26.「僕の名はエリム・アルディハウル。レメゲスト森林国の王子です」

ティータイム……。それはまさに、平穏と静寂の融合。

小さなテーブルを囲み、精神の安寧を計る至福の時間……。


「……」


カチャリ、とカップを置く音が静かに響いた。その音すらもティータイムのスパイス。

微笑み、和み合う一時の安らぎ……。


「ふぅ……」


ヴィンフェリア王国の美しき侯爵、イライザは、美しい髪を耳にかけながらティーカップを静かに置くと、深く溜め息を吐いた。

ここ最近はこうしてゆっくりとお茶を楽しめる時など無かった。

イライザにとって悪夢にも等しいオークションが終わった後。天使を逃した忌々しいあの出来事の後、彼女は悲しみに暮れた。

奴隷の青年達を全て手放すほどに天使に焦がれた美侯爵は、ただ悲しみに暮れる毎日を送っていた。


しかし、それも最早過去の事。イライザは紅茶を嗜みながら、真横に座る天使を見る。


「?」


不意に目が合った。天使……エリムはイライザと目が合うと、少し照れ臭そうに微笑んだ。

その笑みはまさしく天使の微笑み。イライザはそんな彼の微笑みに、頰を赤く染めるのだった。


「(ああ……可愛いっ!)」


もはや言葉にするのも億劫なほど、エリムを溺愛していた。

かつてないほどにイライザは浮かれていた。それは当然である。なにせ目の前……というか横にあの天使がいるのだから。

彼の匂いが、彼の感触が、彼の視線が……全てがイライザの心を歓喜させる。

美しさもさることながら、彼の反応もイライザを昂らせる。


「エリム……お前は愛い奴よの……♡」


イライザは微笑みを絶やさず、ひたすらにエリムの頭を撫でる。そして、その美しい髪を梳くように手でなぞった。

まるで愛する息子を愛でるように、優しく、激しく。

エリムは何も言わず、ただ嬉しそうに笑う。その表情にイライザはまた心が高鳴った。


「(ああ……可愛い……可愛い♡)」


イライザは内心そんな感情で一杯だった。自分の思い描く理想の美少年の姿に、エリムの全てが合致していたからだ。

その美しい髪も、華奢な体つきも、少し幼くも大人びた顔立ちも、全て自分好み。しかして性格は純真無垢な青年。

まさにイライザの理想通りの、自分の思い描いていた美青年の具現化であったのだ。

天使のように美しい男……そう形容した自分の感性は間違っていない。そんな彼に愛される自分はなんと幸せ者か……。イライザは満面の笑みでそう思うのだった。


「のぅ、エリムよ。お前は妾の事をどう思う?」


知らず、イライザは横に座るエリムにそう聞いていた。それは普通ならば聞かない質問だ。

男にそんな事を聞いたって、拒絶の意が返ってくるだけだ。事実、イライザもそのような経験しかない。故に彼女も途中から全てを諦め、男とはそういうものだ、と達観していた。


しかし、彼は違う。


「えっと……その……イライザ様はとてもお美しい方で、とてもお優しくて、凄く綺麗で……。まるで女神様みたいです!」


エリムは頰を赤く染めてそう言った。その言葉に嘘偽りが無い事を、イライザは知っている。

彼は純真無垢な青年なのだ。だからこそ、そんな言葉がすらすらと出るのだ。そしてそれはつまり、彼が心の底からそう思っているという事の証明に他ならない。


「(嗚呼……なんという事か)」


そう理解した時、イライザは思わず息を飲んだ。自分が今まで生きてきた中で、ここまで心の底から美しいと言ってくれた人物がいただろうか。いや、いない。


「(ああ……っ!妾はなんという幸せ者か……っ!)」



イライザは感動のあまり体が震えるのを必死にこらえるのだった。


「そうかそうか♡妾の事を女神と見間違うか♡」


自分の事を女神と見間違える程、彼は自分を慕っているのだと理解した時、イライザは自分の胸に溢れる多幸感に身を委ねた。

もう何も怖くないし、恐れるものもない。彼が望むのであれば、自分が持てる力と権力を全て駆使してでも彼の為に尽くす。そう心に誓える程だ。

最早、イライザはエリムにメロメロであった。かつての婚約者にすら抱いたことの無い感情が彼女の心を支配していた。

どんな美青年も、エリムの前では霞んでしまうだろう。彼はまさしく完璧と言っても差し支えない、自分にとっての理想の存在なのだから。


「(ああ……本当に可愛らしい子よ……)」


その微笑みがどれだけ自分の心を震わせているか、彼は分かっているだろうか?いや、きっと分かっていないだろう。

しかし、それでいい。これからも自分は彼を愛でて、そしてエリムも自分を愛でてもらう。それだけで良いのだ。

イライザは内心で、至福のひと時を堪能していた……。


「って何やっとんじゃババァ!!!」


そんな至福の時間を邪魔する、もう聞き慣れた声が不意に響いた。

イライザとエリムが揃って声がした方向を見ると、そこには憤怒の表情を浮かべたアイリスが、拳を握り絞めて仁王立ちしていた。


「あ?何だ貴様。妾とエリムのイチャラブを邪魔するでない」


イライザは突然現れたアイリスに不機嫌そうに眉を顰める。折角の至福のひと時を邪魔されたのだ、それも致し方ないと言えよう。

しかし、アイリスはそんなイライザの心情など意に介さず、ずんずんと歩いてくると……。


「人の奴隷と何イチャコラしてくれてんのよ!!つーかなんでアンタが私の屋敷にいる訳!?ここノーヴァ公爵の屋敷なんですけど!?」


ラインフィル貴族街に存在するノーヴァ公爵邸。帝国の権威を示す豪華絢爛な屋敷に、イライザはいた。

帝国の仇敵であり王国の侯爵であるイライザがノーヴァ公の屋敷にいるとはなんとも奇妙極まりない光景だが、イライザはその言葉を聞きふん、と鼻で笑う。


「何を言っている。最早、貴様と妾は一蓮托生。という事はこの屋敷も、エリムも一蓮托生……つまりは貴様のものは妾のものというわけだ」

「はぁ!?何それ意味わかんないんですけど!?」


エリムを自分のものにした事に愉悦を感じたのか、自慢げな表情でそんな事をのたまうイライザにアイリスはイラッとした様子で叫んだ。

しかし、彼女の言葉などどこ吹く風……。イライザは更に続ける。


「つーか貴様はもう公爵家の当主を降ろされたんだろう。なら貴様だってこの屋敷を使う権利はないぞ」

「は?私は確かにノーヴァ公爵だし。当主を降ろすだなんて、ミラージュのクソババァが勝手に言ってるだけだし」

「ミラージュ、ねぇ」


アイリスの言葉にイライザは何かを思い出すように遠い目をする。

ミラージュ。先代ノーヴァ公。イライザは彼女と幾度となく戦場で相まみえた。

武人としても、将としても、敵ながら惚れ惚れする程の才能の塊のような女性だった。

ミラージュがいなければ帝国など一捻りに出来たものを……と、イライザが何度思った事か。

身体は小さいが、その力はまさに巨人。軍神の化身とまで言われた圧倒的カリスマ性を持つ、まさに帝国の英雄とも言える女性であった。

だが、それはあくまでかつての話……。


「ミラージュも老いたものだな、こんなのを後釜に据えただなんて……」


ミラージュが引退した時、イライザは喜んでいいのか分からないのか複雑な気分になった。

敵同士とは言え、彼女が退いたと聞いた時は一抹の寂しさすら覚えたものだ。

ある種の畏敬すら覚えた相手から、アイリスは何一つ受け継いでいない。寧ろマイナスの部分しか受け継いでいなかった。

いや、無論この女は単体で見れば帝国最強……いや、世界最強と言っても過言ではない。


だが、将としての素質はゼロだ。それもドが付く程。ついでに人間としての倫理観もゼロ……。

故にイライザはアイリスを恐れている。ミラージュとは違い、実力では無く悪魔として。


「アンタさぁ、私の部下になったんならさっさと王国軍使ってノーヴァ公爵領滅ぼしなさいよ。森林国も攻めてきてる今がチャンスじゃない?で、私以外のノーヴァを縛り首にして私がノーヴァ公爵として君臨するの!」

「貴様本当に人間か?悪魔かなんかじゃないのか?」


平然と自らの自領に侵攻し、家族を皆殺しにしろと宣うアイリスにイライザは恐怖した。

こいつは身体能力も人間離れしているが、思考も人間離れしている。

まるで悪魔が美女の皮を被って人間のふりをしているかのようだ。


「……今は王国軍を動かすわけにはいかん。森林国が怒涛の勢いで攻め寄せてきてるからな」


イライザには連日のように王国からの使者が来ている。その目的は森林国との戦争の件で、ファルツレインにも参戦を要求されているのだ。

しかし、イライザとしてはそれは正直勘弁願いたいところであった。

何せ、愛しき美少年エリムと引き離されるのだから……。


「のぅ、エリムゥ。妾はどうしたらいいと思う?王国の為に出陣したいが……お前を置いていくのは寂しい……♡」


エリムにしなだれかかるようにして、イライザはそんな乙女のような事を口にする。

彼女の豊満な胸がエリムの細身の体を包み込んだ。妖艶な女性の色気と子供のような無邪気さが入り混じった、なんとも言えぬ雰囲気にエリムは思わずゴクリと唾を飲み込む。


「え、ええと……その……」


どう返答すればいいのか分からず、エリムは言い淀む。そんな美青年の姿が、イライザの心をくすぐった。


「あーーー!!もう鬱陶しいわね!」


そんなイライザに嫌気が差したのか、アイリスは声を張り上げて無理やり二人の間に割り込んだ。


「ちっとは自分の歳考えなさいよババァ!アンタ自分の子供より若い男の子に色目使うとか恥ずかしくないワケ!?」

「黙れ小娘。妾はババァではない、美少女だ」

「いや何その言い訳!?自分の子供の前で今の言葉言えんのそれ!?」


ギャーギャーと言い合いを続けるアイリスとイライザ。エリムは二人の胸に挟まれて、正常な思考能力を奪われていた。

いい匂いが両方からしてきて、とてもじゃないが意識を保つので精一杯だ。

正直、エリムはこのイライザという女性から発せられる甘い匂いが大好きであった。

異性を惑わせる、まるでフェロモンのような香りだ。いや、もしかすると本当に彼女から何かが分泌されているのかもしれない……。

母性と艶やかな色香を放つその香りは、まるで麻薬のようにエリムの思考を蕩けさせた。

アイリスの若々しい匂いも好きだが、イライザのそれはまた別格だ。

甘く、馨しく、それでいて心安らぐ……そんな香りだった。


「い、言えないが……し、しかしエリムはエルフだ!もしかしたらこの見た目で妾よりも年上かもしれんではないか!年上に甘えるなら普通だし!」

「はぁん……?エリムがアンタより年上ぇ?何言ってんのよアンタ。エリムはねぇ……あれ、何歳なんだろ?」


ふとアイリスはエリムの事を何も知らない事に気付く。

奴隷として買ったというのに、肌を重ね合わせたというのに、アイリスはエリムの事を何も知らない。

年齢も、趣味趣向も、彼の事を知ろうとすらしていなかった。


「(しまった……私、エリムの事何も知らないじゃん……!)」


気付いた時にはもう遅い。アイリスは内心で自分を罵倒した。

愛さえあれば年齢は関係ないのだ!そう結論付けたが故の行為であったのだが……それは思いの外致命的だったかもしれない。

何せアイリスにとってのエリムとは『イチャラブ出来る男の子』という認識しか無かったからだ。

女に忌避感のない、というか女性が大好きなエルフの美青年。ただ、それだけだった。


「(で、でも私!エリムとキスとかしたし!)」


最早、何を理由に張り合っているのか分からないが、それでもアイリスはエリムとの関係を自他共に認める『イチャラブした仲』であると思っている。

故に、彼女は必死に頭の中で考えていた。どうすればエリムとの関係性を証明しつつ、このババアを言い負かせるかを。


「お屋形様、何を下らない事を考えているのですか?」


そんな時、ヒョコッと後ろから顔を出した人物がいた。メイドのマリアである。

彼女は御茶菓子と紅茶をワゴンに乗せ、部屋に入ってきた。

彼女は流れるような動作でアイリスとイライザの前にそれぞれ皿とカップを置く。

そして最後に砂糖入れとミルクピッチャーを二人の前に置くと、マリアはペコリと一礼した。


「どうぞ、イライザ様。王国のレーネル地方産の高級茶葉で淹れた紅茶で御座います……」

「うむ。いただこう」


そう言って紅茶を一口飲むイライザ。その姿はまさに侯爵に相応しい堂々とした振る舞いで、マリアはそんな彼女の側で静かにたたずむ。

この光景を見た者は彼女達は主従関係なのだろうと思うが決してそんな事はない。というか敵同士である。少なくともアイリスよりは主従関係に見えるであろうが……。


「ふむ……なんとなくウチでいつも飲んでいる紅茶と味が似ているような気がするが……」

「原産地が同じなら似ているのも当然でございますね」

「帝国の屋敷に何故王国の茶葉がある?」

「何を仰いますイライザ様、帝国民とて王国の茶葉を嗜みます。良いものに敵も味方も関係ありません」

「そう言えば今朝、ウチのメイドが茶葉が全て無くなったと騒いでいたような……」

「おや、泥棒にでも入られたのでしょうか?貴族街に賊が出没するとはおぉ怖い」

「……」


なんだか奇妙な会話が繰り広げられるが、イライザはもう何も言わない事にした。

このマリアとかいう女は主のアイリスと同じ種類の生き物だ。直感的にそう理解したから、突っ込むのを止めた。


「ところで何のお話をされていたので?」

「え?あぁそうそう。私達、エリムの事何も知らないじゃないって話よ!よく考えたら一緒に住んでいるのにエリムの事を全然知らないから……」


アイリスの言葉にマリアは溜息を吐いた。

なんだ、そんな事か。そもそも今更過ぎるだろう。そんな事、直接聞けばいいじゃないか。

妙なところで恥ずかしがるなこの処女(過去形)は……。マリアは主人を心の中で罵倒しつつ、口を開いた。


「エリムくん、馬鹿とババァにおっぱい押し付けられて不快な気分の中申し訳ありませんがちょっといいですか?」


マリアの言葉におっぱいに挟まれヘブン状態になっていたエリムはハッとして慌てて姿勢を正す。

そして「は、はい!」と裏返った声で返事をした。


「え?今馬鹿って……」

「は?今ババァって……」

「私達、エリムくんの事よく知らないから、よく教えて欲しいなぁって……。ほら、親睦を深めるためにもお互いの事を知るのって大事でしょう?」

「あ……そういえば僕の事何も言っていませんでしたね……奴隷なのに、申し訳ございません」


マリアにそう言われ、反省するエリム。そうだ、自身の事を何も伝えないとは何たる不忠……。

奴隷失格だ。ご主人様の『おっぱい』しか見ていない自分に、エリムは恥じ入るばかりであった。


「改めて自己紹介いたします、アイリス様、マリア様、イライザ様」


エリムはソファーから立ち上がってくるりと身を翻すと、その胸に右手を当て、優雅に礼をする。

まるで王子様のように洗練されたその仕草にアイリスとマリア、そしてイライザは「ほぅ……」と感嘆の声を漏らした。

これは高度な教育を受けた者でないと出来ぬ動きである。そのことからも彼が並々ならぬ身分の出だと分かるだろう。


んん?


しかしその時、マリアとイライザは悪寒を感じた。

それは直感的なものだった。自分達はこれから何か途轍もなくやばい事を知ろうとしているのではないか、とそんな予知に近い直感……。

アイリスは優雅な動きをするエリムに見惚れて口からヨダレを垂らしているが、マリアとイライザは確かに冷や汗を流していた。


そして、その直感は正しかった。


「僕の名はエリム・アルディハウル。レメゲスト森林国の王子です」


カシャンと。イライザの持っていたティーカップが床に落ち割れた音が部屋に響き渡った。

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