29 千鶴の勉強会

千鶴は雄太郎との約束通りリビングで待っていた。

机の上に参考書やノートを広げていいものなのか分からず、辺りを見回していると雄太郎がやってきた。


「気にせずに座っていいんだぞ?」


雄太郎は千鶴の目の前に筆記用具等の勉強道具を置き、ソファに座った。


「雄太郎。どれくらいくつろいでいいのか、分からなくて」

「前に凪ちゃんと来た時はもっとくつろいでたじゃないか」

「ごめんなさい」


それに対しては本当に申し訳なく思っている。2年前の夏を思い出し、千鶴の口からは自然と謝罪の言葉が出てきた。


「……別に謝ることじゃない。むしろあれぐらいでいい、ゆっくりしてくれ」

「わかった」


雄太郎の表情は分かりづらい。しかし怒っているわけではないようだ。


「さあ、勉強を始めるぞ。俺が貸した問題集はやってきたのか?」

「うん。でもあれ難しかったよ……」


演習ノートを雄太郎に差し出すと、雄太郎は受け取ってじっくりと見てペラペラとページをめくっていく。

千鶴は緊張しながらその様子を見ていたが、段々雄太郎の表情が曇っていくのを見てなんとなく、嫌な空気を察した。


「これ中学2年生の範囲だぞ……?」

「本当に?すごく難しかったよ?」

「俺が高校入試のために問題を沢山解きたくて、中2で買ったものだ。間違いない。確かにクセの強い応用問題もいくつかあったはずだが、こんな……」


雄太郎が言葉を紡ぐのをやめた瞬間、千鶴は己の知能の低さを恨んだ。


「千鶴がどこが分からないのかが分からないなんて言うから適当に問題を渡したが……凪ちゃんなら鼻で笑うレベルの問題だぞこれ」

「そんなに……?」

「そんなに」


深く頷かれてしまい千鶴は終わった、と絶望するしかなかった。


「難しいと思うから解けないんじゃないか?ほら、これ解いてみて」


雄太郎が指したのは二次方程式の問題。千鶴が最も苦手とする分野だ。


「えー……」

「この学校に入れる人間なら解けるはずだ。千鶴は数学に気持ちで負けているように見える」


確かに雄太郎の言う通りだ。千鶴は今までずっと自分が数学が苦手だと思いこんできた。これは千鶴が得意とする根性論なのかもしれない。


「千鶴なら解ける。大丈夫だ」


そう言われたので、千鶴は渋々ペンを取って問題を解くことにした。

冷静に式を確認する。良く見れば、解くための糸口は沢山あった。一つ一つそれを分解し、整理する。


「解は……こうだ、できた!」


ペンを置いた。自信はある。


「どれどれ?」


雄太郎は目で式を追う。千鶴はそれをじっと観察していた。


「よし、正解だ」


赤のボールペンで千鶴の回答にぐるりと大きな丸を書くと、千鶴に問題集の詳細を見せた。


「千鶴、騙して悪かったな」

「……え?」


千鶴は雄太郎の言っている意味が分からなかった。否、理解しようとしなかった。


「あれはこの問題集で一番難しい二次方程式の問題だ」

「えっと、それって、つまり」

「千鶴は本当はやればできるんだ。これまで数学が不得意だったのは、勝手に千鶴が数学に対して苦手意識を持ってしまっていたせいだ」


はっきりと言葉にされてようやく頭に入ってきた。


「私は雄太郎に騙されたの……?」

「……まあ、そうなる」

「へー……」


雄太郎は心底申し訳無さそうにしている。その証拠に、視線が合わない。


「……とにかく、千鶴はもう苦手意識なんて持つ必要はない。このまま順序よく今までの単元を辿っていけば、2学期の範囲まで追いつけるはずだ。元々基礎はできてるんだから」


ここで、雄太郎の言動に違和感を覚えた。これは雄太郎の教え方とは全く異なっている。雄太郎は自らもそうであるように、愚直に反復演習を勧める。今回もそうなるだろうと思っていた。


しかし千鶴はこのアプローチ法を知っている。馴染みがある。人の脳を騙すやり方。


「雄太郎、凪に相談した?」


カタン、と床から軽い物体が落下したような音がした。雄太郎の足元を見ると、彼のシャーペンが落ちていた。


「図星なんだ……」

「……千鶴には隠せないか」




雄太郎は千鶴から勉強についての相談を受けたすぐ後、凪と昴大にそのことを話していた。


「千鶴さんは数学が苦手なのか……」

「昔からだよ。何回か克服を手伝ったんだけど、結局今も駄目みたい」

「俺は人に勉強を教えるのが苦手なんだ……」


そもそも雄太郎は他人に何かを教えることは向いていない。自分でもそのあたりはよく認識していた。


「知ってるよ。私が教えようか?」

「それなら俺が教えたほうがマシだ」

「えー。酷いな。これでもよくできる方なんだよ?」


そんな事は長年の付き合いでとうに知っている。雄太郎が懸念しているのはそういう問題ではないのだ。


「だから駄目なんだ。ざっくばらん過ぎてまるで頭に入らない。それにさっき自分で言ったじゃないか。凪ちゃんが教えてもどうにもならなかったんだろ?」

「そうなんだけどさ。最近、数学のコツなんとなく掴めてきたからそれを千鶴にも伝授しようと思って」

「……一つ良いかな」


昴大が恐る恐る手をあげてそう言った。


「どうぞ」

「どうした?」

「千鶴さんは中学の時からずっと、数学が苦手なんだよね?」


先程から幾度も言っていることをあえて確認する昴大。本気で何か案があるのかもしれない。


「ああ。数字を見るだけでもう無理らしい。なんとかして克服させないと」

「それって、自分が数学が苦手だって気持ちが染み付いてるからじゃない?」

「……そりゃあそうだろうな」


彼が何を言いたいのかいまいち見えてこない。


「あー、そういうこと?」

「どういうことだ」

「当たり前のことなんだけど、気付かないよね。至って初歩的なことだ。ということは、あの手が使えるかもしれない」


凪は一人で結論を導き出し納得して、ウンウンと頷いている。雄太郎には何のことだかさっぱり分からないが、昴大も満足げに凪を見ている。


「……答えがほしいのは俺なんだが?説明してくれよ」

「つまり、千鶴に成功体験を与えればいい。この問題は簡単だって言って、千鶴が普段解けないレベルの問題を渡す。解けたらネタばらしをして、とにかく褒めちぎって自信をつけさせる」


言っている意味は理解できる。一般的には幼い子供によく行うしつけ方だ。


「そんなので本当に千鶴の成績が伸びるのか?結局、騙しているだけじゃないか。すぐに頭打ちになるだろう」

「うん……」


自信なさげに昴大は呟く。


「やってみる価値はあると思いますけど?脳筋なユウくんのやり方よりはよっぽどマシ」


脳筋、と言われ少し腹が立ったが怒るタイミングではない。とりあえずは認めるしかなかった。


「……効果なかったら凪ちゃんと昴大のせいだからな?」

「ええ……」

「良いよ。ユウくんは理解してないのかもしれないけど、千鶴はモチベーションが感情だから」




「本当に凪ちゃんの言う通りだったな……」


一通り中学数学の問題を解き終わり、事のあらましを教えてくれた雄太郎は非常に悔しげに項垂れた。

千鶴は流石凪、と自分の親友がよく自分の性格を理解していてくれたことに感心しつつ、目の前で大きなため息をつく雄太郎に対しても同情した。


「効果あったね……なんか、ごめん」

「千鶴は謝らなくていい。あー、俺、凪ちゃんに後で何を言われるんだろうな……」


ピピッ、と電子アラームがどこからか鳴っている。雄太郎はそれに気がついていないようだ。大方、休憩の目安に雄太郎自身が設定したものだろうがこれは教えた方がいいのだろうか。


「雄太郎、アラーム鳴ってる」

「本当だ。……3時か」


壁に掛けてある洒落た木製の時計を見ると、確かに針は15時丁度を指していた。


「そろそろ昴大と凪ちゃんがここに来るはずだ。そしたら、遼さんが持ってきたゼリーを食べよう」


雄太郎はソファから立ち上がり、勉強道具を片付け始める。


「今日は数学はとりあえずここまでだ。準備、手伝ってくれないか?」

「分かった。ちょっと待って」

千鶴も参考書を閉じペンを筆箱にしまうと2人で台所に向かった。

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