五
神庭に出立する前に、晦は紫陽花区の防衛のために、薄月に話を付けに行った。ただでさえこのところ陰陽寮はあやかし退治で忙しく、貴族の邸宅の多い桔梗区を優先にするものだから、どうしても紫陽花区は後手後手に回ってしまう。民間の術者である薄月の協力がなかったら守り切れるものも守れなかった。
「なんだ……都をいきなり離れるなんて、そんなまずいものでもあったのかい? どこぞの山に鬼が出たとか」
「そうならなかったらいいんですけどねえ。都にもいずれ影響があるかと思いますので、確認のために出かけるんですよ。神庭に」
「神庭……」
ただでさえ、神庭の詳細は王族以外はほとんど知らない。私だってそこに出家することは知らされていても、詳細はなんにも教えられてないんだから、知識量はこの中では晦が一番知っているのだろう。
薄月は心底嫌そうな顔をしながらも「わかった……」と言った。
「ただし、こちらだってタダでとは言わさねえ。これは陰陽寮からの依頼ということで、依頼料支払ってくれや」
「ほう? 依頼料はどれほどで?」
「女たちが夜の生活を快適にできるよう、薪と炭をありったけだ。俺がずっと出かけてたら薪の準備も炭の用意も全然はかどらねえからな。それあんたが留守の間持ち堪えられるよう」
「なるほど。薪と炭をひと月分ですね。わかりました。調達しましょう」
「おう、頼む」
これで晦は、本当に薪と炭をひと月分紫陽花区の薄月の家に送りつけたのだった。私は呆れ返った顔で晦を見た。
「……ひと月分の食料じゃ駄目だったんですか?」
「いえ。あれが妥当だったかと。薄月は大量に女を囲っている以上、彼が留守中の間に、食料を奪いに強盗が襲ってくる可能性がありますからね。その点薪と炭は男手がなかったらひと月分もなかなか用意ができませんし、なによりも有事の際には武器になりますから」
「……武器って発想が物騒ですけど」
「それは姫様、紫陽花区ではなにもあやかしだけが暴れている訳ではありませんからね。貧すれば鈍する。衣食住を知って礼節を知る……腹を減らした人間はなにをしでかすかわかりませんから、薄月もそれで気を遣ったのでしょう。彼が責任を取って女性たちを囲っている以上、彼女たちの身の安全を第一にするのは当然でしょうからね」
「なるほど……そんな考え方もあるんですね」
たしかにひと月分の食料は持って行きやすいだろうけれど、ひと月分もの薪や炭だったら重くて運ぶのは困難だ。そんなところも考えた上での謝礼だったらしい。
ただでさえ彼女たちはあやかしに家族を奪われている以上、薄月が面倒を見なかったら大変なことになっていた。そんな彼女たちを拾ってきている以上は、最後まで責任を取らないといけないんだなあ。
しみじみと考えている間に、晦も家に帰ると、子供たちにひと月分の仕事を任せていた。こちらは桔梗区へのお使いであった……早い話、桔梗区の貴族たちの稚児としての仕事を斡旋し、ひと月の間は桔梗区に避難させる算段だった。
普段は薄着を来た子供たちも、蒸し手拭いで体をさっぱりとさせ、髪を結って水干服を着せてあげれば、貴族の稚児とあまり変わりがない。
「それでは、奉公頑張ってきなさい」
「はいっ!」
子供たちは皆元気だ。それにほっとしつつ、私は晦を見ていた。
彼はどうも、神庭に向かうと決めてから、なにか様子がおかしい。私の視線に気付いたのか、屋敷に戻ると、私の頬をペタペタと撫でてきた。
「どうかしましたか、姫様。久々のあなたの体とご対面が怖くなったと?」
「……私は元の体に戻りたいので、そんなことはありません。ただ、あなたが神庭に向かう算段を整えながら、なにか憂いた目をすることが増えたような気がしまして」
「憂う、ですか?」
「あなたにその自覚がないのかもわかりませんが、私にはそう見えま……」
最後まで言わせてもらえず、晦に軽く唇を塞がれてしまった。何度も何度も角度を替えられ、吸われる。私の中に力がくるくると回るように。
私は抗議のように彼の胸元をポカポカと叩くものの、聞き入れられなかった。まるで。
まるで、これ以上なにも聞くなとでも言っているかのように。だんだん息が続かなくなって、目の前が真っ青になってきたところで、やっと唇が離された。晦は私の唇を拭う。
「……すみません、姫様に心配をかけまして」
「……心配なんて、していません。あなたがなにを考えているのか、さっぱりわかりませんもの。心配しようにも、私はあなたのことをちっとも知らないんですから」
「私のことを知りたいと思ってくれましたか? 光栄ですなあ」
「茶化さないでくださいっ、そもそもなんなんですか。あなたは私のこといろいろ利用している割に、ちっとも情報共有してくれないのは。それでいて私の魂を引っこ抜いて神庭に近付けないようにしたり、私を式神にして手元に置いたり。もうあなたのやってること、むっちゃくちゃなんですけど!?」
抗議の声を上げて一気に捲し立てると、晦はふっと笑って、私の腰を抱いて座らせた。本当になんなんだと思いながらも、私は大人しく彼に従う。
「すみません。あらかたのあらましはもう読めてはいますが、確証を得るためにはどうしても、神庭に行かなければならなくて」
「あらましって……都で起こっているあやかしの不審な動向や、どうして朝廷であやかしが飼われているか、ですよねえ?」
「ええ。気付かれないようにするのにはずいぶんと力を使いましたが」
「力を使ったって……」
そういえば。晦は叔母上にも勘付かれることがないよう、徹頭徹尾結界を貼ること、札を貼ることをやめなかった。
気付かれないようにって、叔母上のこと?
「……そのあらましっていうのは、私が知ってはいけないことなんですか? もう説明を受けては駄目なんですか?」
私の問いに、晦は視線を揺らす。この人、胡散臭い言動ばかり取る割には、意外と下手な嘘は付かない。やがて、口を開いた。
「神庭を見てもらったほうが早いかと思います。正直、これを私が口で説明したところで、姫様も納得はしてくださらないかと」
「……そこまでして隠さないと駄目なことがあるんですか」
「私は隠してはいませんよ。ただ……あなたを見つけた途端に、あなたの魂を引っこ抜いた自分は英断だと自負しております」
そう言いながら、晦は私のうなじを撫でた。私の肉体には付いている、番の呪いの噛み痕。式神の体には見受けられない。
この人がなにを考えているのかは、一緒にいてしばらく経つけれど未だによくわからない。煙に巻くような言動ばかり取る割には、普通に仕事熱心だし。飄々と掴み所のない態度で、人助けばかりしている。
そして私にかけられている番の呪いを、上書きという形で解こうとしてくれている。
なんにもわからない人だけれど、なんにもわからないまますっかりと私の中に住み着いてしまった。もしもこの人の人となりをもっと知ることができたら、私はこの人のことを本気で好きになれるんだろうか。
恋は物語の中の話であり、どれだけ人助けをしても、自分事のようにはちっとも思えなかったけれど。どれだけ唇を重ねても、そこに気持ちはないものだと思い込もうとしていたけれど。気付けばこの人のことを知りたいと思っていた。
どのみち、春花国では恋は全くなにも知らないところからはじまる。異性は簾越しでしかほとんど見ないのだから、どうしてもそんな恋になってしまう。
私は晦のことを、気付けば知りたい人程度には、好きになっていたようだ。
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