第9話 大学4年~修士課程1年
卒業研究の研究室配属で、正臣は鉄やアルミニウムを強くして金属製品を作る「金属材料」の研究室を希望した。しかしながら先生方の希望で、正臣は鉄を鉄鉱石から製錬して作る「鉄鋼製錬」の研究室に配属された。
成績優秀者が希望していない研究室に配属されるのは前例がなかった。
後で聞いた話では、鉄鋼製錬の研究室の沢町教授が定年退官前で、その沢町教授が
「定年の年は、これまで見たことがない優秀な学生である河村君を指導したい」
と言ったので、正臣は「鉄鋼製錬」の研究室に配属されたということであった。
正臣は卒業研究で『ヘマタイトペレットのガス還元速度に関する研究』を行った。
その研究を直接指導して下さった九工大の先輩の大学院生の村川さんはその後、九大の教授になって、学科長になった年に早逝されたが、正臣と共著の論文を残してくれた。
正臣は今でも村川さんを尊敬している。
正臣は、エンジニアとして修士の学位(大学院修士課程修了)は必修だと思っていたので、大学の学部を卒業したら迷うことなく大学院の修士課程に進学した。成績は学科でトップだったので、筆記試験免除の推薦入学だった。
正臣が学部の四年生の時に指導を受けた沢町教授は定年退官し、正臣が大学院の修士課程に入ると、九州大学で助教授をしていた杉原先生が九工大に教授になって赴任した。
九工大に新しく来た杉原先生の指導を仰ぐことになった正臣は、研究テーマを変えなければならなくなった。
卒業研究で慣れ親しんだテーマから全く違うものに研究テーマを変えるのは大変な苦労を伴うものである。
しかしそれは、まだ研究者とは言えなかった正臣の研究能力を飛躍的に伸ばす結果になった。また、九大から九工大に赴任した杉原先生との縁が、後にラッキーなことにつながったのである。
正臣が九工大の大学院修士課程に進学した春、正臣の母親は、
「町で近美小百合を見かけた」
と言い、正臣に次のように話した。
「小百合ちゃんは、昔は可愛かったけど、今は年を取って見る影もないわ。それに、あの娘が私をにらみつけるから、私もにらみ返してやったわ」
正臣の母親は、その頃もまだ『小百合の父親はやくざ』だと思っていた。
正臣は、
(昔はあんなに仲が良かったのに、お母さんも変われば変わるものだ)
と思った。
それから間もなくして、正臣の父親の東京本社転勤が決まった。
正臣の父親はその会社の創業に関わっていたので、将来の東京本社の社長と目されていた。正臣の父親にとって、いよいよそれが近づいたのである。
正臣の弟の光安は後になって、父親が東京に移った時の状況を、
「あの時、兄貴は親に捨てられた」
と表現することがあった。
それまで過保護な生活をしていた正臣は、戸畑で間借り生活をすることになった。
正臣の弟と妹はそれとは逆に、母方の祖父の遺産相続で母親が分けてもらった鎌倉市役所の隣にあった土地に、父親が三十年近く社宅暮らしをして貯めたお金で建てた邸宅から東大に通う、「いいとこの子」になった。
見方によれば、正臣は弟や妹と立場が逆転したのだが、正臣は好きな金属製錬の研究とバンドをやっていたので、それを何とも思わなかった。
その上その頃の正臣には、『製鉄所長になりたい』という夢があった。
それは、正臣が中学一年の時に真樹に言った、『世界を救う博士になる』に比べると、ずっと現実的で、かつ実現可能な夢であった。
その夢の実現のため、正臣は修士過程を修了したら銑鋼一貫メーカー(製鉄会社)に就職したいと思っていた。
しかしながら、東大の入試がなかった正臣の最初の大学受験の年と同じように、不運な時のめぐり合わせが正臣の行く手を
その原因はオイルショックであった。
原油の価格が一年で数倍に跳ね上がったのは、正臣が大学院修士課程の一年生の時だった。
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