第9話

「秋になると虫の声が聞こえるの、結構好きなんだ。ここ最近は聞こえないの。もうそろそろ冬なんだね」

ゆきちゃんはこちらを見ないままでベランダの窓をあける。

「ああ、鈴虫の音とか、いいよね。」

8月も終わりになるとどこからともなく鈴虫の鳴く声が聞こえてきて、仕事帰りの道で、今年も夏が終わるんだなあ、そんなふうに思う。


マンションの8階。澄んだ気持ちいい風が入ってくる。

スリッパのままでベランダに出るのにためらっていると、ゆきちゃんはベランダ用のサンダルひとつしかないから、と、お風呂用のサンダルを持ってきてくれた。

僕のアパートにはベランダ用のサンダルだなんて元々ないから、丁寧なんだなあと自分との違いに苦笑する。

「鈴虫って、『音』なんだよね?正確には」

外を眺めながらゆきちゃんが聞いてくる。

顔を直視するのは図々しいだろうなとおもったから

なんとなくふたり、同じようにベランダから外を見る。

「うん。羽の音らしいよ。」

「口を開けて歌ってるわけではないんだよね?」

「うん」

「なんで鳴くんだろう」

「ああ、たしか求婚するためなんだって。」

「求婚」

「そう。」

「偉いんだね。ちゃんと、子孫を残そうとしてるんだ」

声が、そっと優しくなって。

「うん」

「モテるとかモテないとかあるのかなあ」

「あはは。それはどうだろう」

「私これから鈴虫がいつまでも鳴いてたら心配になっちゃうかも」

「あはは。癒しの音って言われてるのに」

「ふふ。たしかに、いい音だよね」

「うん」

「毎年おんなじように鳴くの、考えてみたらすごいね、世代交代してるのに」


「万葉集のころから、日本人には虫の声を楽しむ習慣があったらしいよ」

「そんなに昔から?」

「うん。うちのミュージアムで扱ったことがある。自然と暦の歴史みたいな企画展で」

「自然と、暦?」

「うん。まあ、聞いても地味でおもしろくないと思うよ」

「聞きたい」

「そう?うーんとね、日本には二十四節気っていうのがあって、一年を春分とか夏至とか秋分、冬至とか、24に分けてるんだ。」

天気予報なんかで、今日は二十四節気の大寒です、などと話題になるやつだ。

立春は春のはじまり、立夏は夏のはじまり。

24の季節だ。四季どころではない。

「うん。なんとなくわかる。」

「それをさらに3つずつにわけると72になって、それを七十二候って言う」

「しちじゅうにこう?え、二十四節気をさらに細かくするの?」

「そう。ひとつをさらに三つにわけて、24×3で72。」

「すごい」

「うん。ひとつ5日くらい」

「わあ」

「それによく、虫や鳥、植物が出てくるんだけど、かまきりが生まれる季節といわれている頃に公園に行くと、本当に小さなカマキリの赤ちゃんがいたりするんだ」

「へえ、すごいね」

「うん。桃、みみず、とか鷹の幼鳥とか、きりぎりす、紅葉、雪。季節に合わせて、ちゃんとリレーみたいに出てくる、春を先頭に」

同じ季節に、同じ花が出てくる。

古典の授業に出てくるような古いものから、近代の文豪の作品にまで。

そして今も、鈴虫は鳴くし、冬になったら雪が降る。

季節は同じようにめぐる。

「リレーかあ。うんうん、たしかにちゃんとその季節にその季節の花が咲いたりするの、すごいことだって思うなあ。また来年ねって、約束したわけじゃないのにね」

「……うん」

表現が、明るいゆきちゃんらしくて、いいなと思う。

「ちゃんと、タネが残って、次の年に芽を出すんだ」

「うん」

さらっと、夜風が髪を撫でていく。

静かな沈黙が心地よかった。


「きっと私は、来年もその次の年もそのリレーを眩しいなって思いながら見てる。

参加しないことを選ぶしかないから」

そっと、ゆきちゃんが、シャボン玉を空に放つように、言葉を空中に放した。


「きっと広い意味では参加してるんだよ」

「そうかな」

「うん。」

「あ。納税とか?」

ゆきちゃんはふんわり微笑んだ声になる。

「うん、それも大事、まじめに。」

「そっか。」

「うん。」


「望月くんと一緒にいると前向きになるね」

「………」

「ん?」

ふわりと風にふかれてなびく、長い髪が艶を帯びてするりと光る。

僕はベランダで風に吹かれるゆきちゃんの顔を真正面から見た。


少しだけ躊躇うようにうつむいたあと、ゆきちゃんは意を決したように

すい、と僕にまっすぐ、顔を向けてくれた。

メイクを落とした表情は、たしかに中学生の頃の面影の残る、ゆきやくんだった。

けれどもう、僕には、ゆきちゃんはゆきちゃんでしかなかった。

「僕も同じことを考えてた」


「え」

「ゆきちゃんといると前向きになれる気がする」

「………」

「本来ネガティブでひねくれものなんだ、僕は」

「なんだ。一緒だ。」

ご機嫌な顔でにこりと笑う。

胸の中身を、ごっそりと、持っていかれるような笑顔で。


遠く、まるで鉄道模型のように電車が走る。

暗闇の中走る光の粒が連結している。

いつも自分が運ばれているシルバーの四角形。

今日ここに僕ら二人がいることは奇跡のようなことだろう。


あてもなく夜空を眺めていると

「ちょっと冷えてきたね。中でゲームしようよ」

少しだけさっきよりも近い距離で微笑むゆきちゃんに、

そうだねと返事をした。



その長い髪に触れたいと、そんな思いが胸をかすめた。



































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