第8話 大学3年

 高校時代、『私は、お父さんが決めた人と結婚するの』と言っていた小百合の言葉が不安材料になっていた正臣に、『思ってもいない、とんでもない事』が起こったのは、正臣が九工大の三年生になった時であった。

 

 正臣の父親は、お得意様である帝国製鉄の部長さんや就活中の学生を推薦してくれる帝国大学の教授を接待するため、日曜日にはよくゴルフに行っていた。

 小百合のお父さんもゴルフをやっていて、ゴルフの腕前は正臣の父親以上の『ハンディはシングル』だと聞いていた。

 

 その年の四月上旬の日曜日、ゴルフを終えて帰ってきた正臣の父親が、

「今日、若松ゴルフ倶楽部のクラブハウスのお風呂で近美さんと一緒になった。近美さんが、『娘がいつもお世話になっています。これからも娘をよろしくお願いします』とおっしゃるので、『こちらこそ、息子をよろしくお願いします』と返事をした。

 すると近美さんが、『その内に正式なお話を』とおっしゃるので、『分かりました』と返事をしておいたよ」

 と話したのである。 

 

 これはお互いの父親が二人の交際を認め、近い内に二人を一緒にしてやろうと思っている証拠であった。

 

 正臣は喜びに、天にも昇る気持ちになった。

 

 小百合とはキスをしたこともなかったが、十七才で知り合い、二十二才まで付き合っていたのは、将来は彼女と結婚したいと思っていたからに外ならなかった。

 

 その頃の正臣は、小百合のためにも頑張ろうと大学の授業は一コマも欠かさずに出席して、復習だけでなく予習までやって、九工大では首席を通していた。

 近美さんの実家は若町一の資産家で、賃貸しアパートを何軒か持っていた。

 小百合のお父さんは、お互いの息子と娘が思い合っているのなら、この際結婚させるか仮祝言を上げて、近美家が持っているアパートで一緒に暮らさせようと思っていた。

 

 普通なら、これでハッピーエンドを迎えられるはずだった。


 

 これから先は、人生一歩先は何が起こるか分からないということと、ちょっとしたことで人生は大きく変わるということ、そして人生で何が幸運で何が禍かは、おそらく死を迎えるまで分からないということを紹介することになる。

 

 正臣と小百合の父親同士が若松ゴルフ俱楽部のクラブハウスで話をして一週間もたたない内に、正臣の母親がとんでもない事を言い出した。


「福村さんが言うには、近美さんのお父さんは『やくざ』だってよ」

 

 正臣は、

(そんな馬鹿なことはない)

 と思ったが、正臣の母親は福村さんが言うことはすべて真実だと思っていた。

 

 そもそも正臣の母親は、世間知らずのお人好しであった。

 正臣の母親の友人である福村和枝は、実際には若松にいる善良な人達から数千万円にのぼるお金をだまし取っていた詐欺師であった。

 

 しかしながら正臣の母親は、福村さんは貧しい人や恵まれない人達のための基金を運営している正義の味方だと思っていた。

 

 後の警察の捜査で、正臣の母親は福村和枝から二十年以上マインドコントロールされていたことが明らかになったが、その当時はそれを知る由もなかった。

 そこで正臣の母親は、父親同士で縁談がまとまりそうになっている小百合の家がどんな家なのかを、正義の味方と思い込んでいた福村さんに聞いたのである。

 

 その答えが『小百合のお父さんはやくざ』だったので、正臣の母親は、

(これはどんなことをしてでも、正臣と小百合を別れさせよう)

 と思ったのだった。

 

 正臣と母親と父親の三人で家族会議が開かれた。

 

 正臣は、小百合の家が正臣の家に負けないくらい広くて大きな家であることは知っていたが、小百合のお父さんには会ったことがなかった。

「近美さんのお父さんの職業を知っているか?」

 という父親の質問に正臣は、

「小百合さんは、『ウチのお父さんは、不動産をやっている』と言っていた」

 と答えた。正臣の両親は、それを悪徳不動産屋だと誤解した。

 

 とにかく、その家族会議の結果、正臣は、

「小百合には二度と会わない」

 と約束させられたのである。

「お母さん、福村さんの言うことを信用しないほうがいいよ」

 と言う正臣の言葉を母親は聞こうとしなかった。

 

 この時、正臣が両親に、

「これは僕の一生のお願いだから、信頼できる探偵に頼んで、近美さんの家のことをちゃんと調べてよ」

 とお願いしていたら、正臣と小百合の人生は変わっていたかもしれない。

 

 小百合や小百合の両親の方は、父親同士が縁談に近い話をしたのに、それからぱったり正臣からの連絡が途絶えたことをいぶかしく思っていた。

 正臣が急に連絡してこなくなった理由として考えられるものは、次のようなものであった。

 

 河村君は、『親は金持ち、成績優秀、眉目秀麗びもくしゅうれい』と三拍子揃っているから女がほっておくはずがない。そのため、正臣には他に女がいたというのが考えられる一つ目の理由。

 二つ目は、小百合が若くて、あまりにもきれいだから、正臣の母親がやきもちを妬いたというもの。

 そして三つ目の理由は、正臣が抱いている一般の人には思いもつかない大きな夢を実現するために小百合が足手まといになる、または、その夢のために小百合に苦労させるのは可哀そうだと正臣が判断したというもの。

 

 小百合の家では、とにかく様子を見て、小百合が二十五歳になるまで待ってみようということになった。

 

 小百合がただ待つだけでなく、正臣に、

「なぜ、会ってくれないの?」

 と電話の一本でもしていたら、または、「さみしい」と一言だけ書いた手紙の一つでも正臣に送っていたら、小百合と正臣の人生は変わっていたかもしれない。


 良家の息子や娘は人任せとは言わないまでも、恋愛において自発的な行動を取らない傾向がある。

 

 そういう二人にとって最大の敵は、世間のねたみや嫉妬である。

 

 二人のことをよく知っている友達は二人が結婚できるように応援するが、その他大勢の世間の人は応援などしてくれない。

 むしろ二人が不幸になることを望んだりする。

 

 福村さんみたいな満たされていない結婚生活を送っている中年女性は、町一番の資産家のお嬢様と町で一番大きい工場の経営者の嫡男ちゃくなんが高校時代に恋に落ち、愛を育んで、両家の親族から祝福されて結婚することなどあってはならないと思うのである。

 正臣と小百合の恋は、そういう例であった。

 

 正臣の母親が小百合の父親はやくざではなく、映画館の他に貸家や貸アパートを何軒か持っている若松一の資産家だと知ったのは、正臣と小百合を別れさせてから五年後であった。また、福村さんが自分や自分の知り合いからお金をだまし取っていたと知ったのは、それからさらに十年後であった。

 

 福村さんの詐欺の手口は、次のようなものであった。

 

 初めの内は、自分が所有している市場の店子たなこ達の仕入のための資金(プール金)を出してほしいと持ち掛け、

「利子は十年ものの郵便定期と同じだけど、いつでも引き出しや解約ができる。とにかく、お金に困っている人達のためだから、お願い」

 と言って、正臣の母親を含めた知り合いの奥さん達に出資させていた。

 

 福村さんの旦那さんが『行政書士』になってからは、詐欺の手口としてはよくある『つなぎ融資』のお金を貸してほしいというものであった。

 

 とにかく福村和枝は、『貧しい人や困っている人のため』と言って、世間知らずの奥さんたちの自尊心と同情心を利用してお金をだまし取っていたのである。法務局に出入りしている人の奥さんが詐欺をしているとは誰も思っていなかったが、やがて福村さんは自転車操業に行き詰まり、自殺未遂事件を起こして、詐欺をはたらいていることが発覚したのである。

 

 福村さんばかりでなく、福村さんの旦那さんも警察に逮捕され、手錠を掛けられて腰ひもで警官に引かれる写真が西日本新聞に掲載された。旦那さんの方は起訴猶予になったようだが、行政書士の資格をはく奪された。

 

 どんなにおいしい話も、逆に堅い話も、どんなに困っている人のためでも、銀行でもないのに人にお金を貸して利息をもらうのは出資法違反で、本来ならば、だまされてお金を失った方も罰せられるのである。


 

 両親から小百合に会うことを禁じられた正臣は、『彼女と駆け落ちしよう』と思ったが、大学を卒業しないまま彼女と一緒になっても食っていく自信がなかった。

 

 正臣はさらに思いつめて、『小百合を殺して、自分も死のう』と考えてサバイバルナイフを用意したが、小百合を殺したら彼女の両親だけでなく、自分の両親も嘆き悲しむと思った。

 

 そして正臣は、小百合と二人で観た「ロミオとジュリエット」の主人公の二人がもしも心中しなかったら、二人はその先どうなるのかを体験できるかもしれないと思い小百合を殺すのをやめた。


 それでも正臣は、自分が精神的におかしくなっていくのを感じた。小百合の家への無言電話や、幼稚園児の手を引く彼女を物陰から隠れ見るといったストーカー行為をして正臣は、

(このままでは僕は、気が狂って犯罪者になってしまう)

 と思った。


(何か趣味を持って、ストレスを解消しなくてはいけない)

 そう思った正臣は、大学のフォークソングクラブに入った。

 

 三年生になっての入部は珍しかったが、音楽好きの連中はいい奴ばかりで、正臣を快く迎え入れてくれた。

 フォークソングといっても、ギター一本で歌うパターンはその頃はもう古く、バンド編成でやるフォークロックが主流になっていた。

 そして正臣は、北九州のどの音楽サークルでもベーシストが不足していることを知った。そこで正臣はエレキベースが担当できるように練習を開始した。

 

 小さな頃から音楽に親しんでいた正臣がエレキベースが弾けるようになるのに、あまり時間はかからなかった。

 

 正臣は、家庭教師のアルバイトで貯めていた貯金でサムのレスポール型のエレキベースとフェンダーのジャズベースを買った。


 正臣は、幼稚園の頃から中学一年までピアノやバイオリンを習っていたが、エレキベースが自分に合う楽器だと思うようになった。

 それは、どんなにのってもリズムを外してはいけないという点、そして音楽の行間をつなぐように入れるベースランニングの醍醐味、その両者を満足させるために頭を使うことに正臣は快感を覚えるようになった。

 

 エレキバンドを組んで、自分には分からない音楽を始めた正臣を見て父親は、

(正臣は大丈夫か?)

 と思い始めた。

 エレキギターは不良がやるものだと思われていた時代であった。

 

 正臣は親の誤解を解くため、両親の前でフォークギターのモーリスハミングバードを弾きながら、ビートルズの『イエスタデイ』を歌った。

 

 それを聞いた正臣の父親は、

「これが本当にあのビートルズが作った曲か? この曲は将来クラシックになる素晴らしい曲だ」

 と言って、正臣のバンド活動を許してくれた。

 

 大学の授業とその予習復習、部活のバンド活動と知り合いから頼まれた家庭教師のアルバイト、それらは正臣にとって手を抜くことができないものばかりだった。

 

 時間の使い方を間違えたら、どこかで行き詰まる・・・そんな毎日を送ることにより、正臣の頭の中に住み着いていた小百合の面影は徐々にではあるが薄れていった。


 

 人をまとめることが上手な正臣は、大学三年の後期からフォークソングクラブの部長になり、大学の軽音楽部や学内に二つあったロックバンドと合同コンサートを企画した。

 戸畑市民会館で開催されたそのコンサートには正臣の両親も聞きに来て、感想を述べてくれた。

 

 少し先に時間が飛ぶが、正臣は大学院の修士課程を修了するまでバンド活動を続けた。『好きこそものの上手なれ』と言うが、正臣は(それは逆じゃないか)と思っている。どんなことでも、長くやるとそれが好きになり、また上達するものである。

 

 大学院の修士課程の修了式の数日前に、後輩から頼まれてエレキベースを担当して小倉市民会館で開かれたヤマハのポップスコンクールの地方大会の決勝のステージに立った時、

「このバンドには、北九州では有名な大学院生のベースがいる」

 と司会者から紹介されたことを正臣は今でも覚えている。

 

 それでも正臣は、音楽で食っていこうとは夢にも思っていなかった。

 

 マイクなしでも小倉市民会館の一番後ろの席まで通るアンドレ・カンドレ(後の井上陽水)の澄んだ歌声、吉田拓郎のバックバンドのベースを担当した時の細野晴臣のベースランニング、初めて聞いた曲を即座に譜面(楽譜)に書き落とすことができる坂本龍一の絶対音感、加川良や岡林信康が書く歌詞の哲学性・・・

(そのどれをとっても僕は絶対に勝てない。上には上がいるものだ)

 と正臣は痛感していた。

 

 どんなに努力しても日本一になれない音楽は、あくまでも趣味の範囲にとどめ、正臣は自分が日本一になれるものを探すことにした。



 正臣は大学三年が終わった時点で、卒業に必要な単位数以上の単位を取得していて残すは卒業研究だけになっていた。

 また取得した単位のすべてが「優」であった。

 それは現在なら、飛び級で大学院に進学できる成績に相当するものである。

 

 それもこれも、小百合に会いたい一心で朝早いバスに乗って朝一から大学に出て、受講可能な授業をすべて受けていたことが習慣になったためであった。

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