第5話 生怨霊のような男

こんな男とは付き合ってられない。


詩織は3月30日、「小松誠」に別れを切り出した。

半端ではない異常性を持っている男相手であるから命の危険すらある。

家を出る前に遺書すら書いていた。


しかし結局別れることはできず、交際を強いられることになる。

小松が家族をネタに脅し始めたからだ。


「お前のオヤジ、結構な大企業勤めてるよな。でもよ、俺にかかればお前のオヤジをリストラさせることなんて簡単だぜ」

「俺は警察にも政治家にもカオが効くからよ。それに金で言うこと聞く奴いくらでも知ってるからな」

「別れるってんなら天罰下して一家崩壊させてやる。俺をその辺の男と一緒にすんじゃねえ!」


小松は詩織の家族の情報をなぜか話してもいないのによく知っていた。

なぜなら興信所に依頼して調べさせていたからだ。

そして小松の本名は「小松誠」ではなく「小松和人」であり、年齢も23歳ではなく26歳。

職業も外車を売るディーラーではなく風俗店経営者。

それも無許可営業のもぐりの店だったが、かなり繁盛していた。

だから実際に金を持っているし、病院に行った時に病室に手下のような男がいたことを覚えている詩織はこの男ならやりかねないと心底怯えたのだ。


こうして、家族に危害が及ぶのを避けるため嫌々続けることになったこの交際は詩織にとって地獄のようなものになる。


まず小松はその嫉妬深さが異常であり、束縛のレベルがハンパではなかった。

詩織の携帯を取り上げて調べ、メモリーにある男友達の所に電話をかけて「詩織に近づくんじゃねえ!告訴してやるぞ!」と脅し、人間関係を破壊。

そしてその携帯電話を彼女自身の手で壊させたために多くの友人の連絡先の情報を失った。

また、携帯を買い替えた後は三十分おきに電話をかけてきて、つながらないと自宅や友人のところにまでかけてきたので電源を切るわけにもいかない。

「あいしてる」と何回も言わせて言わないとブチ切れる。

詩織が愛犬の散歩をしていた時にかかって来た時に「何をしているのか」と聞かれて「犬の散歩してる」と答えるや「俺の相手しねえで犬と遊んでやがったのか!てめえの犬殺しちまうぞ!!」とキレられる始末。

「お前は俺のために自分の手を切れるか?俺はできるぞ」とナイフを目の前に置かれたこともあるくらいだったから、その異常ぶりは身の毛もよだつほどだ。


しかもこの狂った男の望みはこのまま交際を続けるだけではない。

「大学をやめてオレと結婚しろ、俺の子を産め」という地獄のような人生確定の要求をしていたのだ。

二十歳くらいでこんなサイコパス野郎と結婚なんて冗談じゃない。


詩織は悪霊にとりつかれたようなものだった。

彼女がだんだん憔悴していったのも無理もない。

何度も泣かされ、「別れてください」と哀願しても応じてくれない。

ならば嫌われようと、わざと変な髪型にしたこともあったが、「お前、俺に嫌われようとしてんだろ」と見破られていた。

小松は彼女の周囲の友達に金品を渡して、詩織が話したことなどを自分に伝えさせてもいたのだ。


「私殺されるかも」と周囲に暗い顔で漏らすようになり、怯えるあまり頭を丸坊主にしようとまで追い詰められることになる。


だが、もう限界だった。

家族を巻き込みたくないためにこの地獄の交際を続けてきたがもう我慢できない。


6月14日、池袋の喫茶店で詩織はきっぱりと小松に別れを切り出す。


「裏切んのか?俺から高えもんふんだくってることとかも親に言うかんな」

「それでもいいです。もう付き合う気はありません」


毅然とした態度に、小松は悪鬼の形相で詩織を睨んでいた。


詩織は帰り路に母親に小松という男と交際していたこと、これまでずっと苦しめられていたことを話した。

家族に危害が及ぶのを防ぐため、また、心配させないために黙っていたことだったが、こうなった以上話さないわけにはいかないのだ。


まだ不安は大いに残っていたであろうが、少しはすっきりしていたはずだ。

だが、小松はそんじゃそこらの嫉妬深いだけの男ではない。

その逆恨みをはらすための行動力とそれを実行に移すための資金力が並外れていた。

それはこの日の夜、詩織ばかりか猪野家の人間すべてが思い知ることになる。


小松は人を伴って猪野家に押しかけて来たのだ。

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