第14話 博士課程3年
正臣は安奈に「もう会わない」と言ったが、学会のお世話や図書の貸し出しといった日常業務では、二人は少なくとも一週間に二度は会っていた。
正臣が安奈のいる事務室に行くと、安奈はいつも高校三年の時に真樹が見せたような表情で正臣を見つめていた。
安奈は人一倍実験に打ち込んで、研究発表をたくさんしている正臣のことを前にも増して好きになっていた。
そして安奈は、心の中で次のように思っていた。
(なぜ私はあの時、あなたを裏切るような、あんな馬鹿なことをしたのか自分でも分からない。でも、あなたの後輩の彼とは何もなかったのよ。あなたのためならどんなことでもするから、私を許してほしい)
九大にいる助手や大学院生の何人かが安奈に交際を申し込んでも、彼女は「私には好きな人がいる」と言って、誰の申し出も断っているという噂が流れていた。
正臣には、安奈が好きな男は自分だという自信があった。それは彼女が段カットの髪型を変えないことから判断された。
安奈に別れを告げたとはいえ、正臣も心の奥では彼女のことを愛しく思っていた。
昔のように誰にも内緒で会って、二人きりになったりしたなら、おそらく二人は激しく求め合って、結ばれていたと考えられる。
しかし、安奈に「おまえとは、もう会わない」と言ったからには、正臣は仕事以外で安奈に会ってはいけないと思い、安奈と二人きりになるのを避け続けた。
博士課程3年のクリスマスも正臣は恋人がいないまま、「一人で二交代」して実験する
地方の国立大学の教授になるためには査読付きの論文が十報あればいいという昭和五十年代に、正臣は博士課程の3年生の時点で査読付きの論文を八報持っていた。
その頃、正臣は若松に実家がある後輩の学生から、
「昔の近美小百合さんには、子供が二人いる」
という話を聞いた。
正臣は小百合が遠方に嫁いだことは人づてに聞いていた。
今回小百合の状況を正臣に話してくれた学生は、小百合の母親と
正臣は、
(僕はまだ社会に出ていないのに、あいつはもう二児の母か。僕の周りはあの時から時間が止まったままみたいだな)
と思った。
――― 真理子 ―――
正臣が狂ったように実験して得たデータを使って博士論文をまとめ終えた頃、またしても森田助教授が正臣に指令を出した。
「古山真理子は、柳教授が紹介した縁談まで断った。柳教授は、『どうしてこんなにいい話を断るのだろう』と言っていた。どうも古山さんには好きな男がいるみたいだから、それが誰か古山さんから聞き出してくれ」
これは難題だったが、やらざるを得ない案件であった。
正臣と古山さんは、同じ研究室のドクターの学生と事務員の間柄である。遠慮なんか必要ないので、正臣自身も古山さんに次のようにアドバイスしようと思っていた。
「古山さんは僕の一つ下だから、もうすぐ二十七だろう。その顔では高望みは不可能だから、自分の年と顔のことを自覚して、誰かと早く結婚した方がいいよ」
女性には失礼な言い方だが、真実ははっきり言った方がいいと正臣は思っていた。
(そう言えば古山さんは、いつも僕が学会に投稿する論文の清書をしてくれる。一度くらい食事をごちそうしてもバチは当たらないだろう)
そう思った正臣は真理子に、
「いつもお世話になっているから、夕食をごちそうするよ」
と言って、彼女と「海幸」に行った。
これが夕食ではなく昼食だったら、こんな間違いは起こらなかったであろう。
正臣は「海幸」で真理子に安い夕食をおごった後、その頃流行り始めたカラオケスナックに彼女を誘った。
正臣が真理子をスナックに誘ったのは、森田先生の
『古山さんから好きな男が誰か聞き出してくれ』
と言う依頼を果たすためであった。
真理子はお酒が飲めないが、正臣の面白い替え歌を聞きたいと思ったのか正臣に付き合ってくれた。
正臣が手始めに、西田佐知子が昔歌っていた『東京ブルース』を歌うと、真理子が言った。
「この歌みたいに私をだましているのなら、死ぬまでだましてよ。いい、死ぬまでだまさなかったら、承知しないからね!」
真理子の目には涙がいっぱい溜まっていた。
正臣の背筋に衝撃が走った。
(ええっ、古山さんが好きな男っていうのは、この俺か!)
「もう、帰ろう」
正臣は、できたばかりのコークハイにも手を付けずに勘定を済ませ、真理子と一緒に店を出た。そして真理子の涙をハンカチで拭いてやった。
真理子は、それまで誰にも見せたことがなかった甘える仕草で、正臣に涙を拭いてもらった。彼女の甘え方は、女性の扱いに慣れている正臣から見ると、いかにも下手であった。
だがそれは、真理子が男慣れしていないことを
正臣は真理子を西鉄天神駅まで送ると、間借りしていた箱崎の部屋に帰った。
部屋の中で正臣は、
(いままで女性を『顔』だけで評価していた俺は、なんて馬鹿だったんだ)
と思った。
(安月給でも身を粉にしてよく働いて、ボーナスや残業代も出ないのに、残業をいとわない。どんなにきつい仕事も、涙をこらえながら一生懸命最後までやる。あんなに字がきれいで、心優しく、言葉遣いも丁寧である。誰に対しても笑顔で対応して、好きな男が自分の後輩の若い娘と目の前でいちゃついても意地悪せずに、じっと我慢して・・・)
正臣はその夜の内に、古山真理子がこれまでに出会った女性の中で一番心がきれいな女性だと気が付いた。
彼女ができると必ず母親に連絡していた正臣が母親に電話で、
「好きな人ができた」
と伝えると、母親は彼女の名前も聞かずに、
「あなたがいいのなら、誰とでもいいから結婚しなさい」
と言った。
正臣の母親の変わりようは、正臣と無理やり別れさせた小百合のことがとんでもない誤解であったことを本当の友達に指摘され、
(正臣と小百合に取り返しがつかないことをした)
と自責の念を抱いていたためであった。
正臣の弟と妹はとっくの昔に結婚していて、残っているのは正臣一人だけだった。
それなのに、どんな縁談も正臣は受け付けなかった。
その上、九大に求人に行くのを兼ねて正臣の様子を見に行った正臣の父親の会社の人事の人たちから、
『お坊ちゃんは、気が狂ったみたいに研究に没頭しています』とか
『お坊ちゃんには、会社に入る気はまったくないようです』
と聞いていた正臣の母親は、
(これを逃したら、あの子は一生結婚しない)
と思ったようである。
真理子の出した結婚の条件は、
「浮気する時は、私にバレないようにして」
であった。
真理子は正臣の働きぶりや家庭環境をよく知っていたので、外に臨むものはないようであった。
『浮気をする時はバレないようにして、死ぬまでだます』
正臣は、これだったら自分にもできそうだと思った。そして、
『結婚したら、美人は三日で飽きるが、ブスは三日で慣れる』
と言われているので、正臣は真理子にプロポーズした。
真理子は、自分の結婚が決まったことを周りに
真理子は、安奈が正臣に恋していることを知っていたので、安奈に伝えるとしても安奈に言うのは最後にしようと思っていた。
正臣は自分の素性が分からないように、『夢しか持たない、貧しい学生』を演じていた。しかしながら、正臣の父親の会社から九大に求人に来る人事の人たちが必ず正臣のところに挨拶に訪れることから、正臣がその当時の九大の工学部の学生が就職したい企業のベストスリーに入る会社の御曹司であることは周知の事実になっていた。
真理子がその御曹司を射止めたことが九大の中で広まらないはずなかった。
その頃の安奈は、たとえ結婚できなくても正臣の子供を産みたいというほど正臣のことを慕っていた。
そんな安奈は、大学に勤め始めた時から自分を親身になって指導してくれた真理子の結婚が決まったことを九大のパート職員仲間のうわさ話で知って真理子に聞いた。
「古山さん、結婚が決まったって聞いたけど、本当?」
それに対して真理子は、
「ええ、そうよ」
とだけ言った。
安奈は真理子に、
「相手は誰? 私の知っている人? ねえ、誰よ? 誰よ? もったいぶらずに、教えてよ」
と言った。
真理子が、
「河村さん」
と答えると、
「嘘、嘘でしょう。嘘に決まっている。そんなことがあるはずがない。また冗談言って、人をからかっている」
と、安奈は言った。
真理子が、
「冗談じゃなくて、本当よ」
と言うと安奈は、
「そう、河村さんって、男らしいからね」
と言った。
その日、安奈は正臣が好きだといった『段カット』の髪を切った。
安奈の二年に及ぶ恋の終わりであった。
文字通り人一倍実験して多くの論文を発表した正臣は、九州大学の史上最年少で『工学博士』の学位を取った。
正臣の博士論文は、真理子が清書したものであった。
その論文を正臣が副査である応用化学の加藤先生のところに持って行って、
「君は字が奇麗だね」
とおっしゃった。正臣は、
「実はこれは、僕の婚約者が清書したものです」
と言った。すると加藤教授は、
「それにしても君の彼女は、自然科学に精通した人だね。間違いが一つもないよ」
とおっしゃった。正臣は、
「実は、僕の婚約者は古山真理子です」
と言った。
すると加藤教授は、
「それで分かった。あなたの博士号はあなたじゃなくて、古山さんに上げないといけないね」
と言った。正臣は、その通りだと思った。
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