灰と白

Slick

第1話

 目が覚めて、真っ先に感じるのは後悔だ。


 私という名の洞穴と、忌まわしい外界を阻む、謂わば瞼というハッチ。それをわざわざ開けてしまった自分に、言い様の無いばかり募っていく。もう二年半も出ていない部屋の、見慣れた天井の決まった位置にあるシミが、昨日も今日も、明日さえも永遠に変わらないと、静かに宣託を垂らす。それもそうだと認めながら、寝返りを打って汗の乾いた枕に顔を埋める。


 それさえ面倒になって、とうとう負けを認めた私は、絡んだブランケットと格闘し、慣れた頭痛に呻きながら身体を起こす――朝でも昼でも夜でも、それが私の起床。うざったい前髪が目に入り、瞬きを繰り返すと痛みがいや増す。まつ毛に触れて、汚れた指先は視線に入れないようにする。


 狭い部屋は灰色、時間の流れが止まってる。少なくとも、そう信じたいから、ずっとここに籠っている。壺中の天を求めた、井の中の雌蛙のゴミ溜めだ。二度と着るまいと、壁に釘で張り付けた高校の制服が、バラバラになった夢の破片としてあざ笑う。怒りと、ずっと大きな悲しみを、苦しいと知っていながら自らしょい込んでしまう。


 成人年齢が引き下がったなら、私ももう成人ということになる。でも自分では、成人だと思ってる、洒落にもならないけれど。

 心に痛みが巣食う出来事があって、自室に閉じこもってから、真っ先に捨てたのはカレンダーだった。自分にはもう、現在も未来も無いし、外の世界では膨大な物事が目まぐるしい速さで回っている。広い世界の中で私だけが、日々どんどん、どんどんと遅れていく。それに焦る気持ちがあるのに、追いつかなきゃと力の無い手足を伸ばしても、自分の惨めさが募るだけだ。漏らしたため息さえ胸を詰まらせ、吐き気を催し、でも蹲っても、自分の浅黒い体温が気味悪く身体をヌメヌメなぞるばかり。胸にずしんと来る乳房の重さなんか、最悪だ。


 窓のカーテンは閉め切っている。でも家の目の前が児童公園だから、休日とか夕刻になると子供の声が届いてしまう。だから窓の隙間をガムテープで塞いで、何とか誤魔化している。

 不甲斐ない、と思う。分かった上で、部屋の中を夢遊病者のように彷徨う。ぼさぼさの髪は、むしろ幽霊女と言った方が正しいかもしれないが、私には、呪縛に執り附かれた幽霊ほどの意志もない。

 窓も密封しているから、夏場の今は特に暑苦しい。でもエアコンに手を伸ばすのも乗り気でない。いっそこのまま蒸し殺されたらいいのに。でも結局、冷感の誘惑には屈し、ピーッという起動音を聞いて初めて、自分の意思の脆さを恥じらう。どの口で乙女を語るか。


 そんな、何回もトレースしてきた一連の思考が、もう一周、回り終えかけた――

 その時だった。


――ガシャン!


 けたたましい音とともに、部屋に何かが飛び込んできたんだ。


「ひょえっ!?」


 魂も消し飛ばんほど驚き、自分でも滑稽な悲鳴を漏らしてしまう。

 窓とカーテンを突き破って飛来した『ソレ』は、布団にボスッと着地して......それきり動かなくなった。


――な、何なのっ?


 慌てて、恐る恐る近寄って見る。異常事態に心臓が早鐘を打ち、ここ数年なかったほど汗がどっと噴き出す。

 黄ばんだシーツに鎮座した『ソレ』は......野球ボールだった。

 白球、たった一つのボール。それだけ。

 なのにどういう訳か、打ち震えるような、矛盾した感情が沸き上がってきた。


 割れ窓から、児童公園の声が響いてきた。


『や、やっべえ! 窓、割っちゃったよな?』

『ねえ、どうしよう? とりあえず謝りに......』

『ば、ばかっ! 行って怒られたら、どうするんだよ』

『でも、とりあえず......』


 久しぶりに耳にした、誰かの声。

 破れた安物のカーテンの穴から、細い夕日がボールに注いでいた。

 吹く風が、カーテンをハフハフとはためかせていた。


 総身に、奇妙な鳥肌が立った。それは高揚にも似た、沸き立つ恐れと、そして否定しがたい渇望だった。


――外の世界、だ。


 ボールには、細かいガラス片がたくさん突き刺さっていた。布団にも大きな破片がバラバラと散らばっていた。それが西日に照らされて、チラチラ煌めいていた。きっと、ボールの立場なら痛いに違いない。


 ――私だって、痛い。


 私なんて、何も持ってない。誰かに奪われて、自分でも剥ぎ棄てて、でも裸の美しさなんかも無くて。

 でも......うん、でも、その痛みだけなら、誰よりも分かってあげられる気がした。灰の世界に飛び込んだ、傷ついた白球が、どうしてか無性に愛おしく思えた。

 そっと、ゆっくりと手を伸ばすと――それは自分でも分かるほど、みっともなく震えていた――そっと白球を掌に載せた。伸びきっていた爪で、ガラス片をほじくり出そうとした。

 でも、上手くいかずに、指先を小さく切ってしまった。赤い血が滲んだ。


 ふと、赤の色彩を見たのさえ、ずいぶん久しぶりだと気付いた。


 荒れっぱなしの机を漁って、昔使っていたシャーペンを探し出した。持ち手は色褪せていた。それでほじくると、ガラス片はピッと弾けて、部屋のどこかに飛んで行ってしまった。

 踏んづけたら、どうしよう――そんな考えは、どうでもよかった。まだガラスが刺さったままのボールを、両手で包み込んだ。そして軽く愛撫した。正直、ちょっとだけ掌が痛かった。かさついた肌と、何かが擦れ合う感触。

 人との摩擦には、かつて消えない傷を負わされた。今でも怖い。

 でも同時に、掌から伝わる感触......それは、久しぶりだった。

 心のどこかが、とろりと溶けていくような安心感に襲われた。認めたくなかったけど、それは案外――心地よかった。


 頑なに拒んでいたハッチが強引にぶち破られて、そこで初めて、外の空気の涼しい甘さを知った。前髪をくすぐる微風が、少しだけ気持ちよかった。心の底に溶け残っていたザラザラした塊が、一遍に掬い上げられた――いや、散り散りになった気がした。それは、思っていたほど恐ろしいことじゃなくて......何だろう、ただ、心に無色の風が吹き過ぎていく気がした。


 灰の部屋に飛び込んだ白。

 飛び込みやがった白。

 飛び込んでくれた白。

 

 見上げた窓の先には、夕方崩れの橙の空が広がっていた。

 ずっと色味の無かった部屋に、瞬く間に色彩が蘇っていく。

 壁に手を突いて、立ち上がる。ふらつきながらも、脚に力を込める。窓から外を見下ろしてみると、子供たちはまだ自首すべきか否か、侃々諤々の論争中だった。


 白球を、手に取った。

――待ってて、いま行くから。


 そして、扉を。

 拒んでいた壁を。

 私は、汚れきってしまった手で。

 それでも。



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