第17話 助教授

              大学での仕事


 正臣の仕事ぶりは熊本大学でも評判になり、助手として採用されて二年も経たない内に、正臣は講師を飛び越して助教授になった。

 

 正臣が助教授になった時に持っていた査読付きの論文数は、その時点で熊本大学に在籍していたどの教授の発表論文数よりも多かったのである。

 

 その年、正臣と真理子夫婦は、長男のたけるを授かった。


 

 真理子の内助の功は、何といっても『きれいな字』で、科研費(科学研究費助成金)などの研究資金の申請書を書くことだった。

 

 ワープロがある現在では考えられないが、正臣のミミズがはったような字では読んでもらえない申請書も、真理子の綺麗な字で書かれたものは好評だった。

 パソコンのワープロができた後も、正臣は二、三年、真理子に特別予算の申請書を書いてもらった。

 

 内容は二の次にしても、その「字」のおかげで、正臣は何年か連続して科研費などの特別予算をもらうことができた。


 同じ学科の西村助教授から、

「河村さんはいいですね、家に科研費が獲れるワープロがいて」

 と言われたので、正臣は、

「僕の持っているワープロは時々、『美味しいものを食べに連れてって』と言うのですよ」

 と愚痴ぐちをこぼすふりをして、自分のカミさんのことを自慢した。


 

 その当時の正臣の研究は、低品位酸化鉱や海底鉱物資源からの金属回収であった。「銅の鉱石はあと三十年分しかない」と言われて三十年経っても、「銅の鉱石はあと三十年分しかない」と言われるのは、一部は新たな鉱山開発によるものであるが、大部分は、目的金属の含有量がより少ない鉱石から目的金属を回収する方法が常に研究開発されているからである。

 

 やがて正臣に留学のチャンスが訪れた。


 正臣は文部科学省からもらう基本給の他に留学先の大学が滞在費と研究費を出してくれるポスト・ドクトラル・フェロー(博士研究員)として、非鉄製錬学者の登竜門と言われていたカナダのトロント大学に留学した。 


(大学の先生や研究者には給料の二重取りみたいな、そんないいことがあるのか?)

 と思う人がいるかもしれないが、それができるかどうか(海外の大学に招かれるかどうか)がその人の実力を測るバロメーターで、教授になれるかどうかの分岐点になるのである。

 そういった研究者の中には、そのまま留学先の大学に就職する人もいる。

 

 その留学に正臣は、一歳になったばかりの健を含めて家族四人で行った。


 九州大学の森田先生がドイツのアーヘン工科大学に留学した時、森田先生は単身でドイツに渡っていた。そして森田先生は、ドイツの舞姫まいひめ(踊り子さん)がたくさんいる赤い飾り窓があるお店のことを正臣に話したことがあった。

 それは、奥さんの目が届かない海外での女遊びのことであった。

 

 森田先生は留学が決まった正臣に、

「嫁さんを連れて海外留学するのは、レストランに弁当を持って行くようなものだ」

 と言って正臣を馬鹿にしたが、すかさず正臣は、

「いつも食べている弁当持参なら、食中毒や食あたりをせずに済みますよ」

 とやり返した。


 カナダに留学した時、トロント大学は週休二日制だったので、正臣は毎週にように家族サービスをした。

 

 二週間の夏休みにはレンタカーを借りて、正臣は家族と一緒にカナダの東海岸から西海岸までカナダ横断の旅をした。

 まずはトロントから車を飛ばして、真理子が好きな「赤毛のアン」の舞台であったプリンス・エドワード島に行った。

 

 正臣家族の夏休みの旅はどんな旅だったかというと、泊っているモーテルで前の日に買っておいたフランクフルトとパン(朝食)を食べると、朝から車を五百キロ走らせて、次の目的の町に行く。

 目的地に着いたら、そこでモーテルか民宿を探して荷物を預け、それからその町を観光するというやり方をした。

 夕方になっても泊るところが見つからない時は、娘の由希が不安そうな顔をした。

 

 レンタカーの旅は楽しさ満点だった。高速道路はフリーウエイというだけあって、道路はすべて無料だった。そのお陰で、このような旅ができたのである。

 

 ノバスコシアで民宿に泊まった時は、

「日本人を泊めたのは、初めてよ」

 と言って、民宿のおじいさんとおばあさんは、正臣一家を歓待してくれた。

 それどころか、現地の人から、『日本人を初めて見た』と言われた町もあった。

 

 州によってはフランス語圏もあったが、真理子はフランス語を専攻していたので、不自由はしなかった。

 

 その家族旅行でのレンタカーの走行距離は六千キロで、夏休みの二週間だけで、日本で一年間に車を転がすくらいの距離を走った。

 

 秋になって行ったアルゴンキンパークでは、健が大きな飴をのどに詰まらせて苦しみだした。

 正臣が健の両足を持って真っ逆さまにして真理子が健の背中をたたくと、健の口から飴が飛び出して、健は元気よく泣き出した。

 話には聞いていたが、子供が何かを喉に詰まらせた時の処置法がうまくいって、正臣はホッとした。

 

 その留学で正臣は家族サービスばかりしていたのではなく、「酸化ニッケル鉱の被還元性に関する研究」を行い、マテ・トラ(マテリアル・トランザクション)に論文を発表した。


 

 その留学から帰ると正臣は、鉱石から金属を製造する時に出る廃棄物の適正処理や金属のリサイクルに関する研究を始めた。

 大学での講義や研究、学生実験や学生指導の他、学内での雑用にも正臣は全力で取り組んだ。

 

 大学の執行部からどんなに困難な指令が出ても正臣は、

(僕は母親の誤解により最愛の人と別れさせられた。それに比べると、こんなことは何でもない)

 と思って、その問題を解決した。

 

 例えば正臣は、『短期交換留学している学生が、国交がほとんどない留学先で事故死した。その遺体を引き取りに行ってくれ』と、学長から直々に頼まれたことがあった。

 当時は、「エンジェルフライト」などのチームはなく、これを正臣はたった一人でやらなければならなかった。

 この時はさすがに家を出る時に膝がガクガク震えたが、正臣は子どもの頃から勉強して身に付けていた語学力を駆使して、下手をすれば国際問題になりかねないその問題を解決した。

 

 センター試験の出題委員を引き受けた時は二年間、月に一度の割合で丸々一週間、正臣は鎌倉の実家から駒場にあるセンター試験出題センターに通勤した。そして二年目のセンター試験が終わった次の日の夜中に関西淡路大震災が起こった。

 

 センター試験本番の日、出題委員は受験生の質問に答えるために駒場の出題センターに詰めるが、正臣が出題した問題には質問は出なかった。

 そしてセンター試験が終わった次の日の夜中に大震災が起こったが、センター試験については回答用紙の出題センターへの輸送が終わっていたので、何も問題は起こらなかった。

 

 ひと月の内の三週間を熊本大学での講義や研究に費やし、一週間を駒場でセンター試験作成のために使うという過酷なその業務が終わると、正臣は四十そこそこで教授になった。

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