19.「僕は白狐です!キツネの半化生で、こう見えても忍者なんですよ!にんにん!」

「はぁ…はぁ…!」



甘く見ていた。

何処かで、自分だけは妖怪に見つからないだろう。見つかっても、逃げれば大丈夫だろう、とそう考えていた。


だが、そんな事は無かった。



「グゲェーッッ!!」



後から聞こえてくる奇声。

後ろを振り向くと、そこには醜悪な姿をした化け物が綾子を追っていた。

綾子はその化け物の姿を見て一瞬怯みそうになる。

体躯は2メートル前後だろうか。全身灰色の毛に覆われていて、頭には角のような突起物がある。

しかも一体だけではない。複数の妖怪が綾子を囲うように疾走し、その巨体からは信じられないくらいの速さで綾子に迫ってきていた。



「ひっ……!」



綾子は恐怖で足が震え、走るスピードが落ちていく。

それに気付いた化け物はニヤリと笑った。



「グルァアッ!」



化け物は大きく跳躍すると綾子に飛び掛かった。



「うわぁっ!」



綾子は必死に逃げようとするが、化け物の方が圧倒的に速い。

やがて綾子の身体に衝撃が走った。



「あぐぅっ!」



綾子は地面に叩き付けられ、痛みで悶絶していた。

妖怪に体当たりされたのだ。

綾子は何とか立ち上がろうとするが、上手く力が入らない。



「うっ……!」



綾子の目に化け物の顔が映り込む。妖怪達は再び綾子に向かって飛び掛かろうとしていた。

―――こいつらは自分を食おうとしている。その事実を認識した瞬間、綾子は死を悟った。



「嫌だ……死にたくない……!」



涙が零れ落ちる。まだやりたい事が沢山ある。結婚して幸せな家庭を築きたいと思っていた。

こんな所で、私は死ぬのか。こんな化け物に食われて……



「誰か……助けて……!」



綾子は叫んだ。だが、その願いは虚しく響くだけだった。

そうだ、この樹海に都合よく人がいる訳がない。仮にいたとしても複数の妖怪に勝てる筈がなかった。



「(あぁ……結局何も出来なかった)」



自分は何の為に生まれてきたんだろうか。

薫を助ける為に薬の材料を取りに来たというのに、その妹は病気で死ぬかもしれない。

自分は何一つとして成し遂げられなかった。

村長の言に従わず、妹を救う事も出来ず、妖怪に殺され…



「ごめんね薫……」




綾子は涙を流しながら謝る。だが、最早どうにもならない。



「ギィイイッ!」



妖怪の一匹が、大きく口を開き、鋭い牙を見せつける。



「あ……」



これで終わりなんだ。そう思った時だった。


ガサリと茂みが揺れた。



「え?」



綾子と妖怪達の視線が一斉にそちらに向けられる。

茂みから勢いよく飛び出してきたのは一人の少年。銀色の髪に金色の瞳をした美しい顔立ちをしていた。

そして雪を思わせるような真っ白な狐耳と、尻尾。


少年と綾子の視線が交差した。



――綺麗。



それが、綾香の抱いた感想であった。死の淵にいるにも関わらず、綾子は思わず見惚れてしまう。

だが、妖怪達の奇声で現実に引き戻された。



「グギャアァッ!?」




先程まで綾子に襲い掛かっていた妖怪達は揃って小さな乱入者を見つめ、そして叫んでいる。

それはまるで、何かを恐れるように。



「女の人…?それに妖怪…!」



少年は綾子を見て一瞬驚く表情を見せたが、彼が何かを言う前に妖怪達が動き出す。



「グゥオオオッ!!」



妖怪達が少年に飛び掛かる。巨躯を活かした突進で肥大化した腕を振るい、爪で切り裂こうとした。



「危ないっ!!」



綾子な叫ぶ。あの丸太のような腕から繰り出される爪撃は大木もへし折ってしまう威力があるだろう。あんなものが直撃すれば一溜りもない。

成人した女ですら一撃で絶命する程の攻撃なのだ。あのような華奢な少年では耐えられないだろう。

掠っただけでバラバラにされてしまうに違いない。



「キミ、逃げろ!」



綾子は必死に叫んだ。しかし、少年は無言のまま微動だにしない。



「(駄目だ、間に合わない!)」



妖怪達が目の前に迫っている。このままだと確実に少年は殺られる。

そう確信した綾子は、せめて少年だけでも救おうと駆け出そうとした。



しかし次の瞬間、信じられないものを見た。



「狐狸流忍術・風刃乱舞!」



少年が指で印を結びながら叫ぶと、無数の風の刃が彼の周囲に出現し、迫りくる妖怪達を斬り裂き始めたのだ。

びゅうびゅうと音を立てて飛ぶ不可視の刃。それらは妖怪の肉を、骨を、内臓を容赦なく切り刻んでいく。



「グゲェッ!?」



妖怪達は悲鳴を上げながら地面を転げ回る。だが運良く風から逃れた一匹が少年に向かって突進していく。



「狐狸流忍具・狐手裏剣!えぃやー!」



だが、少年は慌てる様子も無く懐から黒い棒状の物を取り出すと、そのまま妖怪の額に向けて投げつけた。



「ギャウウッ!!」



眉間に深く突き刺さり、妖怪はそのまま倒れ伏す。それきり動く事は無かった。



「なっ……」



綾子は驚愕の眼差しでその光景を見ていた。あれだけの数の妖怪を相手に、少年は傷一つ負う事無く圧倒している。

風を操り妖怪を達を引き裂き、俊敏な動作で敵を翻弄しながら的確に急所を狙って仕留めていく。

その様は正に熟練の戦士の如し。



「す…凄い…」



綾子は呆然と呟くしかなかった。あの恐ろしい妖怪をまるで赤子のように扱っている。

しかも男が、だ。これが女ならば一流の戦士だと褒め称える事が出来るが、男は違う。

女よりも非力で無力な男が、女でも敵わないであろう妖怪相手に圧勝して見せたのだ。

しかもまだ少年ではないか。



「グォオオオッ!」



仲間が次々と殺された事に激昂したのか、残った数匹の妖怪が一斉に少年に飛び掛かっていく。



「狐狸流忍術・土壁!」



少年が叫ぶと、地響きと共に巨大な岩の壁がせり上がり、妖怪達の行く手を阻む。

突然現れた壁に驚き、妖怪達は後退る。その隙を少年は見逃さなかった。

彼は思い切り地を蹴り、跳躍すると、空中で回転しながら妖怪達に襲い掛かった。



「やーっっっ!!」



雄叫びをあげ、少年は妖怪達の頭上に舞い上がる。

少年の銀色の髪が陽光に照らされキラキラと輝いていた。綾子は思わず見惚れてしまう。

その姿はとても美麗で、まるで御伽噺に出てくる戦男神の如く美しかった。



「ギィイイッ!」



妖怪達は慌てて迎撃しようとする。だが、既に遅い。



「狐剣・朧月夜!」



少年は腰に携えた小太刀を抜き放ち、そしてその切っ先で空に弧を描いた。



「グゲッ……!」



鮮血が舞った。妖怪の身体が上下に分割される。

少年は静かに着地し、ゆっくりと顔を上げた。



「……終わったよ。もう大丈夫だよ、お姉さん!」




少年は振り返ると、笑顔を浮かべて綾子に語りかける。その声を聞いて、綾子はハッと我に返った。



「あ……ああ」



そして綾子は安堵感から地面に座り込んでしまう。


――助かったんだ。


自分はこの少年に助けられた。彼が来てくれなかったら今頃妖怪の腹の中だろう。

いや…しかし安堵感よりも今は驚きの感情の方が強かった。


こんな小さな子が、妖怪を……!?


しかも、男が…?



綾子は改めて少年を見つめた。年齢は妹の薫くらいだろうか。体格は華奢で、とてもではないが妖怪に勝てるとは思えない。

だが、現実には妖怪達を難なく倒した。一体どうやって?



「お姉さん?大丈夫?」



呆けていた綾子を見て、少年が心配そうな表情で話しかけてきた。

そうだ、今は考えている場合ではない。目の前の少年にちゃんと礼を言わなければ。



「ありがとう。助けてくれて本当に感謝するよ。私は綾香。君は……名前を教えてくれるかい?」



綾子は立ち上がり、少年に微笑みかけた。少年は一瞬驚いた表情を見せた後、満面の笑みで答えてくれた。



「僕は白狐です!キツネの半化生で、こう見えても忍者なんですよ!にんにん!」



半化生…!綾子は若干驚いたが確かに少年には白い狐耳と尻尾が生えていた。

このような辺境の地では半化生は非常に珍しいがそれでも何回かは見た事はある。半化生に差別意識を持つ人間は多いが、綾子はそうではなかったし、命の恩人を半化生だからといって蔑むような真似はしたくはなかった。


しかし、忍者…?


無論忍者という存在は綾子とて知っている。不思議な術を操り武を生業とする者達の総称だ。

忍者の大半が半化生であるとも知っていたが、男の忍者は見たことも聞いた事も無かった。


自分が無知なだけなのだろうか。半化生は人間とは違い男子でも戦う事が出来る種族なのだろうか。

綾子には分からなかった。



「…」



綾子がそう思案に耽っていると、少年の顔が間近に迫っているのに気付いた。綺麗な金色の瞳がこちらを覗き込んでいる。



「ッ!?ど、どうしたんだい!?」



思わず仰け反って驚く綾子。

よく考えたら彼は男だ。このような辺境では滅多にお目にかかれない男。

綾子も遠目で見た事はあっても実際にこうして男と話した事は無かった。

命の危機で忘れていたが、男に全く免疫が無い綾子は目の前の少年が男であった事を再認識し、顔を赤くしてしまう。


だが少年はお構いなしに綾子に近づき、彼女の頬に顔を寄せる。



「お姉さん、頬に怪我してる!舐めてあげるね!」


「―――は?」



綾子の返事を聞かずに、ペロリ、と少年は綾子の頬を舐めた。



「ひゃうっ!」



予想外の出来事に綾子は素っ頓狂な悲鳴を上げてしまう。



「(ななな、何を……!?)」



あまりの出来事に頭が混乱していた。心臓が激しく脈打ち、顔が熱くなる。

そんな綾子を尻目に少年は傷口を丁寧に舐め続ける。



「ん……まだ血が出てる……。待ってて、すぐに治してあげるから!」


「え、ちょっ……」



少年は懐から取り出した丸薬を口の中に入れ、そのまま綾子に唇を重ねた。



「~っ!!」



少年の行動に更に動揺する綾子。抵抗しようにも身体に力が入らない。



「ふぁ……んっ……♡」



舌が絡み合う。先程の丸薬は唾液と混ざり合い、苦味を消し去り甘さだけが残った。

少年は一心不乱に綾子の口に吸い付き、まるで何かを求めるように舌を動かし続ける。



「んっ……ちゅぱっ……ぷはぁっ♡」



数分の後、綾子はようやく解放された。少年は綾子の口から垂れた糸を指で拭き取ると、満足げに微笑んだ。



「綾子お姉さん、これで大丈夫だよ…って、あれ?」



少年が綾子を見ると、彼女は気絶していた。



「えぇ!?なんでぇ!?」



少年…白狐の戸惑いの声が森に響いた。


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