第一章 白鼠と記憶と秘密入りの桜餅⑤
理龍は口の前に人差し指を立てた。
「萌子、僕に様付け禁止って言ったよね?」
「あ、えっと、理龍くん、どうしてここに?」
「
理龍は口に拳を当てて、ふふふ、と
彼はそのまま白鼠の前まで来てしゃがみ、しっかりと目を合わせた。
「はじめまして、白鼠様。理龍と申します」
『……そなたも転生組であるな』
その言葉を聞いて、萌子の心臓がどきんと大きな音を立てた。
初めて会った時、理龍を神様だと思ったのだ。
その感覚は、間違っていなかったのだろう。理龍もかつて神か神使であり、人間に転生していたということか。
「大丈夫です。人々はあなたの活躍を知っていますよ」
『そうであろうか……。わたしが最初に降り立ったのは、大国主命様の社、
「出雲からここまでどうやって?」
と、萌子が思わず
萌子もつられて顔を上げると、大きなトンビが空を旋回していた。
『あの鳥の背に乗せてもらったのだよ』
「よく、食べられなかったですね……?」
と、萌子は戸惑いながら
『動物たちは、「いそうろう」に敬意を示すのだ。役に立つことで、自らの徳を上げることにもつながる』
へぇ、と萌子は感心しながら、今一度空を仰いだ。
白鼠は、ふぅ、と息をつく。
『しかし、ここまで来ても、鼠の姿はない。わたしは仕方ないと割り切りながらも、自分にがっかりしていた』
「どうして、自分にがっかりするんですか?」
と、萌子は小首を傾げる。
活躍を後世に伝えられていないことを憂いているのだろうか?
『こんな
しかし、と白鼠は続ける。
『いざ、自分が地上に降り立ち、この現状を前に、焦がれるような嫉妬を抱いている。わたしが大国主命様のために働いたのは、民草に奉られたかったからではないというのに……。こうした感情のぶつかり合いで争いが起こるのであろう。わたしも、まだまだであると』
そこまで言って、白鼠は再び大きく息をついた。
すると理龍が、ふふっと笑った。
「高天原のような高いところにいる時は執着を抱かないものです。しかし地上に降り立つことで、様々な感情を得るもの。あなたが『まだまだ』なのではなく、そもそも肉体を得るということは、『そういうもの』なのですよ」
理龍の言葉に、そうか、と白鼠はつぶらな
『これが、地上で生きるということなのだな』
「ええ、
と、理龍は胸に手を当てる。
白鼠も同じように胸に手を当てて目を
『このようなことで、やきもちを焼いて……わたしはなかなかに可愛いものだ』
「そうでしょう? 嫉妬する自分に気付くと、『こんなことで胸を騒がせるなんて、自分は可愛いなぁ』と
『本当であるな』
神たちの会話が高尚すぎて、萌子はついていけず、あんぐりと口を開ける。
それに、と理龍は話を戻した。
「ちゃんと、あなたをお
本当か、と白鼠はぱちりと目を瞬かせた。
「ええ、京都市
理龍が優しい口調で言うと、白鼠は顔を
『いやはや、お恥ずかしい。嬉しくてたまらない』
「恥ずかしいことなどありませんよ」
『うむ。こんな湧き上がるような喜びも高天原では味わえぬもの。これは人の子に転生して、現世を
白鼠は晴れやかな顔で、空に向かって手を上げる。
すると、上空を旋回していたトンビがふわりと萌子の前に降りてきた。
白鼠は、ひょい、とトンビの背に乗る。
『これから、大豊神社へ行ってみることにする』
「ええ、ぜひ」
『そなたたちには、感謝する』
ありがとう、と白鼠は、深々とお辞儀をした。
良い旅を、と理龍は微笑み、
「いえいえ、わたしは何も」
萌子が首を振った時には、トンビが羽ばたいていた。
アッという間に
うわぁ、と萌子は空を仰ぐ。
そんな萌子の様子を、理龍は温かい
*
──そう、あれが、初めての『神様のいそうろう』体験だ。
その後、母に『あなたたち、まさか、鼠と話していなかった?』と、とても冷ややかに言われたのも、今となっては懐かしい思い出だ。
そういえば、萌子がハンドメイドに目覚めたのも、あれからだ。
それまでは現実逃避の手段のようにしか思っていなかったのだが、初めてあの時の白鼠を再現したい、作ってみたいと心から思ったのだ。
そんなことを思い返しながらフライパンを火にかけてから、ボウルに卵とマヨネーズを入れてかき混ぜていると、
「ただいまぁ」
と、玄関の方から声がした。
お帰りなさい、と萌子は声を張り上げて、よく熱したフライパンに卵を投入する。
スライスチーズを挟んで、くるりと丸めて、白い皿の上に載せた。
ミニトマトとリーフのサラダに生ハムを添えてから、テーブルに出す。
最初にダイニングに入ってきたのは、由里子だった。
彼女は、萌子の父の兄の娘──つまりはいとこだが、萌子とは母と娘ほどに年齢が離れている。
しかし、外見はとても若々しく、三十代にしか見えない。
長い髪を後ろで一つにまとめている。面長で、切れ長のくっきりとした目が印象的な、一見冷たげな印象の美女だ。
彼女の旧姓は、安倍。実は、由里子と萌子の家系は、平安時代に名を
萌子が、『視える人』なのは、そのためだ。
とはいえ、子孫としては端くれであり、今や滅多に強い霊感を持つ子は生まれなくなっているそうだ。
そのため萌子の他界した父は安倍晴明の子孫という意識に乏しく、萌子の母はというと、夫の家のルーツなど知らなかったという。
由里子はダイニングテーブルの上に並ぶ、ポトフとオムレツ、フランスパンを見て、わあ、と目を輝かせた。
「萌子ちゃん、
由里子はクールな外見とは裏腹に、感激屋だ。
顔を真っ赤にさせて、嬉しそうに
「お疲れ様。今日は手術もあったんでしょう? 大変だったね」
「手術といっても、雄猫ちゃんの去勢手術だったから、大変というほどでもなかったわよ」
由里子が、ふふっ、と笑って、椅子に腰を下ろした時、今度は和人が顔を出した。
「理龍が来てるんだよね!?」
和人は満面の笑みでそう言って、辺りを見回す。
彼は、理龍の
顔立ちは整っていて、笑った顔は理龍とよく似ているのだが、目だけが違っていた。
彼は線を引いたような細い目なのだ。
真剣な表情になると迫力があるが、基本的ににこにこしているので彼はいつも朗らかな印象だ。
「理龍くんは、もう帰りましたよ」
萌子があっさりそう言うと、ああああ、と和人はうな垂れた。
「会うの久しぶりだから、楽しみにしていたのに! 可愛い
和人は、甥である理龍を
元々彼は自分の弟(理龍の父)を溺愛していたので、弟にそっくりな甥を可愛がるのは、至極自然な流れだったそうだ。
「和人さんの猫可愛がりが嫌で、帰ったんじゃないのかしら?」
ぴしゃりと言う由里子に、和人は、ええ、と肩を落とす。
「そんな。本当によしよしするわけじゃないのに……うざい伯父だって嫌われてたらどうしよう」
「いえいえ、理龍くんはこれから用事があるって言ってましたよ。今度またゆっくり来たいと思っているって。和人さんと由里子さんによろしくって言ってました」
萌子がそう言うと、和人は、良かった、と胸に手を当てる。そのまま、テーブルに視線を移して、にこりと微笑んだ。
「萌子ちゃん、今日もありがとう。美味しそうだ」
「ううん、簡単なものばかりだけど」
「ところで、その二匹も一緒に?」
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