22.「ああ、なんて痛ましい御姿……!!」

ラインフィルにある貴族街。

絢爛な屋敷が立ち並ぶその地域はラインフィルの中で最も煌びやかな場所で、家格の高い貴族たちの別荘が建ち並ぶ高級住宅地だ。

貴族たちにとっては、ここが自分の領地であると象徴するような場所で、ここでの暮らしがラインフィルの貴族たちにとってステータスでもあった。

しかしラインフィルで暮らしている大半の人間は立ち入る機会のない場所だ。貴族街の警備は厳重で、基本的に一般人は立ち入り不可。

巨大な門と検閲所が、貴族街をぐるりと取り囲んでいる。もしも強硬に突破しようとすれば黄金の鎧に身を包んだ騎士に即座に真っ二つにされるだろう。


世界一安全な場所であると言っても過言ではないラインフィルの貴族街であるが、それと同時にこの場所は混沌の極みである。

様々な国の高位貴族が入り乱れるこの地は、一見すると秩序が保たれているように見えるがその実、各国の重鎮たちが自らの力を誇示するための闇鍋のような場所。

ここでは敵も味方も関係ない。だが、それでもラインフィルから一歩でれば殺し合いをする間柄なのだ。


「……うっうっ……ぐすっ……ぐすっ……」


そんな安全なのか危険なのかよく分からない混沌とした貴族街にある、一際大きな豪邸。

贅の限りを尽くし、自らの権威と力を誇示するような城のような邸宅。

その一室で、一人の女性がすすり泣いていた。

年齢は30代後半くらいだろうか?紫色の長い髪を靡かせる絶世の美女。

彼女は黒い瞳に大粒の涙を溜めながら、一つの絵画の前に立っている。


「うぅぅぅ……!!」


絵画に描かれていたのはエルフの青年であった。絵であってもそれは信じられない程の美しさと気品を併せ持った美男子であった。

『失われた美を求めて』という題名のその絵画は、女性が専属の絵師に描かせた最高傑作の一つだ。


「妾は、妾はぁ……!」


よよよと泣き崩れる女性。美しい顔が台無しになるような姿だが、それを咎める者はいない。

絵画に描かれた青年を見上げ、女性は絵の前でさめざめと泣き続ける。


「妾はどうしたらよいのじゃ……」


まるで亡くなった息子の絵の前で泣いているかのようなその光景だが……そうではない。


この見るも豪勢な屋敷はファルツレイン侯爵家の屋敷。

そして、この絵画の前で泣き崩れている女性はファルツレイン家当主・ファルツレイン侯イライザ……。

見目麗しい美侯爵。武家の名門、ファルツレイン家の女当主として名を馳せるイライザは……今、かつてないほどに狼狽えていた。


「ぐすっ……ぐすっ……」


勇猛たる武人として名を馳せ、王国の軍事を取り仕切り、その美と気品で王国中の貴族から畏怖されるあのイライザが、幼子のように泣き崩れている。

しかしそれも無理はないのかもしれない。イライザにとってこの世で最も愛していたと言っても過言ではない天使を逃してしまったのだから。

彼女は今、完全に憔悴しきっていた。目の下には大きなくまが出来ており、頬もやつれ薄汚れた様子はまるで幽鬼のそれだ。


手に入れたかった。あの、天使のようなエルフの青年を。

オークション会場で一目見てからというもの、イライザの脳裏からエリムの姿が焼き付いて離れない。

高貴さを感じさせる顔立ちに、儚げで、それでいて芯の強さを感じるあの瞳。美しい青年だった。

見た瞬間に分かったのだ。彼はイライザの運命の人だと……。

彼女は今まで数多くの美男美女を目にしてきたが、エリムはその誰よりも美しかったのだから。


そして、何より──


「妾も……相思相愛でイチャイチャラブラブしたかった……!」


そう、相思相愛が出来るであろう青年だったのだ。

イライザは男を知っている。この世界に生きる、虚弱で臆病で、そして女を嫌う男達の姿を知っている。

彼等は女を拒絶し、そして恐怖している。だからこそ男と女の相思相愛、イチャラブなんてものは想像上の存在だとイライザは思っていた。

幾ら金を使っても男は自分に靡かない。幾ら奴隷として奉仕を要求しても、彼等の瞳の奥にある感情は恐れ。

そこに愛はなく、そこにイチャラブは存在していない。


しかし、エリムは違ったのだ。


オークション会場で初めて彼を見たとき、エリムはイライザを見返した。


そして、にこりと笑ってくれたのだ。


その笑顔はイライザが今まで見てきた男達のどれとも違う、暖かみのあるものであった。

その笑顔を見た瞬間に彼女はエリムが欲しくなった。あの笑顔を自分だけに向けて欲しいと思った。

だからこそ、彼女は全力で……それこそ一族の全ての財を使っても彼を手に入れようとした。


だが……それは叶わなかった。


「おのれアイリスゥ……!!どこまで妾の邪魔をすれば気が済むのだ……!!」


イライザの頭の中にオルゼオン帝国ノーヴァ公の姿が思い浮かぶ。

王国と帝国の戦争で幾度となく顔を合わせた仇敵・ノーヴァ公アイリス。

帝国最強の戦士と言われる彼女は、その名に違わぬ強さを王国軍での戦いで見せ付けている。

ノーヴァ公が単騎で戦場を駆け抜ける様は、まるで鬼神の如く。

彼女はその戦いの最前線に現れる。彼女が姿を見せた戦場では王国軍は浮足立ち、まともに戦えぬほどに恐怖に慄き、そして蹂躙される。

それは紛れもない彼女の武勇の証。しかし、それはイライザにとって忌むべきモノだった。


「ノーヴァ公さえ居なければ……妾は……ぐすっ……」


そう、アイリスさえ居なければエリムを手に入れることは容易であっただろう。そして今頃ラブラブ相思相愛セックスをしまくっていた筈だ。

見つめ合い、濃厚なキスをし、そしてベロチューしながらの挿入……。それはイライザが夢に見た男との純愛の姿であった。

だが、実際はどうだった?ノーヴァ公が邪魔をして、エリムを手に入れることが出来なかった。

アイリスめ……!!妾の邪魔をするだけでは飽き足らず、ここまで妾の恋路を邪魔するか!! 彼女はアイリスに対して怒りを禁じえなかった。


「ぐぬぬぅ……!この恨み、必ずや晴らさでおくべきか……!」


しかし最早彼女には何も出来ない。

このラインフィルの地で力尽くで事を起こそうとすれば破滅は目に見えているし、そもそもあのアイリスから力尽くでエリムを奪えるとは思えない。


万事休す。


イライザは泣いた。泣きまくった。それはもう、欲しいものが手に入らなかった子供のように……。


そしてそんな彼女を遠巻きに見つめるのは、ファルツレイン侯爵の屋敷で働く使用人達だ。

彼女達はここ最近悲しみに暮れているイライザの姿を見て心を痛めていた。


「おいたわしやイライザ様……あのような御姿を晒されてはお身体が心配でございます……」

「ああ、なんて痛ましい御姿……!!」


使用人達の瞳には涙が浮かんでいる。彼等にとってイライザは敬愛すべき主人だった。

ファルツレイン家に代々仕えてきた一族であり、その忠義は神にも等しいモノがある。

そんな美しい忠誠心を持った者達が、敬愛する主人の哀れな姿を見て悲しまない筈がない。


「イライザ様を慰める方法はないものか?そうだ、奴隷の青年達を宛がって彼等に癒して貰うのは?」

「いや……今まで買った奴隷の青年達も、全て手放してしまわれた……」

「余程そのエルフの男性を気に入られたようで、最早他の男など眼中に入らなくなってしまったようですわ……」


ファルツレイン侯は以前から奴隷や身分の低い青年を買い、そして自らの側に侍らせていた。

彼女は結婚しているのだが、政略結婚が故に夫は愛情をイライザに向ける事はなく、そして子作りも義務的なものだった。

しかし、彼女はそんな夫との生活に不満があったのだろう。

奴隷を買ったり、青年達に奉仕させながら自分の好きなように生活していたのだが……。


今の姿を見て使用人達はそれがイライザが満たされていなかった故の行為だと理解した。

彼女は性的奉仕を求めていたのではない。愛を求めていたのだ……。


「何とかして差し上げたい。しかし、我々が何かした所でイライザ様の悲しみを癒すことなど出来ようか」

「ええ、我々には……」


そんな時である。使用人達が主の姿を目にしながら心を痛めていると……


「た、大変です!」


一人の使用人が慌てた様子で走ってきた。


「どうしたのですか?そんなに慌てて……」

「イライザ様にご面会を希望するお客様が……」

「面会ですって?イライザ様があのようなご様子なのに、面会なんて出来る訳がないでしょう。お帰り願いなさい」

「そ、それが……」



何かを言い辛そうにもじもじとする飛び込んできた使用人。すると彼女は意を決したように声を張り上げた。


「そのお客様というのは……オルゼオン帝国ノーヴァ公爵なのです……」


使用人の言葉に、その場にいた全員が言葉を失った。




♢   ♢   ♢




応接間というのはどこの世界でも似たようなものらしい。

その部屋は、まるで王侯貴族が使用する部屋のような豪華な作りであった。

訪ねてきた客に自らの権勢を見せつける場が応接間なのだから、屋敷の中で一番金を掛けている場所が応接間なのは理に適っているのだろう。

それはファルツレイン邸も例外ではなく眩いばかりの豪勢な調度品に埋め尽くされていた。

しかし、その中にあって尚圧倒的な存在感を放っているのが応接間の奥に鎮座する、この屋敷の主──イライザ・ファルツレイン侯である。


「……よくおめおめとここに顔を出せたの、アイリス」


イライザは来客者、オルゼオン帝国最強の女戦士と呼ばれるノーヴァ公爵を迎えると、凄まじい気迫の顔でそう口にした。

視線だけで人を殺せそうな眼力を放つイライザ。ノーヴァ公爵はそんな彼女の気迫を受けても平然とした様子で口元に笑みを浮かべていた。


「はーい、元気してる?イライザ」


飄々とした様子のノーヴァ公爵は、そのままソファーに腰を下ろす。

そして、彼女の座る様子を睨みつけるように見つめるイライザに対して、ノーヴァ公爵は紅茶に口を付けると余裕の笑みを浮かべた。


「そんなに怖い顔をしないで頂戴よ。また小じわ増えるわよ」

「貴様……!!」


ギリッと歯ぎしりをするイライザ。しかし、そんな彼女を見てもノーヴァ公爵はまるで動じる様子はない。

彼女の後ろに侍る二人の使用人も同様で、メイド服を着た金髪の女は無表情で佇んでおり、黒いヴェールで全身を包んだ奇妙な出で立ちの人物はピクリとも動かない。

特に黒いヴェールの人物はその姿が全く見えず、奇妙極まりない恰好ではあるしこのような場では無礼な服装ではあったが、誰もそれを咎めることはなかった。

何故ならイライザがとんでもない形相でアイリスを睨んでいるからそんな事を気にする者はいない……。


「何をしに来た?まさか世間話をしに来た訳ではあるまい」

「そりゃそうよ。何が悲しくてアンタみたいなババァと世間話なんてしなくちゃならないのよ」


ノーヴァ公爵はカップを置くと、まるで世間話をするかのような気軽さで口を開いた。


「イライザ……貴方、最近寂しそうにしてるじゃない」

「……何だと?」


ノーヴァ公爵の言葉に眉をしかめるイライザ。その眼光は鋭さを増しており、今にも爆発しそうな勢いである。

そんな怒気を隠そうともしないイライザに対して怯むことなく、アイリスは口元を歪めて笑みを浮かべた。


「そりゃそうよね、お気に入りのエルフが手に入らないんだから」

「貴様ッ……!!」


ノーヴァ公爵の言葉にイライザの怒気は更に高まる。美しい顔を修羅のように歪める彼女を見て、しかしアイリスは気にすることなく言葉を紡ぐ。


「それじゃ可哀そうだから私が少しだけ慰めてあげようかと思ってね」

「……慰める、だと?」


訝し気な様子のイライザ。そんな彼女に、アイリスは笑みを深めた。


「貴女も知ってるでしょうけど、彼ったらとーっても美しい顔してるじゃない?どんな芸術品よりも美しくて、どんな音楽よりも気品に溢れてるわ」

「……何が言いたい?」

「もう、分かってる癖にー!」


アイリスは笑みを更に深めて、イライザの神経を逆撫でするような軽い口調で続ける。

だが、イライザにはまるで分からなかった。目の前の女が何を言わんとしているのかが。

不愉快極まりないアイリスの態度に、イライザはついに堪え切れなくなって立ち上がる。


「ええい、貴様は何が言いたいのだ!ハッキリ言え!」

「あら、ごめんあそばせ」


怒り心頭のイライザに対して、アイリスは全く動じる様子はなかった。まるで動じていない彼女の態度に苛立ちを隠せないイライザだが……。

アイリスは余裕の笑みを浮かべながら、人差し指をピッと立てた。


「私の」


ぽつりと、アイリスは言葉を口にする。


「私の部下を紹介するわ」

「……はぁ?」


突然そんな事を言い出すアイリスに、イライザは口をぽかんと口を開けた。

この期に及んでノーヴァ公爵が何を言いたいのかが分からないイライザだったが、彼女の反応を見てもアイリスは飄々とした態度を崩さず、それどころか愉快そうに笑みを浮かべたまま言葉を口にする。


「まずは私の従者・マリアよ。知ってるとおもうけど、彼女は帝国諜報部出身であり私の腹心……。ただのメイドだと舐めていたら痛い目見るわよ」


イライザはマリアの事を知っていた。戦場でも度々見かけたし、帝国の暗部を知る闇の存在。

王国軍の一部ではマリアは有名人であった。血に塗れたメイド、闇の世界に生きる番犬。そんな渾名を付けられた彼女はその渾名に恥じぬ実力を持っている。

マリアは恭しくお辞儀をした。

その様はまさに主人に付き従う従者といった風であり、ノーヴァ公爵の腹心であるということはすぐに分かった。


「壮麗たるファルツレイン侯爵閣下にご挨拶が出来て光栄でございます。このメスブタ公爵の息の根を止めるのであれば僭越ながら私もお手伝いいたします」


腹心にあるまじきとんでもない言葉が彼女の口から飛び出たような気がするが、イライザが何かを言う前にアイリスは言葉を紡ぐ。


「そして、次に紹介するのはこの子よ」


次に紹介されたのは、アイリスの背後に佇んでいたヴェールの人物だ。

その人物は何を喋ることもなく、ただそこに佇んでいるのみだったがヴェールの奥にある姿は全く見えず、どのような姿をしているのかは分からなかった。

ゆらりと揺れ動くヴェールはまるで水中に漂うクラゲのように、その存在が不安定に見えた。

アイリスのような覇気もないし、マリアのような脅威も感じない。ヴェールの人物はただただそこに佇んでいるだけであり、その雰囲気はあまりにも静かだ。


「……」


普通ならばイライザも警戒するところなのだが、何故か彼女はそのヴェールの人物を目に捉えた時に身体の奥底が痺れるような不思議な感覚に捕らわれていた。

なんだろう、この感覚は。なんだろう、この既視感は。

どこかで見たような、そんな気がするのだが……それがどこでなのかは思い出せない。

それと同時に感じていたのは鼻腔の奥を刺激するような微かな甘い香り。

その香りを嗅いだ瞬間に、何故かイライザの身体が熱くなるような不思議な感覚が襲ってくる。


「(なんじゃ……?この感じは?)」


ドクンドクンと早鐘を打つように心臓が鳴り響く。それは今までに感じたことのない不思議な感覚だった。

まるで酒を飲んだかのように身体が熱くなり、頭がクラクラするような感覚だ。


「この子はね、我が家の新人なの」


最早アイリスの言っている事も頭に入ってこない。ただ、目の前のヴェールの人物から目が離せなかった。

イライザの後ろに侍っている女性の使用人達も同様だった。

この場にいる女性の視線は全てヴェールの人物に注がれており、彼女達の表情は恍惚としたものであり、まるで魅了されているかのような様子だった。

そして当のヴェールの人物は全く動くことはなく、ただ静かにそこに佇んでいるのみだった。


「紹介するわね、私の奴隷の──」


それと同時にマリアがバッとヴェールを剥ぎ取る。

ヴェールの下から現れた顔を見て、イライザ達は息を呑んだ。


「……!?」


ヴェールの下にあったのは、イライザが恋焦がれて止まなかった美しきエルフ──エリムの顔であった。

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