第16話 助手
プチ誘拐
正臣たちが熊本に転居したその年の七月、真理子が九大に勤務していた時の友人が二人、熊本に遊びに来た。
その一人は井原安奈で、もう一人は九大の隣の研究室で秘書をしていた林さんであった。二人は、生後四か月になる由希を見に来たのだった。
正臣と真理子は由希を連れて、熊本駅前広場で二人に会った。
真理子が抱いていた由希の顔を林さんが覗き込み、
「河村さんにそっくり」
と言った。そして林さんは真理子から由希を受け取って腕に抱き、
「河村さんを抱っこしているみたいで気持ち悪い」
と言った。
安奈が、
「私にも抱かせて」
と言ったので、林さんは由希を安奈に渡した。
安奈は由希を腕に抱くと、次のように言った。
「いいねえ古山さん、河村さんの子供が産めて。この子は私が産みたかった」
そこまではよかったが、
次に安奈は、
「ちゃんと育てるから、この子を私に頂戴」
と言って由希を胸に抱きかかえた。
真理子は、
「あんたなんかには、絶対に上げないから」
と言った。
林さんは、正臣たちの三角関係を知っていたので、
「そういう話は、もうやめて」
と言った。
すると安奈は、由希を抱いて熊本駅の方に走り出した。
正臣は後を追ったが、安奈は熊本駅の改札を走り抜け、鹿児島行きの特急電車に飛び乗った。
正臣も改札を走り抜けた。後ろで真理子の絶叫が聞こえた。
「電車、止めてください!」
正臣の大声に、少し動き出していた電車が止まった。
「すみません、ごめんなさい」
正臣はそう言って、電車のドアを開けてもらって、車内に入った。
正臣は、由希を抱いている安奈を見つけて電車から降ろした。すると電車は、すぐに走り出した。
熊本駅の駅員さんは、赤ん坊を抱いている安奈と正臣を見て、痴話げんかと思ったようで、
「ほとんど遅れは出ていませんので、事情聴取は結構です。でも、こんなことは二度としちゃいけませんよ」
と言って、二人(由希を含めると三人)を解放してくれた。
正臣は安奈から由希を取り上げて、安奈と一緒に改札を出た。
正臣が由希を真理子に抱かせると、真理子は由希に頬ずりをして安堵の表情を浮かべた。
真理子と林さんは、正臣と安奈を熊本駅前広場で二人だけにしてくれた。
それは林さんが、
「これは、河村さんと井原さんの二人で解決しないといけない問題だから」
と真理子に言ったためであった。
真理子も由希を取り返したので、これを警察沙汰にしようとは思っていなかった。
「ごめんなさい」
そう言って泣き出した安奈に正臣は、
「僕が悪かった。おまえの気持ちが分かっていたのに、古山さんと結婚して」
「ううん、私があんな事をしたから」
安奈は、本当の責任は自分にあることを自覚していた。
「おまえ、由希をどうするつもりだった?」
と正臣が聞くと安奈は、
「あなたの子供だから、私が育てたかった」
と言った。
正臣は、
「おまえがどこかに隠れて由希を育てたら、由希はおまえが本当のお母さんだと思うようになるだろう。でも、おまえは犯罪者になってしまう。
俺は大好きなおまえを犯罪者にしたくないよ。
おまえのことを愛してくれる男がきっと現れるから、俺のことはもう忘れて・・・いや、そんな男が現れようが現れまいが、俺は生まれ変わったら、必ずおまえと結婚するから」
と言った。
すると、安奈は、
「何に生まれ変わっても、あなたは私のことが分かるかしら?」
と聞いてきた。
正臣は、
「何に生まれ変わっても、俺はおまえを必ず見つけ出す」
と言った。
それが正臣と安奈の最後の会話になった。
正臣は、
(「生まれ変わったら、おまえと一緒になる」・・・同じようなことを俺は、これまでに何人の女に言ったかな?
そしてそれを実行するために、俺は何回生まれ変わらなければならないか・・・・少なくとも十回? 十五回? いや、もっとかな?)
と思った。
そして正臣は、
(本当に生まれ変われるとしても、ゴキブリにだけは生まれ変わりたくないな)
と思った。
正臣が熊大の助手になって新たに始めた研究は、湿式製錬という水溶液を使って金属を造る研究だった。
正臣は熊大に赴任する前は、高炉内の還元反応や自溶炉や転炉といった1700 ℃に近い炉内での化学反応について研究していた。それが水溶液中での化学反応の研究に変わったのである。
専門的に言うと、正臣は、鉄鋼製錬、非鉄製錬、乾式製錬、湿式製錬という製錬化学のすべての分野の研究に関わるようになったのである。
銅は高温の炉を使って造るよりも、酸化銅の鉱石があれば、これを硫酸に溶かして硫酸銅の水溶液を作り、直流電解でカソードに銅を析出させて造る方が安く上がることがある。
問題は、目的金属の回収を妨げる不純物を如何にして取り除くかである。
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