第10話 助教授~教授 

             大学での仕事


 正臣が熊大の助手になって新たに始めた研究は、湿式製錬という水溶液を使って金属を造る研究だった。正臣は熊大に赴任する前は、高炉内の還元反応や自溶炉や転炉といった1700 ℃に近い炉内での化学反応について研究していた。それが水溶液中での化学反応の研究に変わったのである。

 銅は高温の炉を使って造るよりも、酸化銅の鉱石があれば、これを硫酸に溶かして硫酸銅の水溶液を作り、直流電解でカソードに銅を析出させて造る方が安く上がることがある。問題は、目的金属の回収を妨げる不純物を如何にして取り除くかである。

 正臣の仕事ぶりは熊大でも評判になり、助手として採用されて二年も経たない内に正臣は講師を飛び越して助教授になった。そして、正臣と真理子夫婦は長男のたけるを授かった。

 その当時の正臣の研究は、低品位酸化鉱や海底鉱物資源からの金属回収であった。「銅の鉱石はあと三十年分しかない」と言われて三十年経っても、「銅の鉱石はあと三十年分しかない」と言われるのは、一部は新たな鉱山開発によるものであるが、目的金属の含有量がより少ない鉱石から目的金属を回収する方法が常に研究開発されているからである。

 

 やがて正臣に留学のチャンスが訪れた。

 正臣は文部科学省からもらう基本給の他に留学先の大学が滞在費と研究費を出してくれるポスト・ドクトラル・フェロー(博士研究員)として、非鉄製錬学者の登竜門と言われていたカナダのトロント大学に留学した。 

(大学の先生や研究者には給料の二重取りみたいな、そんないいことがあるのか?)

 と思う人がいるかもしれないが、それができるかどうか(海外の大学から呼ばれるかどうか)がその人の実力を測るバロメーターで、教授になれるかどうかの分岐点になるのである。そういった研究者の中には、そのまま留学先の大学に就職する者もいる。

 その留学に正臣は、一歳になったばかりの健を含めて家族四人で行った。

 九州大学の森田先生はドイツのアーヘン工科大学に留学した経験があったが、森田先生は単身でドイツに渡っていた。そしてドイツの舞姫まいひめ(踊り子さん)がたくさんいる赤い飾り窓があるお店のことを正臣に話してくれたことがあった。それは、奥さんの目が届かない海外での女遊びのことであった。

 森田先生は留学が決まった正臣に、

「嫁さんを連れて海外留学するのは、レストランに弁当を持って行くようなものだ」

 と言って正臣を馬鹿にしたが、すかさず正臣は、

「でも、いつも食べている弁当持参なら、食中毒や食あたりをせずに済みますよ」

 とやり返した。


 カナダに留学した時、トロント大学は週休二日制だったので、正臣は毎週にように家族サービスをした。

 二週間の夏休みにはレンタカーを借りて、正臣は家族と一緒にカナダの東海岸から西海岸までカナダ横断の旅をした。まずはトロントから車を飛ばして、真理子が好きな「赤毛のアン」の舞台であったプリンス・エドワード島に行った。

 正臣家族の夏休みの旅はどんな旅だったかというと、泊っているモーテルで前の日に買っておいたフランクフルトとパンを食べると、朝から車を五百キロ走らせて、次の目的の町に行く。目的地に着いたら、モーテルか民宿を探して荷物を預け、それからその町を観光するというやり方をした。夕方になっても泊るところが見つからない時は、由希が不安そうな顔をした。

 レンタカーの旅は楽しさ満点だった。その点、高速道路はフリーウエイというだけあって、道路はすべて無料だった。そのお陰で、このような旅ができたのである。

 ノバスコシアで民宿に泊まった時は、

「日本人を泊めたのは、初めてよ」

 と言って、民宿のおじいさんとおばあさんは、正臣一家を歓待してくれた。

その家族旅行でのレンタカーの走行距離は六千キロで、夏休みの二週間だけで、日本で一年間に車を転がすくらいの距離を走った。

 秋になって行ったアルゴンキンパークでは、健が大きな飴をのどに詰まらせて苦しみだした。正臣が健の両足を持って真っ逆さまにして真理子が健の背中をたたくと、健の口から飴が飛び出して、健は元気よく泣き出した。話には聞いていたが、子供が何かを喉に詰まらせた時の処置法がうまくいって、正臣はホッとした。

 その留学で正臣は家族サービスばかりしていたのではなく、「酸化ニッケル鉱の被還元性に関する研究」を行い、マテ・トラ(マテリアル・トランザクション)に論文を投稿した。


 その留学から帰ると正臣は、鉱石から金属を製造する時に出る廃棄物の適正処理や金属のリサイクルに関する研究を開始した。

 大学での講義や研究、学生指導の他、学内での雑用にも正臣は全力で取り組んだ。

 大学の執行部からどんなに困難な指令が出ても正臣は、

(僕は母親の誤解により最愛の人と別れさせられた。それに比べるとこんなことは何でもない)

 と思って、その問題を解決した。

 例えば正臣は、『短期交換留学している学生が、国交がほとんどない留学先で事故死した。その遺体を引き取りに行ってくれ』と、学長から直々に頼まれたことがあった。これは今から四十年近く昔の話で、「エンジェルフライト」どころではなく、これを正臣はたった一人でやらなければならなかった。この時はさすがに家を出る時に膝がガクガク震えたが、正臣は女の子にもてたい一心で勉強して身に付けた語学力を駆使して、下手をすれば国際問題になりかねないその問題を解決した。

 

 センター試験の出題委員を引き受けた時は二年間、月に一度の割合で丸々一週間、正臣は鎌倉の実家から駒場にある出題センターに通勤した。そして二年目のセンター試験が終わった夜に関西淡路大震災が起こった。

 センター試験本番の日、出題委員は受験生の質問に答えるために駒場の出題センターに詰めるが、正臣が出題した問題には質問が出なかった。そしてセンター試験が終わった夜に大震災が起こったが、センター試験については回答用紙の出題センターへの輸送が終わっていたので、何も問題は起こらなかった。

 ひと月の内の三週間を熊本大学での講義や研究に費やし、一週間を駒場でセンター試験作成のために使うという過酷なその業務が終わると、正臣は四十そこそこで教授になった。


 国立大学の教授になると食うに困ることはないので、正臣は社会の役には立つがお金にならない研究に没頭した。正臣は助教授時代からやっていた金属のリサイクルや廃棄物処理に加えて、重金属による環境汚染を防止する研究を始めたのである。

 正臣はその頃には、『北九州の若松出身で金属製錬やリサイクルの研究をしている熊本大学の教授』として、専門家の間では知らない人はいないという存在になっていた。

 誰が好き好んで、ヒ素や水銀や鉛や六価クロムといった人体に有害な元素を取り扱うであろうか。しかし正臣は、あえてそれをライフワークにした。

 なぜかというと、そんなヤバい元素を研究する人は世界中を探してもそれほど多くないので、すぐに日本一になれるからであった。そして正臣が公害防止に関する研究をしたのは、若松東高の三年二組にいた三人の初恋の人達に、

「河村君は何年たっても、あの頃の 生き方を忘れていないのね」

 と思われたいためであった。

 目的とする金属の含有量が少ない原料から如何にしてその金属を溶け出させるかという研究をしていた正臣にとって、有害な重金属を含んだ廃棄物から如何にしてその重金属を溶け出なくするか、すなわち固定するかは、『溶け出させる』の逆をやるだけなので、正臣はすぐにそのやり方を思い付いた。

 その頃は、環境汚染が問題になり始めた時期だったので、正臣の研究は日本中で注目された。そして正臣は、金属鉱業事業団や国際協力機構の公害防止や廃棄物処理に関する仕事をすることが多くなった。

 

 またその頃、水質基準と排水基準が一桁強化された。排水基準(工場から排出してもいいという水の基準)がそれまでの水質基準(人が飲んでもいいという水の基準)と同じ値になったのである。すなわち、工場や製鉄所や製錬所は、人が飲むことができる水しか敷地の外に出してはいけないことになったのである。

 さらに、水質基準が一桁厳しくなったので、それまで健康にいいとされていた水が飲めなくなる事例がいくつも起こった。

 例えば、平成十二年までは飲めていた温泉の水がその二年後に飲めなくなったのはヒ素のためである。これは温泉に溶け込んでいるヒ素の量が増えた訳ではなく、飲み水のヒ素の規制値が 0.1 ppm( ppmは百万分の一の濃度なので、0.1 ppmを換算すると一千万分の一)から 0.01 ppm(換算すると一億分の一)に変わったためである。

 これはWHOの基準そのものであるが、これがどれくらい厳しい基準であるか、質量比を人口比に変えて説明すると次のようになる。

『人口が一億人の国に悪い奴が一人でもいたら、その国は悪い国なので渡航を禁止する』と言っているようなものである。

 太古の昔から健康にいいとされて飲まれていたものが飲めなくなる・・・これは完全に数字の一人歩きだが、公害防止学者がそんな言い訳をする訳にはいかないので、正臣はその対処法を研究した。

 廃棄物から溶け出す有害元素の濃度も水質基準を満たさなければならないというのが一般的である。廃棄物を純水と一緒にシェーカーに入れて、そのシェーカーを専用の機械で激しく振とうさせ、その水に溶け出してくる有害元素の濃度を飲み水の中に入っているものより少なくするという、一見不可能なことをしなければならなくなった。

(あの時、母親の誤解により最愛の人と別れさせられたことに比べたら、こんなことは何ということはない)

 正臣はそう思って、一見不可能と思われるような研究課題にも全力で取り組み、突破したのである。正臣にそれができたのは、正臣の研究室に配属された学生や大学院生達の地道な実験によるものであった。そのため正臣は、研究室の学生達を大切にした。

 

 正臣は、中学三年の時に真樹が言った、『あの煙や水を何とかしてほしい』と言う願いを叶え、重金属による公害を防止する研究分野で日本一になったのである。

 正臣は国内のみならず、海外の公害防止設備の立ち上げにも協力した。日本の発展途上国援助で、日本のプラントメーカーが海外の公害防止設備を建造するときの国のアドバイザー委員を何件か引き受けた。そして完成した設備の竣工式に出かけることもあった。

 そのような出張が決まると正臣は、現地の言葉で挨拶ができるようにするために該当地域の『地球の歩き方』を買い、イエローカード(国際予防接種証明書)の期限が切れていないかどうかの確認と予防接種を済ませ、変圧器の用意をした。

 発展途上国に行く時に一番大切な持ち物は、現地の水を飲んでも病気にならないようにするための殺菌剤である。正臣は、大学の研究室にある次亜塩素酸ナトリウムを純水で希釈して1%水溶液を作った。コップ一杯の水に対してこの殺菌剤を二、三滴滴下して少し置くと、どこの国の水を飲んでもお腹をこわさなくなる。

 そんな出国の準備が整うと、正臣は真理子に、『また悲境に行く』と告げた。

「チリの山奥の製錬所に行く」

「万里の長城が海に入っていくさまが見える、中国のコロトー市にある亜鉛製錬所の排水処理設備の竣工式に招かれた」

「今度は南アフリカのガボンだ」

 その外、インドネシア、ベトナム、タイ、ペルー、ザイール・・・

 その度に真理子は、

「行ってらっしゃい、あなた。世界があなたを待っているわ」

 と言って正臣を送り出してくれた。

 正臣は自分も知らない間に、子供の頃の夢であった『世界を救う博士』になっていたのである。

 正臣が小さな町の金持ちのボンボンで終わらなかったのは、高校時代の三人の初恋の人との出会いと別れがあったからに外ならなかった。

 しかし正臣は今でも時々、あの三人の内の誰かと結婚したかったなと思うことがある。


 綾にしき何をか惜しむ 惜しめただ君若き日を

 いざや折れ花よかりせば ためらわば折りて花なし


 後悔先に立たず

 


 これはフィクションであり、実在する個人や団体とはいっさい関係ありません。



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青春の軌跡 マッシー @masayasu-kawahara

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