第12話 オーバードクター
文字通り人一倍実験して多くの論文を発表した正臣は、九州大学の史上最年少で『工学博士』の学位を取った。
正臣の博士論文は、真理子が清書したものであった。
その論文を正臣が副査である応用化学の加藤先生のところに持って行って、
「君は字が奇麗だね」
とおっしゃった。正臣は、
「実はこれは、僕の婚約者が清書したものです」
と言った。すると加藤教授は、
「それにしても君の彼女は、自然科学に精通した人だね。間違いが一つもないよ」
とおっしゃった。正臣は、
「実は、僕の婚約者は古山真理子です」
と言った。すると加藤教授は、
「それで分かった。あなたの博士号はあなたじゃなくて、古山さんに上げないといけないね」
と言った。正臣は、その通りだと思った。
九大の歴代最年少で工学博士になったと言うのに、正臣に対する時代の仕打ちは、ひどいものであった。
正臣が博士課程を修了する年に、正臣が所属している研究室の助手の席が一つ削減されたのである。それは、正臣が座ることになっていた席であった。助手削減の理由は研究室が新しい専攻に変わったためであった。
自分ではどうすることもできない不可抗力が、またしても正臣の行く手を阻んだのである。しかし、
(僕は、母親の誤解により最愛の人と別れさせられた)
そう思うと正臣は就職先が突然なくなったことくらい、どうってことなく思えた。
オーバードクターになった正臣は、『日本学術振興会奨励研究員』に応募して採用された。それは、オーバードクターのための奨学金で、返済義務はなかった。また、支給される金額も助手の初任給より多いというものであった。
その年のその奨学金の採用者数は全国で三人だけで、東大、阪大、九大からそれぞれ1名であった。
正臣は、超難関の研究員に採用されたのは自分の力ではなく、研究室の教授の力だと思った。
(なお、この年に『日本学術振興会奨励研究員』に採用された三名の研究者で、将来において大学教授になれたのは、結局のところ正臣一人だけだった)
月に十三万円の奨学金がもらえるようになった正臣は、真理子と所帯を持った。
正臣と真理子の結婚は、九大の女性パート職員の間で歴代のベストテンに入る「玉の輿」と噂された。
それは新郎の実家が大金持ちと言うことよりも、しこめ(醜女)が美男を手に入れたという意味合いの方が大きかった。
真理子は安奈を結婚式に招待した。そして安奈を一番後ろの席に座らせた。
それはシュガーが歌っていた『ウエディング・ベル』状態であった。
正臣は、女にはみんな残酷なところがあることを知った。
正臣と真理子の新婚の住まいは、かまぼこ屋の三階の空調のないオンボロアパートだった。
真理子は大学の仕事をやめて、正臣を支えるため、主婦業に専念した。
正臣は大学の研究室で、助手以上の仕事をした。
それで一年はしのげたが、一年たってもいい就職先はなかった。そして、日本学術振興会の奨学金は打ち切られた。
艱難辛苦とはこのことだが、明けない夜はないことを正臣は大学受験浪人の経験で知っていた。そして、
(あの時、母親の誤解により最愛の人と別れさせられたことに比べたら、こんなことは何ということはない)
と自分に言い聞かせた。
(チャンスは太陽と同様に、どんな人にも均等にめぐって来る。大切なのは、それをものにするかどうかだ)
正臣は日ごろからそう思っていた。
正臣は生活費を稼ぐために、非鉄製錬会社の委託研究員になった。
それと並行して、私立大学の非常勤講師をした。
『若い時の苦労は買ってでもせよ』と言われるが、この時の苦労がまさにそれであった。
非鉄製錬会社の委託研究は、製錬所の現場で問題になっていることについて大学で検討し、その結果を製錬所に行って報告するというものであった。
その頃、製錬所ではボイラートラブルという熱交換機に溜まるダストが問題になっていた。それが何であるかはエックス線回折で分かるが、その形態が温度や雰囲気によってどう変わるかを予想することは困難であった。
正臣は熱力学を用いてポテンシャルダイグラムを作ることにより、ダストの形態を予想できることを明らかにした。その結果、製錬所の困り者であったボイラーダストを金属資源として利用することが可能になった。
その他にも製錬所の現場で問題になっていることを数多く知り、正臣は問題解決の手立てを身に着けることができた。
正臣が研究結果を報告するために製錬所に行った時に製錬会社が用意してくれた正臣の宿は、初めの内は製錬所の独身寮だったが、やがて旅館になり、一年たった頃には、「浜御殿」と呼ばれていた製錬所の迎賓館に変わっていた。
オーバードクターの二年目が終わるその頃、正臣と真理子の間に長女の由希が誕生した。
真理子は由希を出産費用が安い九大病院で産んだが、真理子の母親と一緒にお祝いに来た真理子の叔母は由希を抱いて、
「まあ、可愛い。河村さんにそっくり」
と言った後、真理子の母親に、
「真理子ちゃんに似てなくて、本当に良かったね」
と言った。
真理子のお母さんは、自分の姉のその言葉に返す言葉が見つからないようであった。
その頃正臣は、国立大学の助手に採用されることが決まった。
その大学は、熊本大学であった。
「私と由希も、あなたに付いて熊本に行ってもいい?」
と、真理子が生まれたばかりの由希を抱いて聞くので、正臣は、
「そんなこと、当たり前だろう」
と答えた。そして正臣は、
(これでやっと、窓の隙間から小雪が舞い込むオンボロアパートから出られる)
と思った。
正臣は熊大に赴任する一週間前に、九大の先生方にあいさつ回りをした。
最後に正臣は、当時九大の助手をしていた村川先輩の部屋に行った。
「村川先生、今まで本当にお世話になりました。これからもいろんなことを教えてください」
正臣がそう言うと、村川先輩は、
「河村に教えることなんて、もう何一つないよ」
と言って下さった。
結果的に正臣は、九工大から九大そして熊大と、金属に関する学科がある九州内のすべての大学を回ることになったのである。
異なった大学の研究の仕方を学ぶことなど、なかなかできないことである。正臣がそれまでに四つ研究室を変わって、様々な研究手法を身に付けることができたのは、すべて縁によるものであった。
その上、非鉄製錬会社の現場の問題点を知り、その会社の人達との人脈ができたこと、さらには非常勤講師をした私立大学の教授法・・・
自分では意識しない間に正臣は、一つの大学しか知らない大学人には太刀打ちできない力を身に付けていたのである。
熊本大学の助手になった正臣は、家族三人で熊本の公務員宿舎に入居した。福岡にいた時に借りていたアパートの家賃が月に三万円だったのに対して、その公務員宿舎は部屋が一つ多いにも関わらず、家賃は月に二千五百円だった。東京の公務員宿舎が民間の賃貸しアパートに比べて安すぎると問題視されることがあるが、当時の公務員宿舎の家賃は、その立地条件や部屋の広さではなく、築年数で決まっていた。
正臣たちが入居した熊本の宿舎は、日本で最初にできた鉄筋コンクリート製の公務員宿舎だったので、民間アパートの十分の一以下の家賃で住めたのである。
正臣の最初の手取りは、『日本学術振興会奨励研究員』の奨学金で噂されていた通り、奨学金と同額の月に十三万円だった。しかしそれは、共済年金や共済保険等の社会保障費、所得税や住民税などの税金、現在の「積み立てNISA」に相当する財形年金と財形貯蓄そして宿舎の家賃などをすべて差し引いたものであった。
詳しく計算してみると、文部科学省は手取りの十三万円とほぼ同額を正臣とその家族の社会保障や積み立て年金のために国に払っていることが分かった。
正臣は正規の大学教官になることで、手取りは同じでも実質的な収入は二倍になったのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます