無料で無限に課金出来るスマホ

月亭脱兎

ただほど怖いものはない

 夏の夕暮れ、湿った風が肌にまとわりつく中、道端に落ちていたスマホを見つけた。


 薄暗い街灯の光に反射して、淡い輝きを放つそれは、最新モデルのWePhoneによく似ていたが、なぜかカメラ用のレンズが付いていない。奇妙だと思いながらも、その無防備さに誘惑されるように、手に取った。


「誰がこんな高価なものを落としたんだろう……?」


 周囲を見渡したが、持ち主らしき人影はなく、ただひぐらしの鳴く音が遠くまで響いているだけだった。ロックもかかっておらず、指先で触れると、画面が暗闇の中で鮮やかに光り輝いた。今思えば、その光にはどこか不吉なものが宿っていたのかもしれない。


 翌日、友人たちと居酒屋で飲んでいると、最新スマホの話題になった。すると突然、友人の一人が口を開いた。


「無料で無限に課金できるスマホの『うわさ』、知ってるか?」


 その話に興味を持ち、耳を傾けた。


「そのスマホは、最新モデルに似てるけど、カメラがないんだ。そして、どんな高額なものでも無限に課金できるんだ。しかもカード情報や銀行口座を登録しなくてもいいから、入金しなくても買えてしまう。けど、その持ち主は必ず、ある日突然消えてしまうらしい。で、次の持ち主を探してそのスマホはまた、道端に現れるんだってさ。」


 冗談交じりの語り口だったが、胸の奥に冷たい感触が広がった。拾ったスマホがその噂に酷似していると気づいた瞬間、恐怖と好奇心が入り混じる感情が心を覆った。


 帰宅後、スマホをじっと見つめた。もし本当に無限に課金できるなら…。震える手でゲームをインストールし、恐る恐る課金ボタンを押してみた。クレジットカード情報も何も入力していないのに、購入が完了した。画面に表示されたのは、増え続けるゲーム内の通貨だった。


「これは……まさか、本当に『うわさ』のスマホなのか?」


 恐怖が興奮に変わり、彼は次々とゲームに課金し続けた。まるで底の見えない井戸から水を汲み上げるように、限りなく続く贅沢に溺れていく。瞬く間にトッププレイヤーとなり、他のプレイヤーからも一目置かれる存在となった。


 彼の中に芽生えた飽くなき欲望は、次第に現実世界にまで及んだ。


 最新のガジェット、高級ブランド品、そしてさらには高価なジュエリーや家具まで、無限の課金がもたらす快楽に身を委ねた。彼の生活は一変し、豪華絢爛な暮らしの中で、欲望の渦に飲み込まれていった。


 やがて無償で仕入れた課金アイテムや商品を、オークションサイトで転売してみた。リアルマネートレード(RTM)にも手を染め、ゲーム内のアイテムを現金に換え始めた。


 その金で夜の街にくりだし、高級クラブで豪遊した。無限に出てくるかのような彼からの贈答品は、夜嬢たちを歓喜させた、すべてが思い通りになる感覚に浸り、もはや歯止めが効かなくなっていった。


 だが、その代償は予想を超える形で訪れた。まず最初に、彼は突如として体調を崩し始めた。頻繁な頭痛や倦怠感に襲われ、次第に健康が蝕まれていく。最初はただの疲労だと思っていたが、日が経つにつれて症状は悪化し、ふとした瞬間に体の一部が動かなくなるような異変が増えていった。まるで自分の未来が少しずつ削られていくような感覚に、彼の心は不安と恐怖で満たされていった。



 ある晩、彼は不気味な通知音に目を覚ました。見慣れないアイコンが画面に表示される——


【未来の支払額】という一文と共に、途方もない金額が映し出されている。


 驚愕のあまり、彼は何度も再起動を試みたが、画面に映る金額は増え続けるばかりだった。


「どうして……こんなの、ありえない……」


 震える手でスマホを握りしめたが、心の中では何かが崩れ始めていた。無限に増える支払額に対する恐怖が現実感を奪い去り、彼は次第に正気を失い始めた。それでも、欲望の鎖は解けなかった。


「結局、払う必要がないなら同じだろ」


 彼は手に入れた富と権力を使い、さらに多くのものを手に入れようとした。だが、それは彼の心を満たすどころか、空虚感を深めるばかりだった。


 そしてついに、彼はスマホを完全に破壊する決意を固めた。ハンマーで粉々に砕き、燃え盛る炎に投げ込んだ。燃え尽きるスマホを見つめながら、彼は何かから解放された気がした。


 しかし、それは錯覚に過ぎなかった。


 翌日、彼は再びそのスマホを手にしていた。何も変わっていないどころか、状況はさらに悪化していた。

 スマホの画面には、カメラが無いはずなのに自分の顔が映しだされ、その背後には人間の形をした黒い影が揺れていた。それは彼を見つめ、まるで彼の魂を奪い取ろうとしているかのようだった。

 慌てて振り返ってもそこには誰も居なかった。

 恐怖に駆られた彼はスマホを放り投げたが、影は彼の意識にこびりつき、離れなかった。


 日が経つごとに、彼の精神は次第に蝕まれていった。友人や家族との連絡を断ち切り、外出することもできなくなった。部屋中が高級品で溢れているにもかかわらず、彼の心はむしろその豊かさに押し潰されるようだった。


 そして、ある夜、スマホから最後の通知が届いた。


【支払能力を超えましたので、権利が次の所有者に移動します。】


 その瞬間、彼は全てを悟った。彼が手に入れたすべての贅沢と欲望は、結局のところ——自分のを代償にしていたのだ。


 未来を失った彼の肉体と存在は、灰のようにホロホロと消えはじめた。


 そして彼が存在した痕跡すらも、誰の記憶からも消えていった。


 ——翌朝、彼が持っていたスマホだけが、道端に落ちていた。

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