26 問題児の事情
凪は一番最初に車に乗り込むと、奥の席に座った。
あとから乗り込んでくる千鶴の手を引いて、隣に誘導する。
「ありがとう凪」
その次に雄太郎が乗って、昴大が乗り込むとすぐに車は出発した。
「凪ちゃん、カバン重かったけど何が入ってるんだ?」
聞かれるだろうとは思っていたが、本当に雄太郎が開口一番に尋ねてきたので凪は思わず笑ってしまった。
「何がおかしい」
「いや何も?カバンの中はちなみに兄三人からの手土産だから」
別荘に行くと伝えるや否や強制的に持たされたのだ。海月家と暁家は昔から深い付き合いだ。
兄たちが気を使いたい気持ちも分かるが、やり過ぎじゃないかとも思う。
凪がそう言うと、雄太郎は安堵したようにため息をついた。
「なんだ……凪ちゃんのことだから、ゲーム機でも持ってきてるのかと」
「それも当然入ってるよ?」
「……凪ちゃん!!」
怒り半分、呆れ半分の声を雄太郎が上げた。
「大体、この別荘に何をしに行くつもりなんだ。俺たちはこの三日間、勉強を頑張らないといけないんだぞ」
「それはユウくんが勝手に決めたことでしょうが」
「まあまあ雄太郎。一回落ち着こう」
昴大がなだめるも、雄太郎の語気が弱まることはない。
「誰のせいなんだろうな?」
雄太郎が千鶴を見る。言いたいことは凪にも分かる。
「……ごめんなさい」
千鶴はそのことについて、申し訳無さを三人に感じていた。
時は一ヶ月前、期末テスト返却の日まで遡る。
「土間さん」
担任教諭に呼び止められ、話をされた。
今学期は補習対象外だが、実は危うい成績なのだということ。夏季休暇、予習復習をしっかり行わないと今のままでは二学期から授業についていくことは難しいこと。
「……わかりました」
千鶴は渡された成績表を見た。
苦手な数学は38点。平常点の高さで見逃されたようなものだ。得意な現代文でさえ、平均より少し上の72点である。
千鶴は意欲点で非常に高い成績がついており、テストの点は下位層であるものの、総合成績はそこまで悪くなかった。
しかしそれでも担任からの忠告があったということは、本気でこの夏休みは勉強しなければ後々進級に関わる可能性が高いということだろう。
「はあ……」
大きなため息をついて廊下をトボトボ歩いていると、雄太郎とすれ違った。
「やっほー、雄太郎」
「……やっほーってテンションじゃなかったぞ?」
鈍感な雄太郎でも気付けるほど、千鶴は落ち込んで見えたらしい。
「なんでそんなに暗い顔をしてるんだ?」
「ちょっと担任に、成績やばいって言われちゃって……」
「まさか補習になったのか?」
雄太郎の表情が一気に険しくなった。これはマズイ、と千鶴は直感で察して慌てて弁明した。
「違うの。補習は回避したよ」
「なんだ、そうなのか。夏休み頑張ればまだ取り返せるんだろ?」
「…………」
雄太郎の励ましに、千鶴は黙り込むしかなかった。
確かに言う通り、今から一学期の内容を完全に理解すれば返り咲きも夢ではない。
しかし、問題はもっと初歩的なところにあった。
千鶴は高校受験の際、分からない数学を諦め、他の教科を集中的に勉強することによって乗り越えた。つまり、数学は中学の範囲からかなり理解できていないのだ。
「二次方程式と関数」
「どうしたんだ千鶴。……まさか」
千鶴は中学のその単元から数学への苦手意識を持つようになった。当然、高校数学を理解するのに必要不可欠な単元でもある。
「ずっと分からないんだよ!基本問題は頑張って何とか解けるようになった。でも、この学校では基本ができるだけじゃ通用しない……」
他人に怒りをぶつけたところで千鶴の現状は変わらない。ましてや勉強を最も得意とする雄太郎が相手だ。共感の一つも得られないだろう。
雄太郎はじっと悲しみに暮れる千鶴を見ていた。どう反応すれば良いのか雄太郎には分からないことは、千鶴も知っている。
「千鶴の言うことが本当なら、夏休みは別荘に行ってる場合じゃないぞ……?」
「だよね、うん。諦めるよ。ご両親にもそう伝えておいて。ほんとにごめんね」
別荘に行くのは楽しみにしていたしこんなことにはなったのは悔しいが、こればかりは仕方ない。自分の力不足が招いたことだ。ひたすら言い聞かせていた。
凪や昴大には申し訳ないが、三人で楽しんでくれればいい。聞いたところ、二人は勉強には困っていないようだった。
だが雄太郎は、少し何かを渋る様子で考えていた。
「こうすれば……いや、しかしな……」
「雄太郎?」
千鶴の声が聞こえているのかいないのか、雄太郎は意を決したように言った。
「千鶴、別荘に行こう」
一瞬、雄太郎の言葉が理解できず、戸惑いを隠せなかった。千鶴は本当に実際、非常に勉強面でマズイのだ。遊んでいる暇は一切ないのだ。
「別荘で俺が勉強を教える。誰かに教えてもらった方がきっと効率もいい。塾をやめた今、自主勉強のやり方が分からなくて余計に苦労してるんじゃないのか?」
雄太郎の言うことは的を得ている。
千鶴は今まで塾の教材に取り組むことによって勉強を進めてきたが、高校に入学した際に忙しくて行く時間がないからと辞めたのだ。
千鶴は自主学習が本当に苦手だ。そんな時に雄太郎という良い教師が付けばまだ伸びる余地はあるかもしれない。
それでも一つだけ問題点があった。雄太郎側の事情だ。
「……でも、雄太郎に悪いよ。せっかく遊べるのに」
「いや俺は別荘に行く間も勉強するつもりだし、人に教えることもまた勉強になる。問題ない」
それでいいだろ、と小声で雄太郎は呟いた。
彼は少しだけ微笑んでいるように見えた。千鶴にとっても、これほど雄太郎が頼もしく見えた時はない。
「大体、分からないのが数学なら理数科の凪ちゃんや昴大にも教えてもらえるだろう。夏休みに4人で集まるのはその時だけなんだから、寧ろ別荘行きは良い機会なんじゃないか」
「本当だ!雄太郎天才!」
「やめてくれ」
正直な思いを伝えただけなのだが、何故か雄太郎にはあからさまに嫌がられてしまった。
「これで我慢しなくてもいいな、千鶴」
「うん!」
雄太郎の機転により、千鶴は我慢せずに済んだ。しかしこれにより、凪と昴大が勉強会に巻き込まれることになったのだ。
「本当にごめん……」
千鶴が必死に謝る。もちろん昴大も以前からこのことは知っていたが、落ち込む千鶴をなだめた。
「僕は全然気にしないよ。友達と勉強会するって、僕結構憧れあったんだよね!」
「千鶴はただ勉強が苦手なだけでしょ。謝ることではなくない?」
凪も凪なりに千鶴を慰める。凪は人をフォローすることは苦手だが、責めるようなこともしないのだ。
「まあ頑張りましょうよ」
車は高速道路に入った。もう既に昴大の知らない地名の場所まで来ていた。
話題は学校の宿題に移り、雄太郎は三人に尋ねた。
「宿題終わったのか?」
「……さあどうでしょうか」
凪はゆっくりと雄太郎から目を逸らした。
「つまり終わってないんだな?」
「多分、化学のレポートが大変なんだと思う。凪、言ってたもんね」
「そうそう。これが中々難しくて」
化学のレポートとやらがどれだけ大変かは雄太郎には分からないが、それと夏休み終了一週間前になって宿題が終わりきってないことは何ら関係がない。
「でも終わらせないとマズイんじゃないのか。提出期限は迫ってるんだぞ?」
「大丈夫、考えはあるから」
「なんだ、目処は立っているのか。ならまあ良いか、凪ちゃんなら終わらせるだろ」
そんな雄太郎の期待とは裏腹に、凪は頷きながら衝撃的なセリフを放った。
「実験の途中にレポートを燃やしましたーって言えば許される」
「そんな訳あるか!実験中にレポートを書くなって怒られるだけだ。凪ちゃんに期待した俺が馬鹿だった」
雄太郎は思わず心配になり、昴大を見た。雄太郎の知る限り、昴大は真面目だが凪の影響を受けているかもしれない。
「……僕は終わったよ。夏休み始まる前に大体終わらせた」
「あー良かった。どうせ千鶴もやってないだろうし、味方がいて本当に良かった」
「ウチは昨日、全部終わったよ!」
冗談のつもりだったのだが、千鶴に怒られてしまった。
「凪ちゃんは本当にどうするんだ?」
「楽しみだね別荘」
「……おい!」
凪の目は既に雄太郎を見ていなかった。
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