第18話 教授
公害防止
国立大学の教授になると食うに困ることはないので、正臣は社会の役には立つがお金にならない研究に没頭した。正臣は助教授時代からやっていた金属のリサイクルや廃棄物処理に加えて、重金属による環境汚染を防止する研究を始めた。
正臣はその頃には、『北九州の若松出身で金属製錬やリサイクルの研究をしている大学教授』として専門家の間では知らない人はいないという存在になっていた。
誰が好き好んで、ヒ素や水銀や鉛や六価クロムといった人体に有害な元素を取り扱うであろうか。しかし正臣は、あえてそれをライフワークにした。
なぜかというと、そんなヤバい元素を研究する人は世界中を探してもそれほど多くないので、すぐに日本一になれるからであった。
そして正臣が公害防止に関する研究をしたのは、若松東高の三年二組にいた三人の初恋の人達に、
「河村君は何年たっても、あの頃の 生き方を忘れていないのね」
と思われたいためであった。
目的とする金属の含有量が少ない原料から如何にしてその金属を溶け出させるかという研究をしていた正臣にとって、有害な重金属を含んだ廃棄物から如何にしてその重金属を溶け出なくするか、すなわち固定するかは、『溶け出させる』の逆をやるだけなので、正臣はすぐにそのやり方を思い付いた。
その頃は、海外でも環境汚染が問題になり始めた時期だったので、正臣の「ヒ素や鉛による環境汚染」に関する研究は、世界中から注目された。
そして正臣は、金属鉱業事業団や国際協力機構、JOGMECやNEDOの公害防止や廃棄物処理に関する仕事をすることが多くなった。
またその頃、水質基準と排水基準が一桁強化された。
排水基準(工場から排出してもいいという水の基準)がそれまでの水質基準(人が飲んでもいいという水の基準)と同じ値になったのである。
すなわち、工場や製鉄所や製錬所は、人が飲むことができる水しか外に出してはいけないことになったのである。
さらに、水質基準が一桁厳しくなったので、それまで健康にいいとされていた水が飲めなくなる事例がいくつも起こった。
例えば、平成十二年まで飲めていた温泉の水がその二年後に飲めなくなったのは、ヒ素のためである。
これは温泉に溶け込んでいるヒ素の量が増えた訳ではなく、飲み水のヒ素の規制値が 0.1 ppm( ppmは百万分の一の濃度なので、0.1 ppmを換算すると一千万分の一)から 0.01 ppm(換算すると、一億分の一)に変わったためである。
これはWHOの基準そのものであるが、これがどれくらい厳しい基準であるか、質量比を人口比に変えて説明すると次のようになる。
『人口が一億人の国に悪い奴が一人でもいたら、その国は悪い国なので渡航を禁止する(行ってはいけない)』
と言っているようなものである。
太古の昔から健康にいいとされて飲まれていたものが飲めなくなる・・・これは完全に数字の一人歩きだが、公害防止学者がそんな言い訳をする訳にはいかないので、正臣はその対処法を研究した。
廃棄物から溶け出す有害元素の濃度も水質基準を満たさなければならないというのが一般的である。
廃棄物を純水と一緒にシェーカーに入れて、そのシェーカーを専用の機械で激しく振とうさせ、水に溶け出してくる有害元素の濃度を飲み水の中に入っているものより少なくするという、一見不可能なことをしなければならなくなった。
(あの時、母親の誤解により最愛の人と別れさせられたことに比べたら、こんなことは何ということはない)
正臣はそう思って、一見不可能と思われるような研究課題にも全力で取り組み、突破したのである。
正臣にそれができたのは、正臣の研究室に配属された学生や大学院生たちの地道な実験によるものであった。そのため正臣は、研究室の学生たちを大切にした。
正臣は中学三年の時に真樹が言った、『あの煙や水を何とかしてほしい』と言う願いを叶え、重金属による公害を防止する研究分野で日本一になったのである。
正臣は国内のみならず、海外の公害防止設備の設置と立ち上げにも協力した。
日本の発展途上国援助で、日本のプラントメーカーが海外の公害防止設備を建造するときの国のアドバイザー委員を何件か引き受けた。そして完成した設備の竣工式に出かけることもあった。
そのような出張が決まると正臣は、現地の言葉で挨拶ができるように該当地域の『地球の歩き方』を買い、イエローカード(国際予防接種証明書)の期限が切れていないかどうかの確認と予防接種を済ませ、変圧器の用意をした。
発展途上国に行く時に一番大切な持ち物は、現地の水を飲んでも病気にならないようにするための殺菌剤である。
正臣は、大学の研究室にある次亜塩素酸ナトリウムを純水で希釈して1%水溶液を作った。コップ一杯の水に対してこの殺菌剤を二、三滴滴下して少し置くと、どこの国の水を飲んでもお腹をこわさなくなる。
そんな出国の準備が整うと、正臣は真理子に、『また秘境に行く』と告げた。
「チリのベンタナス製錬所に行く」
「万里の長城が海に入っていくのが見える、中国のコロトー市にある亜鉛製錬所の排水処理設備の竣工式に招かれた」
「今度は南アフリカのガボンだ」
その外、インドネシア、ペルー、ザイール、南アフリカ共和国・・・
正臣は、日本の産業がその地の鉱物資源に依存している割合が高い国の公害防止のほとんどすべてに関わったと言っても過言ではなかった。
その度に真理子は、
「行ってらっしゃい、あなた。世界があなたを待っているわ」
と言って正臣を送り出してくれた。
正臣は自分も知らない間に、子供の頃の夢であった『世界を救う博士』になっていたのである。
正臣が小さな町の金持ちのボンボンで終わらなかったのは、高校時代の三人の初恋の人との出会いと別れがあったからに外ならなかった。
しかしながら正臣は、今でも時々、あの三人の内の誰かと結婚したかったなと思うことがある。
綾にしき何をか惜しむ 惜しめただ君若き日を
いざや折れ花よかりせば ためらわば折りて花なし
後悔先に立たず
これはフィクションであり、実在する個人や団体とはいっさい関係ありません。
青春の軌跡 マッシー @masayasu-kawahara
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