零れ落ちた未来
空付 碧
浜辺で
ペンギンが海で溺れる夢を見た。
そんな阿呆なことがあるのかと、水族館の水槽を見ながら思う。
子供たちは親戚に連れられて、十代は友達同士で、じゃれあうカップルと、水族館が好きそうな単身と。
そんな中で僕がいる。
彼女を海で亡くした、僕がいる。
水面で下の様子をうかがいながら、ぷかぷかとペンギンが浮いている。
鳥ってほにゅうるいだっけ、なんて声が響く。そういえば、彼女もそんなことを言っていた。
彼女の初盆が待っている。
青い夏の日、青い春のような日々を過ごした。
青い夏の日、青い海に行った。
「おーい」
彼女は白いワンピースで、海へ走っていく。
「おいてっちゃうよー」
彼女の声を追いかけた。
そのまま、彼女は海へ消えていった。
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彼女の真新しい墓には、昼に親族の方と備えた花と、線香の燃えかすがある。
僕は燃えかすを軽くはらい、ロウソクに火を灯して、線香を備えた。
「まだ、未練がある。君との未来を、望んでいる。
君との未来を、生きていたかった」
しばらく手を合わせて、飛んできていた蚊を軽くはらい、ロウソクの火を消そうとした。
吹き消そうとした。
すると、足元に、光が見えた。
何かと思って振り返れば、地面に光の穴が開いていた。
あまりにも明るくて、目が慣れるまでしばらくかかる。
そのうち、笹を走る風の音ではなくて、砂を転がる波の音が聞こえてきた。
夢でも見ているのだろうか。
恐る恐る近寄ってみれば、去年の夏の海がぽっかり落ちていた。
「おーい」
心臓がはねた。背中が冷える。
間違うことがない、何度も何度も、耳にこびりついた彼女の声だ。姿は見えない。寄せる波だけが、穴から見えた。
「おいてっちゃうよー」
墓から穴へ飛び込む。反射的に入った。
願いが叶うかもしれない。彼女との未来を続けたかった。
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「お盆の海でデートって、なんだか背徳的だよね」
彼女の声とともに、はたと気が付く。
砂浜を、2人でゆっくりと歩いていた。ね、と顔を見せる彼女は、本当に、あの時と同じ彼女だった。
いやけれど、記憶の彼女よりも少し日に焼けている気がする。
「あぁ…」
それしか、声が出ない。君が死んだ海で、君を見ながら海を見ている。君の顔を見るのは、久しぶりで少し照れた。
不意に、手が触れた。右手に小さな手が収まる。
懐かしさとともに、驚いて握った手を見た。
「どうしたの?」
照れくさそうに、彼女は笑っている。
左の薬指に、捧げるはずだった指輪が嵌っていた。綺麗な指に似合う、結婚指輪だ。
聞いたことがある。
盆の日、墓石の前に開いた穴には、死者の居る未来が存在するらしい。
途絶えてしまった、平行線の未来だ。
彼女は僕と結婚して、今日ここを迎えたことになる。僕は彼女と迎えることのなかった未来に立っている。
「…なに?」
「選んで、よかった」
的はずれな言葉だったかもしれない。
けれど、彼女の手に少し力がこもった。
「ありがとう」
やはり照れくさそうに、笑った。
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「結婚記念日は、ここの砂で砂時計を作るのはどうかな」
僕のプロポーズは計画通りに成功したらしい。
盆明けが、結婚記念日だ。僕が予定していた、20日。式を挙げて、一緒に生活し始める予定だった、8月20日。
ここにいれば、結婚記念日も、その先も彼女との未来が過ごせる。
「ここの海、やっぱり好き」
あまり気乗りしなかったが、彼女が楽しそうに言うから、真似して砂をすくってみた。
さらさらとこぼれ落ちる砂は眩しくて、ここにある未来のようだった。あの日から今日まで積もった、輝く記憶。
「手がおっきいから大きな砂時計が作れちゃうね」
「何分の時計を作るつもりだよ」
「いっぱいあった方が、楽しいじゃない」
「何が楽しいのか、よくわからない」
彼女の言う大きな手から、さらさらと砂が落ちて、崩れていく。
収まる量は限られているのだと、言われている気もした。
「ねぇ、あのさ」
明るい彼女が僕を見て、表情が固まった。引きつって、凍ってしまった。
「どうした?」
「ねぇ……私が死んだら、どうする?」
「え」
「死んだら……どうしよう」
思わず立ち上がってしまう。
「その話は、したくない」
「……なんで?」
「なんでって……」
誤魔化そうと口を開くと、
「おーい」
背後で声がした。聞き覚えのある、言葉だった。
「おいてっちゃうよー」
背筋が凍る。
「見ない方がいいよ」
彼女は血の気が引いたように、海を見ている。
僕もしゃがみこんだ。体が震える。あの時、たしか、あのあと。思い出すより先に、大きな波の音が、バザンと、鳴った。
「ねぇ……私が死んだら、どうする?」
か細い声で、彼女は言った。
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しばらく黙って、砂を凝視していた。
「おーい」「おいてっちゃうよー」
鮮明な声で聞こえる。目の前の彼女は、しばらく砂いじりをしていたが、どこか腑に落ちた表情に変わった。
「わたし、死んだんだ。去年、海で」
「ちがう」
「……あのね、いつも一緒に選んだ団地に住んでるの」
ザザッ
「時々ここに遊びに来るんだけど、私あれ初めて見た」
ザーッ
彼女が指輪をしみじみとみる。
「そういえば、奥さんなのに会ってない気がするの。ちょっと納得しちゃった」
「おーい」
「……そうか」
膝に顔をうずめると、バザンと余計に波の音が大きく聞こえた。
「僕が来たからか」
「私の記憶の上に、君が来たから混じっちゃったんだね」
そろりと顔を上げると、彼女は僕のほうを伺っていた。
「今日までの未来を生きてきたんだね」
「……むごいことをした」
「なに?」
「僕が会いたいと思ったから、君は自分が死んでることを知ってしまった」
砂が零れ落ちた。さらさらと、落ちていった。
心から望んだ、君との未来が、一緒にいる未来が、うれしくて楽しくて懐かしい気持ちのはずなのに、自分の最悪の記憶が、すべてを台無しにしていく。
君の居る未来のはずなのに、ひどく心が痛い。
もう、何度君の呼び声を聞いただろう。
何度も、何度も、君が背後で死んでいる。それを、割り切ったような顔をして、笑顔を絶やさない君が、苦しい。
「……ごめん」
視界がにじんでしまった。情けなくなってきた。
生きたい。
彼女といたい。けれど、ここに居たらずっと彼女が死んでいる。ずっと死が続く。
別の場所にいても、こだまのように追いかけてくる。彼女の死んだ記憶が、何度も何度も。
「目の前に死があると、次は自分じゃないかって、本能的に逃れたがるものだよ。自分の生命の危機からは、目をそらせないからね」
「私は、向こうで化けてでるくらいにしようと思うから、だから泣かないで」
背中をさすられた。確かに温かかった。
声が遠のいた気がした。彼女が生きているのだと、思った。
「…いいのか?」
「え?」
「一緒に居なくて、いいのか」
「一緒にいてくれるの?」
その声に、ばっと顔を上げた。すがるような、けれど絶望した顔で、彼女は僕を見ていた。
「君が望んでくれるなら、私は君と生きられる。すごくうれしい。でも、いいの?」
涙が見えた。
「おーい」
「ここに居たら何年も何十年も生きられるけど、」
「おいてっちゃうよー」
「ここはもう、悪夢のようなところでしょう?」
バザン、と波の音がする。
「死にそうな顔の旦那さんを介抱できるほど、私はできた奥さんじゃないからね」
「僕が死んだら、どうする?」
「そりゃ、毎年、お墓に迎えに行くよ。提灯と、線香を持って」
しばらくたって、彼女の顔が明るい顔で、あ、と言った後
「今、初めて笑った!」
と嬉しそうに言った。
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わずかに、線香のにおいがした。
ふと気づけば真っ暗で、どうしてだろうと眉間にしわを寄せたとき、自分が目を閉じていることに気付いた。
そっと開くと、墓石の前で消えかけた線香が煙を上らせている。
地面に張り付いた体を、ゆっくり起こす。少しめまいがする。熱中症にでもかかったか。
「今度は、おいてきちまった」
結婚指輪をはめた、彼女が笑っていた。
もう、耳に張り付いていた声は、聞こえなかった。
代わりに、さすられた温かみが、残っている。
それだけで生きていける。君と、生きていける。
「帰ろうか」
提灯に火を移すために、ロウソクにもう一度火を灯すと、ボボッと火が揺れる。
思わず、笑ってしまった。
「帰ろう」
零れ落ちた未来 空付 碧 @learine
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