第10話 1999年10月26日、運命の日
1999年10月26日、運命の日。
詩織は午後からの授業のために昼過ぎに自転車で家を出た。
つい10日前にも深夜に車による嫌がらせ受け、襲われるかもしれないという切実な恐怖を感じながら、それでもいつも通りふるまうことによって立ち向かおうとしていたのである。
しかしこの時、すでに犯人グループの網の中に詩織はかかっていた。
そして今までは嫌がらせで済んでいたが、今日はそうではないことを彼女はまだ知らない。
車に乗って猪野家を張り込んでいた小松武史の部下である伊藤嘉孝が、彼女が家を出たことを見届けて携帯電話で連絡を入れた。
連絡した先は久保田祥史。
久保田は彼女を襲うために桶川駅前で待機しているのだ。
早く着きすぎてしまい、所在なさげにうろついている。
川上聡は運転手役で実行犯となる久保田を回収する役を担う。
久保田たちは前日にも下見に来て、詩織の行動パターンを把握。
昨日のように桶川マインの前に自転車を停めるであることも予測していた。
「俺がやる」と言ってしまった久保田は池袋の東急ハンズでスミスアンドウエッソンの両刃ナイフを購入。
決心が鈍らないように毎日取り出して眺めていた。
とはいえ、久保田は内心では来ないでくれ、と思っていた。
人間相手に平気でナイフを使えるほど度胸は据わってはいない。
しかも相手は女。
この男は元暴力団準構成員だったとはいえ元来チンケな小物であり、名乗りを上げておきながら徹底的に冷酷無比になり切ることができる男ではなかったのである。
そんな程度の奴だったから彼女がこちらに来ると分かった時、冷静さを余計に失いつつあった。
そして、これはあくまで獄中の久保田の証言なのだが、殺せという命令は和人も武史もしていない。
久保田自身本来ならばナイフで命までは奪わず、顔を斬ることを目的としており、川上や伊藤にもそう話していたのだ。
この二人も殺すことは想定していなかったようで、顔をひきつらせた久保田が車を降りる際に「太ももを狙ってくださいよ」と声をかけていが「約束できない」と返されている。
しかし、実際に彼女が桶川マイン前まで自転車でやって来たのを目の当たりにした時、久保田は冷静さを欠いたまま覚悟を決めてしまった。
詩織が自転車に鍵をかけて背中を見せた時、もう正気を失っていた久保田はその背中だけを浮かれたように凝視し続けて背後から近づき、勢いが先走って顔ではなく見続けていた背中に一突きしてしまう。
そして彼女が振り返った時に、思わずみぞおちあたりも刺す。
手ごたえはなかった。
豆腐を刺したようにすうっと入る形で刃物は詩織の柔らかい体を貫いたのだ。
彼女は膝から崩れ落ち、久保田は彼女の「あああああ!いたああああい!!」という悲痛な悲鳴を耳にしながら現場を急いで立ち去る。
逃走経路はすでに計画しており、その先には川上の運転する車が待っていた。
車に久保田が乗り込むと川上は急発進させて現場を離れる。
途中、現場で見届け人の役をしていた伊藤から携帯電話で連絡が入った。
「おいおい!血だらけだぞ、何やったんだよ久保田さん!顔っつったろうが!」
伊藤も殺すとは思わなかったらしく、半狂乱になっている。
「人を殺してしまった」と久保田自身ももう冷静ではなかったようだ。
どこをどう帰ったか、彼自身覚えていなかったと獄中で語っている。
池袋に帰った後、小松武史から連絡が入り、三人は赤羽のカラオケボックスに呼び出された。
「何てことしてくれたんだよ!!」
武史は久保田をなじった。
彼自身殺せとは一言も命じていないのだ。
「すいませんでした。でも、ここまでしなけりゃマネージャーが納得しないと思ったもので」
勢い余って殺してしまった久保田はそう釈明したが、「そんなわけねえだろ!どんだけバカなことしたか分かってんのか!?」と武史は納得せずになじり続ける。
そうはいっても善後策を話合わないわけにはいかない。
「とにかく久保田さんには現場離れてもらうしかねえ。店の方は残った人間で何とかすっからよ。これ、弁護士費用にしてガラ躱してくれ」
武史は和人から受け取ったストーカー行為のための費用の一部の一千万円を久保田に渡した。
体よくお払い箱にしたのである。
お前らのために俺は人まで殺したんだぞ!
この時、久保田の頭の中に武史への強烈な逆恨みが芽生えた。
思わず名乗りを上げて勝手に自分を追い込み、暴走して一人の女性の命を奪っておきながらこの男は普段から偉そうな武史にトカゲのしっぽ切りにされたと思い込んだのだ。
久保田はこの日以降逃亡生活に入ったことになっていたが、まだ都内にいた。
そしてこれまで仕事中に毎日バンバンかかって来た武史からの電話もかかってこなくなり、こちらからかけてもつながらない。
仲の良い伊藤に電話してこちらに連絡するように依頼したが、やはり連絡はない。
散々つくした俺を見捨てやがって!
小松兄弟、特に普段から偉そうでいけ好かなかった武史への怒りで久保田の頭の中はいっぱいだった。
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