23.「全くもってその通りでございますね。さっさとエリムくんを解放しなさいこのメスブタ」

ファルツレイン侯イライザは息を飲んだ。身体が、腕が、指の一本までが凍ったように動かない。

ヴェールの下から現れたのはまさに美の化身とも言える美麗なエルフ。この世のモノとは思えぬ、人を惑わすような魅惑の雰囲気を漂わせた絶世の美男子である。


「お……おぉ……」


ありとあらゆる芸術に触れ、自身の美貌に自身があるイライザですら、その美を前にしてはただの人間に成り下がる。

彼女の視界に写るのは人が手を加えた紛い物ではなく、自然が生み出した本物の美であった。

金色に煌めく髪の毛一本一本が、最高級のシルクで造られたかのように神々しく輝く。


「……なんと……美しい……」


そして、その端正な顔立ちがイライザの脳髄を穿つ。

宝石のような瞳は相手を射貫くような輝きを放ち、まつ毛一本すら見落とすことなく、その美しさを体現している。

薄い唇は何かを話す度に揺れ動き、そこから洩れ出る吐息は甘い香りを放っており、女を魅了してやまない。

だが何より目を引くのはその肌である。きめ細かく、触れれば吸い付きそうな張りのある肌は、まさに芸術品。

顔全体から首筋、肩に至るまでのラインは完璧で、女の理想をそのまま描いたかのような美しさであった。

オークションでは遠くから見る事しか出来なかったが、今は違う。こんなにも近くで、触れそうな距離で見つめることが出来ているのだ。

普通、近くに寄れば粗に気付き少しばかりはがっかりするものなのだが、イライザが感じたのはそんなマイナスな感情ではない。

近くで見れば見る程、その美は強調され恐怖すら覚える程だ。目の前の青年は本当に実在しているのか、何なのだろうかとさえ思った。

この美の前では、美女も醜女も関係ない。等しく無価値で、等しく無意味。


故に、イライザは無意識の内にその手を伸ばしていた。


触れたい。この究極の美に。この手で、この指で触れたい。

もっと近くで、もっと良く見て、もっと知ってみたい。

熱に浮かされたようにその欲求は強くなり、無意識の内に身体が動いた。


だが──


「はいお触り禁止でーーす!!!!」


アイリスのそんな叫び声と共にイライザの伸ばされた腕に衝撃が走った。


「んぎゃあ!?!?」


激痛と共に腕が弾かれ、イライザの身体が大きくよろめく。

化け物のような(実際化け物なのだが)アイリスの力で弾かれたのだから、その衝撃は想像に難くない。



「な、何をする!」

「あのねぇ、そりゃこっちの話よ。誰がこの子に触っていいなんて言ったのよ!」


常人なら骨が破裂するであろう一撃を受けて、イライザは目に涙を浮かべながらアイリスをキッと睨む。

しかしアイリスもまたイライザを睨み付け、エリムを庇うように彼を自らの腕の中に抱き寄せるとエリムの頭を優しく撫でて言った。


「大丈夫?怖かったでしょ、この厚化粧ババァに触れられそうになって……」

「え?あ、その、えっと……」

「何も言わないでいいわ!よちよち……♡」


アイリスはそう言うとエリムを抱きしめ、自らの胸に押し付ける。

柔らかい胸に包まれて、エリムは顔を真っ赤に染めた。

エリムとしては別にイライザに手を伸ばされて嫌ではなかったのだが、アイリスのおっぱいが彼の思考を奪い去り、言うべき言葉が出てこなかった。


「な、なななな……」


対するイライザは怒りで顔が真っ赤に染まり、額には青筋が浮かんでいる。

至上の美を抱き締めるなんてなんたる暴挙。なんたる無体。

その行いは美という概念に対する冒涜であると、彼女は深く激しく憤った。

このエルフの青年に触れていいのは、同じく美しい自分だけーーー

そんな思いがイライザの全身を支配していた。


「き、貴様!今すぐその子を解放しろ!彼は貴様のような脳味噌まで筋肉に浸食されているような下劣な女が触れていいような存在ではない!」

「全くもってその通りでございますね。さっさとエリムくんを解放しなさいこのメスブタ」


イライザの言葉に同調するように言葉を発したのは何故かアイリスのメイドであるマリアあった。

帝国のメイドが何故自分に味方するような言葉にイライザは訝しげな表情を浮かべるが、マリアは気にした様子もなく続ける。


「あぁ可哀想なエリムくん……こんな脳味噌プチトマト女に触れられて……こんなのがお触りなんて許せませんよね。大丈夫ですよ私が消毒してあげますからね」


そう言ってアイリスを蹴り飛ばし、エリムを奪い取るマリア。

後ろから蹴られたアイリスは盛大に机に激突し、目も眩むような値段の机は粉々に吹き飛んだ。


「エリムくん……♡」


そしてマリアは、エリムをギュッと抱き締めると彼の身体にその柔らかい身体を擦りつける。

突然の事に顔を赤らめながら俯くエリム。だがマリアはそんなエリムに構わず、恍惚の笑みを浮かべながら言った。


「怖くないですからね。すぐに私が消毒してあげますからね、お口で……」


そう言い、エリムの顔を両手で掴むとその可愛らしい唇に己のそれを近づけるマリア。


「はぁ!?」


そんなマリアの行動に思わず声を上げるイライザ。

な、何をやっているのだこの女は?主である(多分)アイリスを蹴飛ばした挙句に、躊躇する事なくアイリスの所有物であろう奴隷・エリムにキスをしようとしている。

敵国の貴族であるイライザですらしようとは思わない暴挙をこの女は軽々とやってのけているのである。

しかしこれは不味い。このままではあの美しいエルフが穢されてしまう!


「お、おいマリアとやら!やめ……!?」

「おいゴラァ!」


思わず声が出たイライザの言葉を遮り、マリアに掴みかかろうとするのは他ならぬアイリスであった。

彼女は凄まじい剣幕でマリアに詰め寄ると、その胸ぐらを掴み上げドスのきいた声で言う。


「何してくれてんのよこの淫乱発情豚女が!誰がエリムにキスして良いなんて許可したのよ!」

「エリムくんですけど?彼が嫌がっていないのが何よりの許可であり、許可の証でしょう?」

「嫌がってるでしょどう見ても!見なさいよ、このエリムの恥ずかしそうな可愛い顔を!?」

「はぁ?目腐ってるんですか?どう見ても喜んでる可愛い顔ですけど?」


そう言うと睨み合うアイリスとマリア。まさに一触即発である。

イライザはそんな二人を見て口を開けて茫然としていた。

なんだこいつらは……?突然やってきてエリムを見せつけにきたアイリスも理解不能だが、主を主と思わぬような態度を取る傲慢メイド。

なんなんだこれは?こいつらは敵同士かなんかなのか?なんでこんな状況で喧嘩が出来るんだ?

イライザの脳内は混乱を極めるばかりである。


「き、貴様ら!ここは妾の屋敷じゃぞ!あ、暴れるなよ!?絶対にここで暴れるなよ!?」


今にも殺し合いを始めそうな二人を見て気が気ではないイライザ。別にこの二人が殺し合ってもどうでもいいが、ここで殺し合いが始まるのは不味い。

何故なら殺し合いが始まった瞬間、ラインフィルの防衛機構が反応し殺戮人形が直ちに派遣されてくる。

そうなったらこの部屋どころか屋敷がこの世から跡形もなく消え去る。

それはなんとしても阻止しなくてはならない、そう本能で察したイライザは二人を必死に止める。


「と、とにかく落ち着け!というかアイリス!貴様、妾に何か用事があったんじゃないのか!?」


とりあえずこの場を収めようと発した言葉にマリアとアイリスは同時に睨みつけるが、お互いにため息を吐くとそのまま離れた。


「わかりました、ここは一時休戦ですね」

「ふん……そうね」


納得いってなさそうにブツブツ言いながらも互いに矛を収める二人にイライザは戦慄していた。

なんなんだこいつらは。もしやこの屋敷を吹き飛ばすのが目的か?いや、そんな自らの命を危険に晒すような事、公爵自らする訳がない。

となると本気で何の目的もなく流れで喧嘩してただけなのか……? イライザは背中に冷や汗を滲ませ、目の前の女たちのヤバさに気付き震えた。


「それで、一体何しにきたんだ貴様らは……」


なんだかドッと疲れたような気がする。この数分で数年分歳を取った気にさえなった。

アイリスとマリアはハッとすると、表情を引き締めてイライザを見た。


「あ、そうそうこんな事してる場合じゃなかったわ」


そう言うアイリスに嫌な予感しかしないイライザは、すぐさま帰らせようと口を開きかけるが、それよりも先にアイリスが口を開く。


「イライザ……アンタ、この子の事好きよね」

「……は?」


突然言われた言葉に困惑する。いや、確かに妾はエリムの事を好ましく思っている。いや好ましくとかそんな生易しいレベルではない。

多分、一目惚れに近いのだろう。一目見た瞬間、心臓を鷲掴みにされたかのように胸が締め付けられた。

この美しいエルフを手に入れたい。自分の物にしたいと強く願った。

そんな思いはまさに愛と呼んで差し支えない感情だろう。いや寧ろ愛以外の何ものでもない。

美しい調度品を見た時に心が震えるように、エリムを一目見た瞬間、イライザはこれまで感じたことのない感情を抱いた。

美の侯爵と呼ばれ、数々の戦場を渡り歩いた王国きっての大将軍イライザ。勇猛たる彼女が感じたのは、その全てを凌駕する美への感動と恐怖だった。


「……」


イライザはチラリとエリムを見る。すると偶然彼と目があった。

美しい宝石のような瞳がイライザを写し、その小さな唇が弧を描く。

にこり、と。エリムの笑顔がイライザに向けられた。


「!!」


その瞬間──イライザの心臓が大きく跳ねた。全身の血が沸き立ち、身体が熱を帯びていく。

それは今まで感じた事のない感情であった。心臓がバクバクと高鳴り、全身が熱い。息が荒くなり、汗が流れ落ちる。

今までどんな美男子を抱いても、どんな美青年を見ても、ここまでの興奮を味わった事はない。

今この瞬間、エリムを中心に世界が輝いているような気さえする。

そう、それは正しく──


恋……♡♡♡


「見てくださいアイリス様。このババァ、エリムくん見て顔赤らめてますよ」

「いやアンタ孫までいるのに何顔赤らめてんのよ……」


恋する乙女の表情をするイライザを見て二人はドン引きした。

そう、イライザには子供がいる。というか孫までいる。まだ40には達していない彼女だが、結婚するのが早かったお陰で子供、更に孫までいるのである。

そんな彼女だが、まさか自分の子供と同じ世代であろうエリムを見て心奪われるとは。

乙女の表情を浮かべるイライザを、二人はなんとも言えない表情で見ていた。


「ババァの癖にちょっとときめいちゃってますよね」

「ま、まぁアンタがこの子を奴隷として欲しいって事は分かってるわ。当然よね、これだけ可愛いんだもの」


そう言ってエリムの髪を撫でるアイリス。エリムはくすぐったそうに身を捩るが嫌そうな顔をしている訳ではなく、むしろ恍惚とした表情でアイリスに身体を預ける。

それを見てイライザはぐぎぎと悔しそうに歯嚙みした。

エリムが抵抗しない事をいいことに、アイリスはこの子をペット扱いしている。

それが許せない。この美しいエルフは自分が手に入れるべきなのだ。

羨ましい。物凄く羨ましい。妾もエリムの頭を撫でて愛でたい。

怒りで頭が沸騰しそうになるイライザであったが、ギリギリのところで理性を取り戻した。


「このお優しいアイリス様は考えたわ。彼は私だけが独占していいものなのか?可憐で可愛い姿は私以外の者にも知ってもらうべきなのではないか?とね」

「えっ……」


思わずイライザの口から声が漏れた。

それはつまり、どういう事だ?エリムの愛らしさを他の者にも知ってもらう? つまり──


「も、もしやその子を譲ってくれるのか!?」

「は?そんな訳ないでしょ。私がエリムを他人に譲るなんて天地がひっくり返ってもあり得ないから」

「じゃあどういう意味だ!」


思わず声が荒ぶるイライザ。そんなイライザにアイリスはふっ……と鼻で笑うと、エリムを抱き締めながら言った。


「アンタにはねぇ……協力して貰いたい事があるのよ」

「協力、だと?」


王国の侯爵が帝国の公爵に協力だと?ファルツレインが、ノーヴァに協力だと?

それこそ天地がひっくり返っても有り得ない話だった。

帝国と王国が犬猿の仲だということもあるが、それを抜きにしても領地が接し合っている両家は遥か昔から殺し合いを続けてきた間柄だ。

王国は帝国に対抗する為にファルツレイン家に強大な権限を握らせた。

領地の防衛機構も全ては王国を守るために存在するもの。それを動かして王国を守るのがファルツレイン家の役目だ。


そしてそんなファルツレインの領地に幾度となく侵略を仕掛けてくるノーヴァ公爵家。

憎しみも、憎悪も、嫌悪も、怨恨も全て積もり積もった両家は最早こうして当主同士が話しているだけでも奇跡に近い。


「妾と貴様は殺し合う仲だ。何故協力などしなければならない?」

「そりゃそうね。私もアンタなんて大っ嫌い。散々苦汁を飲まされたもの」


イライザがアイリスに苦しめられてきたように、アイリス率いる帝国軍もまたファルツレイン侯爵という存在に苦しめられてきた。

王国を攻めようとすると必ずイライザが立ちはだかる。彼女はアイリスのように最前線で戦うタイプではないが、ファルツレインの用兵術は帝国軍を何度も苦しめた。

圧倒的な寡兵で砦を守り切り、逆に帝国の領土すら侵犯する事もあった。

幾度となく、幾度も、幾度でも。

彼女に率いられた兵はまるで死兵のように死に物狂いで戦い、その統率は一糸の乱れもない。

アイリスが帝国にとっての矛であるならば、イライザは王国にとっての盾であった。


「ふん。妾がファルツレインであり、貴様がノーヴァである限りは協力など不可能。例え世界が終わろうともな」

「でしょうね」


明らかな拒絶の意を示すイライザに、だがアイリスは動じず紅茶を一口飲む。

ふぅ……と息を吐くと、紅茶のカップをテーブルに置いた。


そしておもむろにイライザに近付き、顔をそっとイライザの耳に近付けると、そっと呟いた。


「エリムを……して……で、そうしたら……だろうから……アンタにも……」

「……」



イライザは目を見開き、身体を硬直させる。その反応を見て、エリムは首を傾げた。


「?」


──エリムは何も知らされていない。アイリスに1000億の借金があるという事も、彼女が皇帝の命に反した行動もとってしまった事も、何も知らないのだ。

そもそも、何故ここに来たのかすらも分かっていない。てっきりイライザという女性と仲がいいから遊びに来ただけかと思っていたのだが、この険悪な雰囲気を見る限り違うようだ。

エリムは目の前の二人に視線を向ける。イライザに耳打ちをするアイリス……。当然、アイリスが言っている言葉はエリムには聞こえない。

しかし、その内容がとてつもなく重大かつ、とんでもない事であるのは何となくだがわかった。


だって……


「……」


話を聞いているイライザの顔がどんどんと青褪めていってるのだ。

何かとんでもない事を聞いてしまったんじゃないか?そう思わせるくらい、イライザの表情は青ざめていた。

エリムには何が何だかわからない。自分が眠っている間に一体何があったのか?何故二人は言い争っているのか?そもそも何故自分はこんな所に連れてこられているのか……? エリムは隣にいるマリアを見るが、彼女は何も言ってくれない。ただ黙って紅茶を飲んでいるだけだ。


「美味しいですねぇ、この紅茶。これは王国のレーネル地方産の高級茶葉に違いないわ。あ、すいません、この紅茶の葉、持ち帰りいいですか?え?持ち帰り出来ない?そこをなんとか。ウチもう紅茶の葉っぱすらないんで」


使用人であるマリアが何故かソファーに座って紅茶を嗜んでいるのを見て、使用人とは一体……とエリムは思った。

しかしそんな彼の思考は突如として中断された。


何故なら、イライザが突然立ち上がったからだ。


「なっ……なっ……」


プルプルと震えるイライザ。彼女の視線はアイリスに注がれている。

まるで信じられないものを見たかのように。到底理解出来ぬ存在を見るように。

イライザは、驚愕と、そしてそれを上回る恐怖が入り交じった瞳でアイリスを見ていた。


そして、その口からポツリと言葉が漏れる。









「き……き……貴様……祖国を裏切るつもりか……?」


カチリと、時計の針が動いた音が響いた。

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