第11話 博士課程3年
――― 真理子 ―――
博士課程3年のクリスマスも、正臣は恋人がいないまま、「一人で二交代」をして実験する
地方の国立大学の教授になるためには査読付きの論文が十報あればいいという時代に、正臣は博士課程の3年生の時点で、査読付きの論文を八報持っていた。
正臣が気が狂ったように実験して得たデータを使って博士論文をまとめ終えた頃、またしても森田助教授が正臣に指令を出した。
「古山真理子は、柳教授が紹介した縁談まで断った。柳教授は、『どうしてこんなにいい話を断るのだろう』と言っていた。どうも古山さんには好きな男がいるみたいだから、それが誰か古山さんから聞き出してくれ」
これは難題だったが、やらざるを得ない案件であった。
正臣と古山さんは、同じ研究室のドクターの学生と事務員の間柄である。遠慮なんか必要ないので、正臣自身も古山さんに次のようにアドバイスしようと思っていた。
「古山さんは僕の一つ下だから、もうすぐ二十七だろう。その顔では高望みは不可能だから、自分の年と顔のことを自覚して、誰かと早く結婚した方がいいよ」
女性には失礼な言い方だが、真実ははっきり言った方がいいと正臣は思っていた。
(そう言えば古山さんは、いつも僕が学会に投稿する論文の清書をしてくれている。一度くらい食事をごちそうしてもバチは当たらないだろう)
そう思った正臣は真理子に、
「いつもお世話になっているから、夕食をごちそうするよ」
と言って、彼女と「海幸」に行った。
これが夕食ではなく昼食だったら、こんな間違いは起こらなかったであろう。
正臣は「海幸」で真理子に安い夕食をおごった後、その頃流行り始めたカラオケスナックに彼女を誘った。
正臣が真理子をスナックに誘ったのは、森田先生の『古山さんから好きな男が誰か聞き出してくれ』と言う依頼を果たすためであった。
真理子はお酒がまったく飲めないが、正臣の面白い替え歌を聞きたいと思ったのか正臣に付き合ってくれた。
正臣が手始めに、西田佐知子が昔歌っていた『東京ブルース』を歌うと、真理子が言った。
「この歌みたいに私をだましているのなら、死ぬまでだましてよ。いい、死ぬまでだまさなかったら、承知しないから」
真理子の目には涙がいっぱい溜まっていた。
正臣の背筋に衝撃が走った。
(ええっ、古山さんが好きな男っていうのは、この俺か!)
「もう、帰ろう」
正臣は、できたばかりのコークハイにも手を付けずに勘定を済ませ、真理子と一緒に店を出た。そして真理子の涙をハンカチで拭いてやった。
真理子は、それまで誰にも見せたことがなかった甘えるような仕草で、正臣に涙を拭いてもらった。彼女の甘え方は、女性の扱いに慣れている正臣から見ると、いかにも下手であった。
だがそれは、真理子が男慣れしていないことを
正臣は真理子を西鉄天神駅まで送ると、間借りしていた箱崎の部屋に帰った。
部屋の中で正臣は、
(いままで女性を『顔』だけで評価していた俺は、なんて馬鹿だったんだ)
と思った。
(安月給でも身を粉にしてよく働いて、ボーナスや残業代も出ないのに、残業をいとわない。どんなにきつい仕事も、涙をこらえながら一生懸命最後までやる。あんなに字がきれいで、心優しく、言葉遣いも丁寧である。誰に対しても笑顔で対応して、好きな男が自分の後輩の若い娘と目の前でいちゃついても意地悪せずに、じっと我慢して・・・)
正臣はその夜の内に、古山真理子がこれまでに出会った女性の中で一番心がきれいな女性だと気が付いた。
彼女ができると必ず母親に連絡していた正臣が母親に電話で、
「好きな人ができた」
と伝えると、母親は彼女の名前も聞かずに、
「あなたがいいのなら、誰とでもいいから結婚しなさい」
と言った。
正臣の母親の
(正臣と小百合に取り返しがつかないことをした)
と自責の念を抱いていたためであった。
正臣の弟と妹はとっくの昔に結婚していて、残っているのは正臣一人であった。
それなのに、どんな縁談も正臣は受け付けなかった。
その上、九大に求人に行くのを兼ねて正臣の様子を見に行った正臣の父親の会社の人事の人たちから、
『お坊ちゃんは、気が狂ったみたいに研究に没頭しています』とか
『お坊ちゃんには、会社に入る気はまったくないようです』
と聞いていた正臣の母親は、
(これを逃したら、あの子は結婚しない)
と思ったようである。
真理子の出した結婚の条件は、
「浮気する時は、私にバレないようにして」
であった。
真理子は正臣の働きぶりや家庭環境をよく知っていたので、他に臨むものはないようであった。
『浮気をする時はバレないようにして、死ぬまでだます』
正臣は、これだったら自分にもできそうだと思った。そして、
『結婚したら、美人は三日で飽きるが、ブスは三日で慣れる』
と言われているので、正臣は真理子にプロポーズした。
もちろん真理子は、自分の結婚が決まったことを周りに
真理子は、安奈が正臣に恋していることを知っていたので、安奈に伝えるとしても安奈に言うのは最後にしようと思っていた。
正臣は自分の素性が分からないように、『夢しか持たない、貧しい学生』を演じていた。
しかしながら、正臣の父親の会社から九大に求人に来る人事の人たちが必ず正臣のところに挨拶に訪れることから、正臣がその当時の九大の工学部の学生が就職したい企業のベストスリーに入る会社の御曹司であることは周知の事実になっていた。
真理子がその御曹司を射止めたことが九大の中で広まらないはずなかった。
その頃の安奈は、たとえ結婚できなくても正臣の子供を産みたいというほど正臣のことを慕っていた。
そんな安奈は、大学に勤め始めた時から自分を親身になって指導してくれた真理子の結婚が決まったことを九大のパート職員仲間のうわさ話で知って真理子に聞いた、
「古山さん、結婚が決まったって聞いたけど、本当?」
それに対して真理子は、
「うん、そうよ」
とだけ言った。
安奈は真理子に、
「相手は誰? 私の知っている人? ねえ、誰よ? 誰よ? もったいぶらずに、教えてよ」
と言った。
「河村さん」
真理子がそう答えると安奈は、
「嘘、嘘でしょう。嘘に決まっている。そんな事があるはずがない。また冗談言って、人をからかっている」
と言った。
真理子が、
「冗談じゃなくて、本当よ」
と言うと安奈は、
「そう、河村さんって、男らしいからね」
と言った。
その日、安奈は正臣が好きだといった『段カット』の髪を切った。
安奈の二年に及ぶ恋の終わりであった。
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