24.「ふにゃあ……いいよ……♡」

「き……き……貴様……祖国を裏切るつもりか……?」



イライザの言葉が応接間に響き渡る。

その場にいた者達はその瞬間、時が止まったような感覚に襲われた。

イライザは勿論、彼女の後ろに侍るファルツレイン侯爵家に仕えるメイド達も動きを止め、エリムもまたピタリと動きを止めていた。

変化がないのは当の本人のアイリスと、その事を知っていたマリアだけ……。

マリアは涼し気な顔で紅茶を飲んでいるし、アイリスは変わらず飄々とした態度だ。


「裏切るだなんて人聞きが悪いわね。私はエリムと優雅に暮らしたいだけよ。その結果あのクソババァが死のうが帝国が滅びようが大陸全土が炎上しようが知りませーん」


イライザは震えた。この女はまともではない。

いや、戦場で相まみえた時から薄々分かっていたが、まさかここまでとは思っていなかった。

狂っているという言葉ですらアイリスを表現するには生ぬるい……。

イライザの背筋に冷や汗が流れて止まらなかった。


「い、今のは聞かなかった事にする!妾は関係ない!関係ないぞ!」


真に恐ろしいのは今の妄言を発した人物が地位も名誉も、そして実力もある者だという事だ。

そこらの一般人が言ったのならばともかく、公爵でありその武勇を轟かす将軍が言ってしまったのだ。

彼女の発言はこの場にいる全員の記憶に残り、そしてそれが真実だと理解してしまうだろう。


一瞬、イライザは口封じにこの場にいる全員の命を奪ってしまおうかと思ったほどだ。

それは無論ファルツレイン家に仕えるメイドも含めて、だ。(エリム以外)

しかしそんな事が出来る筈がない。アイリスと違ってイライザという女性は常識があった。だからこそ、そんな非人道的な行いは出来ないし、したくない。


「はぁん?断る気?つーかそもそもね、アンタがオークションで値を引き上げなかったらこんな事になってないのよ?つまりこの状況の原因の半分はアンタにあるわけ?わかる!?誠意を見せないさいよ、誠意を!!」


それに比べて目の前の女……アイリスには常識というものが欠如していた。

いや、常識というか人間としての最低限の倫理観というか、とにかくそういったものが色々と欠けていた。

彼女は一切の躊躇いなく自分の家を滅ぼしかねない発言を口にしたし、それを実行できるだけの力も持っていた。


「やかましいわっ!貴様の自業自得だだろうが!とにかく妾を巻き込むな!やるなら邪魔しないから勝手にやれ!!」


イライザとしてはそう言うしかない。とにかくこの女と組んでいると思われたら一巻の終わりだ。

一緒にいる姿を見られるだけでも不味いし、イライザはこれ以上こいつらがここに居ると取り返しのつかない事になってしまうと判断し、さっさと追い出そうとする。

だが、その前にアイリスが叫ぶように言った。


「エリム!ちょっとこっち来なさい?」


エリムはアイリスに呼ばれ、おどおどしながら彼女の下まで歩む。

なんだか今の彼女は怖かった。何が怖いのかは説明出来ないが、とにかく得体のしれない怖さを感じた。

しかしエリムはあくまで奴隷だ。ご主人様の命令には逆らえない。

アイリスの目の前にやってきたエリムを見たアイリスは、にこりと微笑むと口を開いた。


「ねぇエリム?ちょっとお願いがあるんだけど……あのおばさんに……ゴニョゴニョ」


アイリスの耳打ちを聞いたエリムは一瞬驚きの表情を浮かべるが、すぐに迷いのない瞳に変わった。

彼女の目的は分からないが……まぁ、別に拒否する理由もないし、命令に従うだけだ。

エリムはくるりと振り返ると、イライザの下へと歩み寄った。


「な……何じゃ?」


エリムが近寄っただけでふわりといい匂いが漂い、イライザはドキリとする。

こんな可愛らしい青年が近寄ってきたらドキドキもするだろう。というかしない女はこの世界に存在しない。


「えっと……そのぉ……」


エリムは視線を彷徨わせ、手を突きだしワタワタと忙しない。

一体何をするのかと、後ろに控えるメイド達が訝し気にエリムを見るが……彼女達は次の瞬間驚いた表情を浮かべる事になる。


「イ、イライザ様!」


エリムが声を張り上げる。そしてエリムはそのままイライザに抱き着いたのだ。

ビキリと空気が凍る。

メイド達は一斉に口をあんぐりと開け、その目は驚愕で見開かれている。

エリムに何かを命令した筈のアイリスも、そしてマリアも驚愕の表情を浮かべていた。

しかし一番正気ではないのは、抱き着かれたイライザだった。彼女は一瞬惚けた表情を浮かべた後、ワナワナと震えだした。


今、何をされている?抱き着かれている?何故?

彼の体温が、彼の息遣いが、彼の鼓動が、彼の匂いが……様々な情報が一気に脳に流れ込んでくる。

心臓がバクバクと音を立て、顔は真っ赤に染まり、目がぐるぐると回り始めた。

イライザは混乱の極致に達したのだ。


「な……な……なぁ!?え!?ちょ!?」


パクパクと魚の様に口を開閉するイライザ。

もう何が何だかわからない。この青年は一体何をしているのか?どうして自分はこんなにも興奮しているのか?何故こんなにも嬉しいのか……?分からない事だらけだ。

そんなパニック状態のイライザに構わずアイリスはにやりとほくそ笑んで……はいなかった。


「ちょ、ちょっとエリム!別にそのババァに抱き着けなんて言ってないんだけどぉ!?」


アイリスもまた焦ったような声色でそう言った。

しかしエリムは意に介さない。今の彼に周りは見えていなかったのだ。エリムもまた、イライザの妖艶な雰囲気となんだか色っぽい匂いに惹かれつい抱き締めてしまった。


「(なんかいい匂いする……♡)」

「ま、待て……待つのだ……頼む!待っ……待って!」


イライザは必死にエリムを離そうと、彼の胸に手を付き突っ張る。しかし何故か力が上手く入らない。

まるで金縛りにあったかのように体の自由が利かず、押し返す事も出来ない。

いや、押し返すどころか彼を離すまいと体が勝手に力んでしまっている気さえした。

そして彼女は思考能力を徐々に奪われていく。

イライザは必死に藻掻くが、エリムの抱擁は全く緩まない。むしろどんどん力が強くなっているような気さえする。

このままでは、自分の何かがおかしくなってしまうと……そんな予感がした。


「(駄目だ、これ以上はいけない!)」


そう思ったイライザは遂にエリムを押し退けようと……


「イライザ様……」

「(いや無理だわこれ)」


瞳をうるうると潤ませ、上目遣いでエリムに見つめられた瞬間……


「んんんっ!!♡♡♡」


イライザはビクンと体を跳ねさせ、悶え始めた。

彼女は力が抜け、体の自由が利かなくなり、ほげぇとだらしなく表情を歪め始める。

負けた。

そう彼女は悟った。何かは分からないが、自分はこの少年に敗北したのだと……。

そしてその隙を逃さず、エリムは言った。


「お優しいイライザ様、どうかアイリス様を助けてあげてください……」

「ふにゃあ……いいよ……♡」


あっさりと堕ちたイライザに、アイリスは「え?チョロ……」と呟き、マリアは溜息を洩らした。


「よ、予定とは少し違うけど……マリア!今の内よ!」

「はぁ、こうなってしまいましたか。仕方ありませんね」


マリアは隠し持っていた一枚の紙と朱肉を取り出すと目にも止まらぬ速さでイライザの元へと駆け寄り、素早く朱肉をイライザの親指に当てる。


「はふ……はへ……♡♡」


そしてイライザが気付かぬ内に、紙に彼女の親指を擦り付けた。

マリアはそのまま紙をアイリスに手渡し、アイリスはにんまりと笑ってそれを受け取る。


「はい誓約書ゲットォ~。これで私の勝ちね!」


アイリスは高らかに笑い、マリアも「おめでとうございます」と微笑む。

その光景をボーッと見つめていたイライザはハッと正気を取り戻したかのように目をぱちくりさせた。


「誓約書じゃと?」


紙をヒラヒラと見せびらかすアイリスに、イライザは訝し気に眉をひそめた。

見ると確かにその紙にはイライザの名と、そして拇印が押されている。


「あ、やっちゃったねイライザ。この紙こそが私とアンタの絆の深さを表す紙よ。これでアンタは私と一心同体。かっー!やっぱ持つべきものは頼りになる優秀な部下よね!」


わなわなと目を見開き、誓約書を見るイライザ。

まずい……!あんなものが誰かに見られたら本当にこの頭のおかしい女と組んでいると思われる。

あの紙はこの世に存在してはいけないものだ。い、今すぐ消滅させなければ……!


「ア、アイリスっ……!そ、それを今すぐに……!」


こうなれば実力行使しかない。ここでこの女をぶっ殺して全てを無かった事にするのだ。

無論ここはラインフィル……。殺し合いを始めればすぐに古代兵器がやってくるだろうが……そんな事知ったものか!

あの紙が存在するよりかはこの屋敷が消滅した方がまだましだ!というかあの紙ごと全てを消滅させればいいのだ。

そうだ、それがいい……。そして混乱のどさくさにエルフの青年を攫って、王国に帰ればいいのだ。自分一人と、エルフの青年だけならば古代兵器からも逃げ切れるだろう……。

なんという一石二鳥の策。いや、三鳥か?証拠も消せるし、あわよくばアイリスも殺せるし、エルフも手に入る。


「(──やるしかない)」


イライザは正常な判断能力を失っていた。普段の彼女ならばもっと冷静に作戦を練っただろうが、今の彼女はあの紙(とエリム)のせいで冷静ではなかった。

故に思考は短絡的になるし、行動は突発的なものとなる。


そうして、彼女は壁に掛けてあった剣を手に取ろうとし……


「イライザ様!!大変でございます!!」


その動きは、応接間に入ってきた兵士の声によって遮られた。

兵士の叫びを聞いたイライザはピタリという動きを止め、アイリスは怪訝な表情で入ってきた兵士を見つめる。

兵士はイライザと……その横にいるノーヴァ公アイリスを見て一瞬躊躇したような表情になるが、すぐに姿勢を正して敬礼をした。


「緊急事態でございます!たった今、森林国が我が王国に侵攻してきたという一報が!」


兵士の報告に、イライザは呆気に取られたような顔になり、そして次には青ざめた表情に変わる。


「な……何じゃと!?」


何故だ?今回のエルフの件で森林国が激怒している?いや、しかし彼を買ったのは帝国の公爵、アイリスだし王国が攻撃される謂れは……。

そんな風に考えていたイライザだが、すぐにハッとなる。


「まさか……」


イライザはアイリスをキッと睨みつけ、そして叫ぶように言った。


「貴様か!?貴様が仕組んだ事か!?」


イライザに睨まれたアイリス。しかし彼女もまた口を開け、ポカンとしていた。

その反応にイライザは「ん……?」と訝しむもアイリスはすぐに不敵な笑みを浮かべる。


「ふ……ふふ……。そ、そう。全ては私が仕組んだ事……!実は森林国のとある勢力とも既に話は付けているのよ!」

「なん……だと……」


なんという策士。なんという悪女。やはりこの女は侮れない。

イライザは苦虫を噛み潰したような顔でアイリスを見つめる。後ろにいるマリアが顔面蒼白になっているような気もするが、今はそんな事を気にしている場合ではない。


「くっ……!」


これは不味い。この女がここまで用意周到に事を運んだのならば、王国の滅亡にも繋がるかもしれない。

イライザは持ち前の頭脳で高速に思考を働かせる。

考えろ、考えるのだ。この状況を打破する方法は……。


「(……この女の策に乗るしかないのでは?)」


こうも上手く事が運ばれているのだ。ここは勝ち馬に乗った方がいいのではないか?

一瞬、イライザの脳裏にそんな事がよぎる。


「(……いや、待て待て。そもそも本当に森林国が攻めてきたのか?)」


王国と森林国は仲が悪くない。仲が良いとも言えないが、対帝国という面では利害が合致しており半ば暗黙の了解で事を構えた事はない。

それが急に王国に攻撃を仕掛けるなんてありえないのでは……? もしかしてこれは、アイリスによる陰謀ではないのか?

いや……考えすぎか……?流石に考えすぎではないか?よく考えたらこの女がそこまで頭が回るとは思えないのだが……。


だってこいつ、戦場でも単騎で突っ込んでくる馬鹿だし……。


イライザの思考がどんどん混乱していく。そんな彼女を見てアイリスはニヤァと意地の悪い笑みを浮かべた。


「このままだと王国もアンタの領地も滅亡するけど、どうする?」

「……っ!」


そう、今は悩んでいる時間はない。今こうしている間にも森林国が攻めてきているかもしれないのだ。

いや……もしかしたら、これすらも彼女の策略なのかもしれないが……。

そしてイライザが何かを言おうとした時、応接間に入ってきた兵士がおずおずと声を出した。


「あ、あの……」


兵士の声にハッとなったアイリスが視線を彼に向ける。


「何?今大事な話の最中なんだけど」


不機嫌を隠そうともせずにそう言い放ったアイリスだったが、兵士の次の言葉に彼女は唖然とした表情になった。


「ノーヴァ公とお見受けしますが……帝国……というか貴殿の領地も現在森林国に攻められているとの報告もありますが……」

「……はい?」


帝国も? 私の領地も?

アイリスは突然の事に完全に固まってしまった。その後ろで「やべぇ……」とマリアが呟くが、今の彼女には聞こえていない。

いや、そりゃエルフを買ったのはノーヴァ公なんだから攻められても当たり前だろうと誰もが思うが、しかしわざわざ同時に侵攻する必要性はないだろう。

最早何が何やら理解不能な状況だが、不意にイライザが何かに気付いたようにわなわなと身体を震わした。


「……ま、まさか……」


イライザは気付いた。気付いてしまった。

この女の恐ろしさに……この女の才気に……。


そして、血も涙もない冷酷な本性に……。


「き、貴様……!エルフ共を扇動して、自らの家も……帝国も、王国も大陸全体を全て災禍の渦に巻き込ん……で……ッ!?」


まさに極悪非道、およそ人間の考える事ではない。

彼女はまさに……人類の敵だった。

イライザに恐怖の眼差しを受けたアイリスは何かを考えるように俯く。


「(あ、やっべ。何がどうなってるのかさっぱり意味分からないわ)」


まぁ、なんか適当に口車に乗せて勝手に王国と帝国が戦い合ってくれたらいいなぁくらいにしか考えていなかったアイリス。

いや、目的はある。途轍もない目的はあるのだが……。流石に大陸全土を巻き込んでまでは考えてなかった。

しかし今更何が起こってるかわかりませ-ん、だなんて言えない。

だってもう既に手遅れだから……。


だから言った。


「全ては私の掌の上……よく考えるのね、イライザ。誰に付くかが一番得策なのかを。誰に付いたら、生き延びる事が出来るのかを」


アイリスの言葉が応接間に響いた。












「(え?森林国がなんで戦争してるの?母上?何やっちゃってんの?)」



一人、会話の輪から外れていたエリムもまた、困惑していた。

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