創作に役立ちそうな本の読書感想日記

兎野卵

断片から始まり、断片に終わる:『カフカ断片集』

『カフカ断片集:海辺の貝殻のようにうつろで、ひと足でふみつぶされそうだ』(フランツ・カフカ、頭木弘樹訳)を読んだ。カフカの遺稿の中から短い断片を集めた本で、非常に面白かった。


「カフカの醍醐味は断片にある」と著者は言う。そのとおり、一つ一つの断片が寓話のようで、とても面白い。謎めきつつ、しかし「ああ、わかるかも」という共感性がある。人生の大事な一側面を描いている、そんな佇まいがある。


個人的には、単なる共感を超えて得るものもあった。文学とはなにか、文学をやるというのはどういう行為なのか、この断片集を通じてちょっと理解できた気がする。


この断片集の中には様々な種類の文章が収められている。悩みの吐露のような文章もあれば、アフォリズムのようなもの、詩のようなもの、夢日記のようなもの、そしてわりとしっかりしたお話の形になっているものまで。それらの間には境界線があるようで無い。全てが詩でもあるし、小説でもあるし、ただの日記でもあるように見える。そして、全ての断片はそれひとつで完成しているようにも見えるし、逆に、何かの作品の一部であるようにも見える。


あとがきの解説で興味深かったのが、以下の話。


〝なんとか出版にこぎつけたのが、カフカの最初の本、『観察』(1912年)だ。『木々』はその中の1編。執筆時期は1904年か1905年(カフカは20~22歳)。もともとは『ある戦いの記録』という作品の一部。つまり、もっと長い作品の断片なのだ。それをカフカは取り出して、独立した作品とした。〟


執筆した作品全体を発表せず、わざわざ一部分を取り出して小品として発表するというのは面白い。そんなことやっていいんだ、という斬新さがある。(※ちなみに、この「木々」という作品もものすごく短くて、6行くらいしかない)


でも、よく考えたら「完成」というのは恣意的なものでしかない。なんだったら完成と言えるのか。長ければ完成か。短いから未完成なのか。切り抜いたものは不完全なのか。そんなことはないはず。むしろ、「1冊の長編にしなければ」という商業的な都合のせいで、ダラダラした余計な展開が発生するということはあり得る。それこそ不完全だ。


カフカの残した作品には未完のものも多い。そもそも、完成した作品も、なんかモヤモヤした結末を迎える。ある意味「全てが断片」と言ってもいい。


カフカは多分、小さなメモ書きのような断片から物語を作り始めているのだと思う。それを膨らませていって……どこかの段階で、一旦完成とする。しかし、それは依然として「断片」で、まだ膨らむ可能性が常にあるし、逆にバッサリ切り抜かれる可能性もある。


断片には無限の可能性を感じる。一つの断片が膨らんで、あるいは複数の断片がつながって、大きな物語になっていく。逆に、長い文章を見ると、その中から一部を切り出してみたくなる。断片化することで自由を取り戻したくなる。「断片」は一つの自由であり、可能性の形なのだと思う。

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