれば去っていただいて結構ですし、私の方は……まぁあり得ないのですがご納得いただけないと思うので一応可能性として挙げると……万が一、貴方たちから利用価値が無くなればこちらからも契約打ち切りを打診させていただくので、裏切る裏切らないでいうと少し語弊があるかもしれません」
上手く伝えられているでしょうか、と自信なさげな顔のままそっと手をロンドと名乗った少年の顔に戻した。
「今は食べるにしても住むにしても、とりあえずここに居れば事足りると思いますので、行くところが無いのであれば後から考えても良いと思いますよ。では……ロンドとお呼びしてよろしいですか?」
「……好きにしろよ」
「ありがとうございます、ロンド」
その後ロンドは指示されたこと以外を行うことは無く、一言も口を開かないままノワールの作業は終了した。
ロンドを連れていくためにセバスチャンがやってきていたが、ロンドは『弟と一緒でないと動かない』と固く主張した。ノワールはセバスチャンに待っていてもらうよう伝え、次いで弟へ前に来てもらうよう伝えた。ロンド同様、顔に手を伸ばして触り始めてから質問を始める。
「それじゃあ、お名前を教えてください」
「えっと、僕はエミル、といいます。あと兄は――」
「ああ、待って。ロンドの事は、ロンドから直接聞きたいの。だから、今はエミルの事だけ教えてもらえる?」
「あ……ごめんなさい」
「あぁ、責めたいわけではないの。教えてくれようとしてありがとうね」
エミルは辿々しくも、ロンドとは違い協力的に、好意的にノワールの質問に答えていった。つまらなそうにそのやり取りを眺めるロンドも含め、セバスチャンは微笑ましく見守っていた。
「はい、これでおしまいです。ありがとうございました。後はセバスチャン……そこの素敵な老紳士の名前なのだけど、彼についていって二階へ向かってください。勿論ロンドと一緒にね」
ようやく解放されたエミルは、ぶすくれているロンドの元へ行き、いくらか話をしたあとにセバスチャンについていき中広間を出ていった。
そして中広間にいるのは、またノワールだけとなった。
「いつもより多かったー。結構大変だったけど、またいい子達ばかりみたいで良かった」
流石に疲れたのか、ノワールは一度短く息を吐くと背凭れにもたれ掛かった。そして、ぐいと大きく伸びをしてから、ようやく立ち上がった。
「私のすることもほぼ終わっちゃったけど……」
「主様? 只今お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「アイシャ、何かありましたか?」
アイシャと呼ばれたその人間は、使用人の格好をしていた。二階大広間でノワールの問いに代表して答えたその人であった。アイシャは中広間へと入ってきて、コツコツと規則正しい足音を立てながらノワールの元へと近付いていった。
そして椅子に腰掛けるノワールの足元で跪いた。
「楽にしていいのに」
「いえ、私がこうしたいので」
「それならいいです、ふふ。それでどんなご用事?」
アイシャは、本来であれば二階にやってきた面々を、アイシャ含む各使用人たちに割り振る仕事を行なっているはずであった。ノワールが不思議そうに首をかしげる様子を、アイシャは恍惚とした表情を浮かべながらも平時と変わらない落ち着いた声色で返答する。
「はい。今回やってきた皆様の振り分けも済み、今は大浴場にて身を清めさせております。つきましては、主様も身を清められた方が良いかと思い、参じました。お気を悪くされたら申し訳ございませんが、入浴前の彼らに触れた主様の衛生面を懸念してのことです」
「分かっていますよ。アイシャはとても真面目で優しいですからね。それではお願いしましょうか」
「畏まりました。ただ、大浴場は女性用でも程ほどに人が多いので、良ければ私の――」
「そうね、折角だし皆さんの居る大浴場にいってみましょう!」
「……畏まりました」
「アイシャ? 人が多いところは嫌でしたか? うーん、それではもう少し待っても――」
「いえ、参りましょう。主様のお身体が最優先です」
「そ、そう? では行きましょうか」
ノワールが、残念そうに肩を落としているアイシャに気付くことは無かった。そしてアイシャの切り替えは素早く、少し不思議そうな面持ちをしているノワールを眺め、つり上がりそうになる口端を必死に抑えていた。
やがて大浴場に到着すると、別の使用人複数人が仕事を放ってノワールの元へ集まり、軽く叱られるという事態が起きつつも、およそ何事もなく入浴の時間は過ぎていった。
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