50.「この羽虫、怪しいですね。もしや森林国のスパイか?」

森林国の軍勢と王国軍が激しい戦いを繰り広げている頃───。

都市ラインフィルにある貴族街にある一際立派なお屋敷……ノーヴァ公爵邸にて、エリムは庭のテラスに用意されたお茶を飲みつつ、ほのぼのとした日々を過ごしていた。

空は快晴、暖かい日差しが降り注ぎ、そよぐ風は優しく肌を撫でる。


「平和だなぁ……」


エリムはテラスのテーブルにティーカップを置き、庭にある見事な彫刻が施された噴水や庭園を眺めながらのんびりと過ごす。

しかし、彼の心は穏やかではなかった。何故なら彼の敬愛(?)する主人であるアイリスが現在戦争に行っているからだ。

今、この瞬間にも彼女が傷付いていると思うと居ても立っても居られない。彼の周りは平穏ではあるが、エリムの内心は嵐の如く荒ぶっていたのだ。


「エリムくん、お茶のお代わりはいかが?」


そんな彼の対面の椅子に座り、優雅に座るのはノーヴァ公に仕えるメイド……マリアである。

しかし、彼女はいつもと違いメイド服ではなく、シンプルなブラウスとロングスカートといった、まるで町娘の様な格好をしている。


「あ、いえ。ありがとうございます。でも、結構です」


エリムはマリアの雰囲気に違和感を抱きつつもそう言った。そもそも奴隷の自分がこんなに優雅に過ごしていていいのだろうか?なんかおかしくないか?

そう思うエリムであったが、今更の事なのでどうしようもない。

そしてまた遠くを見つめるエリム。その表情はアイリスの事を思い、暗く沈んでいる。


「エリムくん、御屋形様の事が心配なのですね」


何かを憂うようなエリムの表情を見て、マリアは優しく声をかける。

自分の心を読まれたような気がして、少し驚きながらエリムはマリアに向き直る。


「……はい、心配です」


寝ても覚めても、アイリスの事ばかり考えている。

怪我をしてないだろうか?上手くやっているのだろうか?無事なのだろうか?心配で気が狂いそうだ。


「大丈夫ですよ、御屋形様は絶対に死にませんから」


マリアはエリムの瞳を真っすぐに見つめながら、そう言った。エリムはその瞳に吸い込まれそうな感覚を覚える。

何故、そう確信して言えるのだろうか?彼女は心配ではないのだろうか?そんなエリムの疑問を先読みしたかのように、マリアは続ける。


「御屋形様が死ぬ訳がありません。だってあの女が死ぬ時は世界滅亡した時くらいだし……あ、いえなんでもないです」

「?」

「それに、御屋形様を傷付けられる存在なんてそれこそ悪魔くらいしかいないし、つーかあの女自体が悪魔……あ、いえなんでもないです」


何かよく分からない言葉が聞こえたが、兎に角マリアはアイリスの事を信じているのは伝わってきた。

根拠の無い信用……しかし、それはマリアのアイリスに対する絶大な信頼(とエリムは思っている……)の証なのかもしれない。

彼女達は深い愛情と敬愛で結ばれる主従なのだ。その事に気付いたエリムは自らの思慮の浅さに恥ずかしくなる。

そうだ、主を信じるのならば、このように心配する事こそが不敬に当たる。ならば自分もアイリスを信じて、彼女の帰りを待とうではないか。

恐らく彼女は傷付き、必死に戦っているに違いない。そんな彼女の帰りを信じて待つ事こそが、今の自分に出来る最善の事だ。


「なんかの間違いで死んでくれねーかなぁ」


マリアがまたよく分からない事を呟いた様な気がするが、エリムは気にしない事にした。


「ところでマリアさん。一つ気になる事があるのですが……」


エリムは本題に入る為、紅茶のカップをテーブルに置いた後、改めてマリアに向き直る。


「あら?何かしら?」

「どうして私服なのですか?」


エリムの言葉を聞いたマリアは、スッと立ち上がると優雅な仕草でスカートの裾を摘んで、お辞儀をする。


「似合ってます?」

「え?えぇ……とてもお似合いです」


突然のマリアの質問と行動に戸惑いつつも答えるエリム。実際、彼女が着ている服はとてもよく似合っていた。

普段もメイド服姿しか見た事が無いので新鮮だ。いつもの凛とした彼女とは違い柔らかな雰囲気がとても魅力的だった。


「ふふっ、ありがとう」


そう言うとマリアは椅子に座り直し、優雅に紅茶を一口飲んだ後、口を開く。


「今日は私、お休みの日なのです。だからこうして普段着に着替えているだけですよ」


成程、そう言う事だったか。

……あれ?しかし何故お休みの日にこの邸宅に出勤しているのだろうか?というか今まで彼女と結構な時間を過ごしてきたが、お休みの日なんて初めて聞いたぞ?

エリムは首を傾げるが、深く考えない事にした。考えてもしょうがないし……。


「そして今日はエリムくんと私の初デートの日でもあります……きゃっ♡」

「え?」


初デート?なんだ、それは?そんな約束していたっけ?

エリムは自分の記憶を辿ってみる。しかし、デートに行く約束などした覚えは無い。

だが、マリアはさも当然かのようにそう言った。も、もしかしたら約束したのを忘れてしまったのかもしれない。

そうだ、そうに違いない……。

エリムは女性が悲しむ様子を見たくなかった。故に自分が忘れたという事にした。


「まぁ今日の朝、私が決めたんですけどね」


───朝決めたんかい。つーか、約束なんてしてなかったんかい。

心の中で盛大に突っ込みを入れるエリム。

しかし、口には出さない。そんな事言ったら彼女の機嫌を損ねるかもしれないからだ。

エリムはアイリスの事も好きだが、マリアの事も好きだった。彼女は美しく、聡明で、そして優しい。

マリアといると、心がなんだか暖かくなるものを感じていた。なんだか心地よい感覚だ。

だから、彼女を悲しませたくなかった。彼女の悲しむ姿は見たくないのだ。


「エリムくんとデート、楽しみだなぁ……♡」


マリアはまるで恋する乙女のような、うっとりとした表情でそう言う。そんな彼女を見てエリムの心臓の鼓動が早くなる。

顔が熱い……なんだか身体が熱くなってきたようだ。これは一体なんなんだ?病気なのだろうか?


「───む?」


その時であった。


不意にマリアの表情が一転し、真剣な表情で庭のある一点を見つめる。

はて?なんだろう?エリムがそう思い彼女の視線の先を見る。だが、何もない。

大きな木が一本生えているだけだ。


「マリアさん?」

「ハァッ!!!」


エリムがマリアに問いかけようとしたその瞬間。マリアは常人には視認できぬ程の速さでその木に向かって駆け出し、その余波で凄まじい風が巻き起こる。

そしてエリムがその突風に耐えきった頃には既にマリアの拳は木の幹を穿ち、衝撃を加え木を粉砕していた。


「マリアさん!一体どうし……」


彼女がいきなり奇行に走った事に驚きつつも、マリアに駆け寄り彼女の視線の先を見る。するとそこには一匹の妖精がいた。


「えっ……」


どうやら木の裏側に隠れていたらしく、彼女は半透明の翅を必死に動かし、その場から飛び立とうとしている。

だが、マリアはそれを許さなかった。目にも止まらぬ速さでその妖精を捕らえると、逃げないようにギリギリと両手で締め付ける。


「ぐぇー!!」


マリアに万力のごとき力で締め付けられた妖精は、苦悶の表情で悲鳴を上げる。


「妖精……?なんでこんなところに?」


マリアは首を傾げるが、それでも手に込める力は緩めず、妖精を締め上げ続ける。


「ぐえぇー!し、死ぬぅー!!助け……グェッ!!」


苦悶の表情を浮かべながら泣き叫ぶ妖精。その表情には恐怖が浮かびあがっている。

その様子を唖然とした様子で見ていたエリムだが、ハッと我に戻ると慌ててマリアの腕を掴みこう言った。


「マ、マリアさん!その子、助けてあげてください!可哀想です!」


エリムの言葉にマリアは一瞬何かを思案するような表情を浮かべるが、すぐに笑みを浮かべてこう言った。


「エリムくんがそう言うなら仕方ないですね」


マリアは妖精から手を離すと、妖精はケホケホと咳き込みながらふよふよと宙に浮遊している。


「うぐぅっ……いきなり襲ってくるだなんてなんて野蛮な人間なの……」


妖精はマリアを恨めしそうに睨むが、マリアはギロリと妖精を睨むと彼女は目を逸らしてしまう。

どうやら相当な恐怖だったらしく、身体が震えていた。


「えっと……君、大丈夫?」


エリムは妖精の顔を覗き込むようにしてそう言った。彼は森林国の王城に住んでいた時、妖精さん達と触れ合っていたので妖精という存在には慣れている。

彼女達は臆病だが悪戯好きで、好奇心に支配された妖精だ。王城にも勝手に入り込んで、時たまエリムと遊んでくれた。

だからエリムは妖精という存在に好意を持っているし、彼女を助けたいと思った。


「ん……?あっしまった!王子に見つかっちゃった……!」

「え?」


今、彼女の口から王子という言葉が飛び出さなかったか?何故エリムが王子だという事を知っているのだろうか?

エリムは城の時と同じようにただ単にここに迷い込んできた妖精さんだと思っていたのだが、何やら妙だ。

そしてマリアも同じ事を思ったようで、彼女は再び妖精を握りしめると、先ほどよりも力を込めて妖精を締め上げる。


「ぎゃー!!!」

「この羽虫、怪しいですね。もしや森林国のスパイか?」


妖精はマリアの手から何とか逃れようとするが、彼女の腕はびくともしない。


「そ、そんな訳ないじゃん!王子なんて知りませーん!本当だもーん!!」


なんと分かりやすい嘘を吐くのだろうか、この妖精は。

しかしこれだけ締め上げても妖精は本当の事を言わないようで、さてどうしたものかとマリアは考える。


「ねぇ君。どうしてこんなところにいたの?迷い込んだんじゃないよね?僕に教えてくれるかな」


そんな時、エリムが握られている妖精に優しげな表情を浮かべそう言った。

そのスマイルは女性ならば一瞬で恋に落ちそうな程に甘く、そして魅力的だった。

事実、マリアはエリムの笑顔を見て頬を染め、彼に熱い視線を送っていた。

しかし当の妖精はと言うと……


「だ、だめぇ!王子には教えてあげたいけど……ララミアヴェール様に『ひっそりと王子の様子を見守って報告するんだよ』って言われてるからダメなのー!!」


妖精は涙目になりながらそう言った。彼女の言葉にマリアとエリムは顔を、見合わせる。

もう既に自白しているようなものなのだが、彼女自身はまだ隠していると思い込んでいるようでマリアの手の中でジタバタと暴れている。


「ララミアが?」

「エリムくん、御知り合いですか?」

「えっと……はい。王城にいた時に仲が良かった妖精さんですけど……」


エリムはこの妖精が出した名前をよく知っていた。

ララミアヴェール……エリムが森林国の王城で暮らしていた時に一番仲が良かった妖精さんがララミアヴェールという名の妖精であった。

彼女は妖精ではあるが知的な雰囲気を醸し出す大人の女性(見た目は幼い……というか小さいが)然とした妖精で、エリムが幼い頃から良く遊んでくれていた。

エリムがそんな事を考えていると、マリアの締め上げる力が更に増し、妖精の顔が真っ青になる。


「マ、マリアさん!そんなに力込めたら妖精さんが死んじゃいますよ!」

「え?あぁ私とした事が」


エリムの言葉にマリアはハッとすると、彼女を手から放す。妖精は空中で力なく項垂れると地面に墜落しそうになったので急いで救出した。

そしてエリムは優しく彼女の身体を抱きかかえる。彼女はエリムの腕の中で小刻みに震えていたが命に別条は無いようだ。


「こ、この妖精殺し……」


エリムに抱かれながら妖精はマリアを恨みがましい視線で睨みつける。

しかしエリムの心地よい腕の感触と、なんだかいい匂いが妖精の鼻腔を刺激し、彼女は少し気持ちよさそうな表情を浮かべた。


「うぅ~ん……?ララミアとやらがエリムくんの知り合いなら別にコイツを殺す事もないですけど……放置するのも面倒な事になりそうですね」


マリアは顎に指を当てて考える。そして言った。


「そうだ、翅を全部毟り取って腕と脚をもいでおきましょう。うん、それなら逃げられないし安心ですね」


マリアが言った言葉に、エリムの腕に抱かれていた妖精がギョッとした表情になる。

こ、この女は一体何を言っているんだ?そんな残酷な事が許されていいのか?お世辞にも頭が良いとは言えない妖精だが、マリアの残虐な言葉に怯えるくらいの知能はあったし、それが許される事では無いと理解するだけの知能もあった。


「こ、この女何言ってんの!?それにこのラインフィルっていう場所は、痛い事禁止って聞いたよ!そんな事したら全部壊れちゃうって!」


妖精の言葉にマリアはピクリと眉を釣り上げる。しかしその後、嘲笑するような口調でこう言った。


「おや、ラインフィルの防衛機構の事をご存じとは。妖精も侮れませんね。でも……」


マリアはエリムの腕に抱かれる妖精に、囁くようにこう言った。


「知ってました?確かにこのラインフィルの地では殺傷行為は禁止ですが……妖精だけは、殺しても大丈夫なんですよ」

「えっ……?」


マリアが言った言葉は脅しではなかった。事実としてこのラインフィルで妖精を殺しても古代文明の防衛機構は反応しない。

妖精という存在は純然たる生命とは違い、概念的存在なのである。驚くべき事に彼女らには生という概念が存在しない。ただ、自然現象として普遍的に存在しているだけだ。

故に、死という概念もない。妖精を殺したとしても、いつの間にか妖精たちは何事もなかったようにひょっこりと生き返る。いや……殺す、生き返るという表現も厳密に言えば違うのだが、妖精の死という現象が認知できない為、そう表現するしかないのだ。


「う、うそだ!そんなこと……」


しかし、いくら死なないと言っても痛みと恐怖は味わうのだ。だから妖精は死にたくない。

彼女達は純粋であるが故に痛みや恐怖を極端に嫌う。どんなに切り刻まれても、焼かれても、身体が消滅しても生き返るのだが、それでもやはり、死ぬのは怖いのだ。


「本当ですよ。試してみます?」


マリアが残虐な笑みを浮かべ、懐から針を一本取り出した。無論、刺されば非常に痛い事は想像に難くない。


「これをね、指と爪の間に刺してぐりぐりするんです。そうしたら大抵の奴は悲鳴を上げて、許し乞うんですよ。ふふっ、そうするともっとぐりぐりしたくなってくるんです。エリムくんの知り合い……の知り合いみたいだからやめてあげましょうと思ったけど……やっちゃおうかな」


マリアの言葉を聞いた妖精はガタガタと震え始め、瞳に涙を浮かべる。

マリアの脅しに屈したのだ。彼女には逆らう事も許されないという本能的な恐怖が芽生え始めていた。

そして、その恐怖が最大に達した彼女は白目を剥いて気絶した。

こてんと顔を地面に向け、口から泡を吹き、身体は痙攣している。


「あら?気絶しちゃいましたか」

「マリアさん……そんな事する気ないのに、可哀想じゃないですかこの子」


マリアの言葉にエリムは呆れたような表情を浮かべながらそう言った。

エリムは知っている。あの優しいマリアが今言った残虐非道な事をする訳がないと。

恐らくは妖精を気絶させ、確保しておこうという気持ちがあったのだろうが……それにしてもこれはやりすぎだ。

可愛らしい少女がこのように恐怖に慄き気絶する姿はエリムとしても見ていて可哀想な気持ちになってくる。


「え?本当にするつもり……あ、いえなんでも。こほん。そうです、このお優しいマリア、そんな事はいたしませんよ。決して。えぇ。マジで」


マリアはこほんと慌てて咳払いした後、若干棒読みでそんな事を言った。


「この妖精、取り合えず逃げられないように鳥かごにでも入れておきましょうか」


エリムの知り合いに頼まれて彼の事を監視していたのは分かったが、やはりスパイという可能性も捨てきれない。

ここは捕獲して、ノーヴァ公爵邸にて監禁しておこうとマリアは考えた。


「うーん。でもなんでララミアはこの子を僕のところに寄越したんだろう?」


エリムは妖精を抱きながら、何やらぶつぶつと考え込んでいる。

そんな彼をマリアは背後から抱き締めた。

突然抱き締められたエリムはビクッと身体を硬直させる。


「マ、マリアさん……?」

「この子の処遇はプラネ様に判断を任せるとして……ねぇエリムくん、デートに行きましょう?♡♡」


マリアは耳元でそう囁きながら、ぎゅっと彼の身体を抱き締める。そして密着している事をアピールするかのようにわざと身体をユサユサと動かした。

そんなマリアの行動にエリムは頬を真っ赤に染める。彼は背後から伝わってくる柔らかい感触を意識せずにはいられなかったし、何より耳にかかる彼女の吐息がとてもこそばゆく、彼女の良い匂いが鼻孔をくすぐる度にドキドキが止まらなくなった。


「そ、その……マリアさん」

「なんですか?」

「……む、胸が当たってるんですけど……」

「当てているんですよ。ほら、こうやって身体を揺すればもっと気持ちよくなるでしょう?デートに行けば、もっとすごい事出来るかも♡」


そう言って彼女はエリムに身体を擦りつけるようにして更に密着する。そしてわざと甘い声で彼の耳元で囁いたりもしていた。

何故急に彼女はくっついて……?そう思ったエリムだったが、そう言えばさっき彼女は初デートがなんやらと言っていたような……。

もしかして妖精さんに辛くあたっていたのは、デートに行きたくてイライラしていたから……?


「デートって……ど、どこへ?」

「そうですねぇ……」


エリムの問いに、マリアは顎に指を当てて考える。そして思いついたようにこう言った。


「まずはラインフィルの街に行ってみましょうか♡」

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