第9話 助手になりたての頃の出来事

                プチ誘拐


 正臣たちが熊本に転居したその年の七月、真理子が九大に勤務していた時の友人が二人、熊本に遊びに来た。その一人は井原安奈で、もう一人は九大の隣の研究室で秘書をしていた林さんであった。二人は、生後四か月になる由希を見に来たのだった。

 正臣と真理子は由希を連れて、熊本駅前広場で二人に会った。

 真理子が抱いていた由希の顔を林さんが覗き込み、

「河村さんにそっくり」

 と言った。そして林さんは真理子から由希を受け取って腕に抱き、

「河村さんを抱っこしているみたいで気持ち悪い」

 と言った。安奈が、

「私にも抱っこさせて」

 と言ったので、林さんは由希を安奈に渡した。

 安奈は由希を腕に抱くと、次のように言った。

「いいねえ古山さん、河村さんの子供が産めて。この子は私が産みたかった」

 そこまではよかったが、次に安奈は、

「ちゃんと育てるから、この子を私に頂戴」

 と言って由希を胸に抱きかかえた。真理子は、

「あんたなんかには、絶対に上げないから」

 と言った。林さんは、正臣たちの三角関係を知っていたので、

「そういう話は、もうやめて」

 と言った。すると安奈は、由希を抱いて熊本駅の方に走り出した。

 正臣は後を追ったが、安奈は熊本駅の改札を走り抜け、鹿児島行きの特急電車に飛び乗った。

 正臣も改札を走り抜けた。後ろで真理子の絶叫が聞こえた。

「電車、止めてください!」

 正臣の大声に、少し動き出していた電車が止まった。

「すみません、ごめんなさい」

 正臣はそう言って、電車のドアを開けてもらって、車内に入った。そして、由希を抱いている安奈を見つけて、電車から降ろした。すると電車は、すぐに走り出した。

 熊本駅の駅員さんは、赤ん坊を抱いている安奈と正臣を見て、痴話げんかと思ったようで、

「ほとんど遅れは出ていませんので、事情聴取は結構です。でも、こんなことは二度としちゃいけませんよ」

 と言って、二人(由希を含めると三人)を解放してくれた。

 正臣は安奈から由希を取り上げて、安奈と一緒に改札を出た。

 正臣が由希を真理子に抱かせると、真理子は由希に頬ずりをして安堵の表情を浮かべた。

 真理子と林さんは、正臣と安奈を熊本駅前広場で二人だけにしてくれた。

 それは林さんが、

「これは、河村さんと井原さんの二人で解決しないといけない問題だから」

 と真理子に言ったためであった。

 真理子も由希を取り返したので、これを警察沙汰にしようとは思っていなかった。


「ごめんなさい」

 そう言って泣き出した安奈に正臣は、

「僕が悪かった。おまえの気持ちが分かっていたのに、古山さんと結婚して」

「ううん、私があんな事をしたから」 

 安奈は、本当の責任は自分にあることを自覚していた。

「おまえ、由希をどうするつもりだった?」

 と正臣が聞くと安奈は、

「あなたの子供だから、私が育てたかった」

 と言った。正臣は、

「おまえがどこかに隠れて由希を育てたら、由希はおまえが本当のお母さんだと思うようになるだろう。でも、おまえは犯罪者になってしまう。俺は大好きなおまえを犯罪者なんかにしたくないよ。俺よりおまえのことを愛してくれる男がきっと現れるから、俺のことはもう忘れて・・・いや、そんな男が現れようが現れまいが、俺は生まれ変わったら、必ずおまえと結婚するから」

 正臣がそう言うと、

「何に生まれ変わっても、本当にあなたは私のことが分かるかしら?」

 安奈がそう聞くので、正臣は、

「何に生まれ変わっても、俺はきっとおまえを見つけ出す」

 と言った。

 それが正臣と安奈の現世での最後の会話になった。

 正臣は、

(「生まれ変わったら、おまえと一緒になる」・・・同じようなことを俺は、これまでに何人の女に言ったかな? そしてそれを実行するために、俺は何回生まれ変わらなければならないか・・・少なくとも十回? 十五回? いや、もっとかな?)

 と思った。そして、

(本当に生まれ変われるとしても、ゴキブリにだけは生まれ変わりたくないな)

 と思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る