第7話 博士課程2年

              ――― 安奈 ―――


 九大の博士課程の二年になって、正臣は久しぶりに恋をすることができた。

 高校二年の時に知り合って五年付き合い、その後四年思いを引きずっていた小百合を忘れることができるかもしれないという相手が現れたのである。その恋の相手は、その年に短大を出て九大の材料開発の事務室に入ってきた井原安奈であった。彼女は実際には、日本化学会と電気化学協会の九州支部のパートの事務員だった。正臣はそれまであまりセクシーな女性と付き合ったことはなかったが、安奈はセクシーで、男を惑わすタイプの女性であった。

 

 いつものように図書を借りに彼女のいる事務室を訪れた四月中旬の土曜日、自分の研究室に戻った正臣は、思い切って事務室にいる安奈に電話した。

「柳研の河村ですけど、いつかドライブでもしませんか?」

 当時車を持っていなかった正臣は、もしも彼女が応じてくれたら、彼女とドライブする日にはレンタカーを借りようと思っていた。

「柳研の河村さんって、さっき図書を借りに来られたハンサムな方ですか?」

「ハンサムかどうかは分かりませんが、そうです」

「それだったら、いつでもいいですよ」

「今日でも?」

「はい、今日でも構いません」

 その頃、土曜日は半ドンだった。

 『今日でもいい』と言われても、レンタカーを借りるには時間がかかるので、正臣は同じ研究室の助教授の森田先生に車を貸してほしいと申し出た。

 森田先生は快諾し、車のキーを渡してくれた。そして次のように言った。

「夕方の七時までには車を返してくれ。それから、シートに変なシミを付けるなよ」

(今日が彼女との初めてのデートなのに、そんなことする訳がない)

 正臣はそう思った。そして、もう一度安奈に電話して、午後一時に研究室がある建物の下のベンチで待ち合わせることにした。


 ベンチに座って正臣を待っている安奈を研究室の後輩達が四階の窓から見て、

「おー、彼女、待っている、待っている。河村さん、今日は一発できますね」

 と正臣を冷やかした。

「今日が初デートなのに、そんなことする訳ないだろ」

 正臣はそう言って、うきうきする気持ちを抑えながら一階に降りて車を出した。

 彼女が座っているベンチの前に正臣が車を停めると、小百合が昔そうしたように、安奈は嬉しそうな顔をして車に駆け寄って来て、ドアを開けて助手席に座った。

「どこに行こうか?」

 と正臣が聞くと安奈は、

「西の方に走って、海が見たい」

 と答えた。正臣は、(えっ?)と思った。

 ナンパした女の子を車に乗せた男が、「海を見に行こう」と言ったら、そう言われた女性は、

(この人、私の体を狙っている)

 と思って用心するか、覚悟しないといけないという時代であった。

(女性の方から「海が見たい」というのは、どういう意味なのだろう?)

 正臣はとにかく車を西に走らせて、百道浜ももちはまに車を停めた。

 

 その頃の百道浜には何もなく、海があるだけだった。

 車を降りて二人で干潟を歩くと、ボラの子供が何匹か死んでいた。

「あそこに魚が死んでいる。あっ、向こうにも」

 正臣が死んだボラの子供を指さして言うと、

「ムードがないわね」

 安奈はそう言って、「くすっ」と笑った。

 髪が栗色の彼女の笑った顔は、宇宙戦艦ヤマトの『森 雪』や銀河鉄道スリーナインの『メーテル』を思わせた。

「段カットって言うんだろ、それ」

「えっ、この髪型のことですか?」

「うん、僕、好きだよ、その髪型」

 これは安奈にとって、『あなたのことが好きだ』と言われたようなものであった。

「髪、染めてるの?」

 と正臣が聞くと、安奈は、

「ううん、これは地毛よ。そんなことより大事な話があるの。今日、森田先生に車を借りる時、私に会うって言ったの?」

「うん、言った」

 正臣がそう答えると、奈美は、

「次から私に会う時は、誰にも内緒にしてね」

 と言った。

「ごめん、悪かった。次からは誰にも内緒にするよ」 

「あなたが内緒にしてくれるなら、どこにでも付いて行くから」

 安奈がそう言うので、正臣は冗談半分に、

「どこにでもって、地の果てでも?」

 と聞いた。すると安奈は、

「あなたが行くところなら、どこにでもって言ったでしょ」

 と答えた。

 短い会話だったが、それはお互いに好意を持っていることが分かる会話だった。

 

 その日、安奈との短いデートから帰った正臣は、鎌倉の実家に電話して母親に安奈のことを伝え、どういう家に育ったお嬢さんか調べてほしいと言った。

 正臣が好きな人ができたら必ず母親に連絡していた理由は、マザーコンプレックスと言うよりも、女性にもてていた叔父が昔よく言っていた、次の格言に従ったためであった。

 『ヨメの取り換えは出来ても、オフクロの取り換えは出来ない』

 これは、母親が気に入った女性でなければ何度結婚と離婚を繰り返してもうまくいかないので、結婚を決める時は母親の意見を重視しろという意味である。

 それから数日たって、母親から正臣に連絡があった。

「彼女や彼女の家には全く問題はないが、子供ができるようなことだけはするな。子供ができたら、別れさせる」

 と言う母親の言葉に正臣は、

(母さんは何て変な言い方をするのだろう)

 と思った。母親がなぜそう言ったのかを正臣が理解したのは、その約一か月後に行われた妹の結婚式の時であった。

 

 正臣と安奈の二回目のデートは、五月三日の憲法記念日にレンタカーを借りての北九州観光だった。デートの場所として正臣が北九州を選んだのは、正臣は北九州出身だったので福岡よりも北九州の方が慣れ親しんでいたからであった。それに天神を二人で歩いたりしたら、知り合いに見られて噂を立てられる可能性があるためだった。

 二人はまず門司に行き、門司港から巌流島がんりゅうじま(船島)に渡船で渡った。渡船と言っても、正臣が若松から戸畑に行く時に乗っていた若戸渡船と違って遊覧船気分が味わえた。巌流島では、武蔵と小次郎の決闘の紙芝居を見て、人に頼んで二人の写真を撮ってもらった。

 巌流島から門司港に戻ると、二人はレトロな街並みを散策し、門司港名物の「焼きカレー」を食べた。

 二人はお腹を満たした後、八幡区の皿倉山のケーブルカー乗り場に行き、ケーブルカーで山頂にある展望台に行った。

「夜だと夜景がきれいなんだけどな。でも、昼間だからよく見えるよ」

 正臣はそう言って、安奈に展望台から見える建物や公園の説明をした。

 

 皿倉山から下りると、正臣は車で九工大にいた時によく行っていた戸畑のお好み焼き屋やパチンコ屋や映画館を回って、それぞれの説明をした。

 安奈は正臣の話を笑いながら聞いていた。

 その日の最後の観光スポットは小倉城だった。

 車を小倉駅前の駐車場に停めて、二人は魚町商店街を歩き、おやつ代わりに「小倉焼うどん」を食べた。一人前を二人で食べると言っても店主のおばさんは嫌な顔をせずに、

「お兄ちゃん、昔よくウチに来ていたよね。今は九大におると? 頑張っちょるね」

 と言って、美味しい焼きうどんを作ってくれた。その後、正臣と安奈は小倉城の中に入って各階の展示を見た後、五階から小倉の街並みを見渡した。

 小倉城を出ると、辺りはほんの少し暗くなっていた。

 時計を見ると、六時三十分を指していた。

「もう、こんな時間か。そろそろ帰ろうか」

 正臣がそう言うと、安奈は、

「帰りは夜になるって言ってきたから、まだいいよ」

「そう、そしたら何か食べる?」

「さっきの焼きうどんがまだお腹の中に残っているから、そんなに食べられないよ」

「じゃ、喫茶店に入って、スイーツを食べよう」

 正臣は魚町アーケード街にあった喫茶店に安奈と一緒に入って、コーヒーとショートケーキのセットを二つ注文した。

「河村さんは、甘いものが好きなのね」

「そうだね。夏はチョコレートパフェが一番いいね。そうだ、次のデートで喫茶店に入って、コーヒーとチョコレートパフェを一つずつ注文しよう。そしてウエイトレスさんがどちらを君の前に置くか賭けようよ」

「そんなの、私の前にチョコレートパフェで、あなたの前にコーヒーって決まっているじゃない」

「そうか、それじゃ賭けにならないね」

 喫茶店でそんなおしゃべりをした後、二人は駐車場に戻って車に乗った。

 

 正臣は国道三号線を西に向けて車を走らせ、途中から北上して安奈の自宅がある宗像に向かった。

 県道にはモーテルが何軒か並んでいた。

「この辺は、モーテルだらけだね」

 正臣がそう言うと、安奈が聞いてきた。

「河村さんは、こんな所に入ったことあるの?」

「僕は、ないよ。君は?」

「馬鹿! 私まだ処女よ」

「ゴメン、悪いことを聞いた。許してくれ」

「いいの、分かったわ」

 車内の雰囲気は少し白けぎみになったが、お互いにこれまで男女の関係を持った異性はいないということが分かって安心した。

 正臣は安奈を彼女の家の前まで送って行った。別れ際に正臣が安奈に、

「今日は有難う、井原さん」

 と言うと、安奈は、

「私を呼ぶ時は、井原さんじゃなくて、安奈って言って」

「分かった。安奈って呼ぶよ。安奈もいいけど、おまえでもいいか」

「ええ、いいわよ、あなた」

 安奈が彼女の家に入るのを見届けた後、正臣は博多駅前にあるレンタカー屋に車を返し、間借りしている部屋がある箱崎までは西鉄バスで帰った。

 北九州観光と言っても、正臣が生まれ育った若松区に行かなかったのは、やはりそこには悲しい思い出があるからだった。


 六月三日に帝国ホテルで行われた尚江の結婚式に、正臣は福岡から別便で東京に送った愛用のギター、モーリスハミングバードを持って参列した。そして尚江の結婚披露宴で、正臣は「妹よ」と「僕の妹に」の二曲を引き語りした。それはけっこう好評だったが、正臣は両親から驚くべきことを打ち明けられた。それは、尚江が妊娠八か月だということであった。

 そういえば、その前の年に鎌倉に帰省した時、弟の光安の結婚式の日取りは一年後の九月と決まっていて、尚江は彼氏の両親に会いに行く段階だった。それが急きょ弟の結婚式の前に妹の結婚式が差し込まれたのは妹の妊娠のためかと納得した。

 その頃はまだ、『出来ちゃった結婚』という言葉は存在していなかった。

 両親はとにかく、尚江の勤め先に謝りに行くのが大変だったと言った。

 尚江は、サントリーが初めて採用した東大出の女の子だった。

 尚江の専攻は「心理学」だったので、入社早々、次年度の入社試験問題を作らされた。それが入社して一年もしない内に「会社を辞める」と言い出したのだから、会社が怒るのは当たり前だった。

 九大の正臣がいる研究室に、尚江と小学校時代の同級生の修士課程の学生がいた。尾島というその後輩は、研究室の皆の前で次のように言った。

「河村さんの妹の尚江は、とにかく頭がよくて、僕はどんなに頑張っても勉強ではかなわなかった。東大出の女は結婚して二か月で子供を産むなんて、お腹の中の子供の成長も早いんだ」

 後輩のその話を正臣は黙って聞いていた。そして正臣は母親が、

「子供ができるようなことだけはするな。子供ができたら、別れさせる」

 と言った理由がよく分かった。

 娘のことはフィアンセに「どうしても」と迫られたからと言い訳できるが、後継ぎ息子まで結婚前に女性を妊娠させたら、

「あの一家は、いったいどうなっているのだ?」

 と町中の人から言われ、面目丸つぶれになるのを母親は恐れたのだと正臣は理解した。

(心配しなくてもいいよ、僕は結婚するまでプラトニックラブしかしないから)

 正臣はそう思った。


 正臣と安奈の交際は、どちらかというと安奈の方が積極的だった。二人でボーリングをしたり、何度かドライブをしたが、正臣は安奈の家に行ったり、自分の部屋に彼女を連れ込んだりはしなかった。それは、母親の心配に配慮してのことだったのかもしれない。

 二人が付き合い始めて三か月ほど経った頃、安奈と同じ事務室にいた古山真理子が正臣がいる研究室(柳研)に配置換えになった。それは、それまで柳研にいた女性の事務員は勤務歴が長く、研究資金をたくさん食うからという、世間ではにわかには理解しがたい理由からであった。

 古山真理子はきわめて優秀な女性だった。柳教授の秘書としての仕事だけでなく、研究室の物品管理や学生の実験補助そして大学院生が学会で研究発表をする時に提出する講演概要の清書までした。

 彼女が書く字は事務的とはいえ、とんでもなくきれいだった。その頃はまだワープロがなかったので、彼女は「清書屋」をしても食っていけそうだった。

(これで顔がきれいだったら、言うことないのに)

 正臣は、そう思っていた。


 正臣が所属していた柳研では、夏休みの前に研究室のほぼ全員で久住にあった九大山の家に三泊して、大船山登山と九電地熱発電所での熱水処理の実験をしていた。地熱発電は、その当時から再生エネルギーとみなされていたが、いいことには必ず裏があるものである。 

 地熱発電では、発電に利用した熱水はヒ素などの有害元素の含有量が多いため川に流せず、還元井かんげんせいを通して再び地中に戻しているのである。この還元井は熱水に溶けているシリカなどがスケールとして析出するので、すぐに詰まってしまい、たびたび取り換えなければならない。地熱発電のコストの大半は、この対策のために使われているのである。

 そこで、発電に利用した熱水からヒ素などの有害元素を除去して川に流してもよくするか、還元井にスケールが付かなくする方法を開発する必要があるのである。

 熱水中のヒ素の除去には、鉄の二価イオン(第一鉄の水溶液)と酸化剤を熱水に同時に添加して空気を吹き込んで酸化させ、第二酸化鉄(三価の酸化鉄)を作って共沈させることでヒ素をほぼ完全に除去できることを正臣はこの時すでに見出していた。しかしながら、熱水の量が多いので、この方法はいまだに実用化していない。

 柳研の旅行や飲み会には、ほとんどと言っていいほど、事務室にいる安奈と柳研の事務員になった古山さんが同行した。古山さんは安奈が大学に就職した時からの先輩で、安奈に大学での仕事の仕方を一から丁寧に教えた。そのため、安奈は古山さんに心を開き、安奈にとって古山さんは何でも相談できる存在であった。

 その研究室の旅行の夜、

「私、河村さんと一緒になりたいから、河村さんの部屋に行ってもいいかな?」

 そうたずねた安奈に古山さんは、

「河村さんはとてもまじめな人だから、そんなことをしたら逆効果になるだけよ」

 と答えた。

 古山さんの人を見る目は正しく、その通りであった。


 箱崎キャンパスに吹く風が次第に冷たくなる頃、正臣は森田助教授から妙な指令を受けた。

「古山さんを早く片付けるために、ウチの助手の三田君と古山さんがお付き合いするように仕向けてくれないか」

 正臣はそれを即座に理解し、ダブルデートを企画した。正臣は安奈に電話して、

「ウチの助手の三田君と古山さんをくっ付けるために、ダブルデートをしようと思っている。今度の土曜日のデートに古山さんを誘ってくれないか」

 と言うと安奈は、

「面白そうな話ね。それで、どうすればいいの?」

「そうだな、仕事が終わってお昼を食べたら、この前おまえが行きたいと言っていた『スポルト』のビリヤード場に集合しよう。そこで少し遊んでから、『海幸』で夕食を食べて、『ケントス』に飲みに行こう。あそこにはフロアがあって、踊ることもできるからね」

 正臣がダブルデートの案を示すと安奈は、

「分かったわ。スポルトの集合時間は午後二時でいいかしら?」

 と言った。

「オッケー、じゃ、今度の土曜日をお楽しみに」

 正臣自身は、同じ柳研にいる助手の三田君をダブルデートに誘った。

 

 その週の土曜日、正臣たち四人は天神に行く「九大前」のバス停で一緒になった。そのため待ち合わせる必要はなくなったが、計画通りにスポルトで遊び、海幸であまり高くない和食のセット料理を食べた。

 ケントスに入ったのは、午後七時くらいであった。そこでは、アベックシートを二組予約していた。組み合わせは、正臣と安奈、三田君と古山さんであった。

「今日は、あの二人をくっ付けるためのデートって言ったわよね。そしたら、今日の私達は、刺身のツマ、それともグリコのおまけ?」

 そう言う安奈に正臣は、

「俺達も楽しもうぜ」

 と言って、三十分間隔で来るダンスタイムにフロアに出て二人で踊った。

 そろそろお開きの午後九時になる頃、正臣の好きな「プロコル・ハルム」の「青い影」がかかった。

 正臣は安奈と組んで踊った。二人の踊りは、すぐにチークダンスになった。

 三田君と古山さんは、二人の踊りを見て、

「あの二人、すごいね。完全にくっ付いているじゃない。見ているこっちの方が恥ずかしくなるくらい」

 と言って、二人を見ていた。

 結局のところ三田君と古山さんはくっ付かず、その後も単なる助手と事務員の仕事上の付き合いしかしなかった。


 街にジングルベルが流れる頃、安奈が正臣にとって許せない間違いを犯した。それは、研究室での飲み会での出来事であった。

 その日、安奈が正臣にお酌しながら、

「また」

 と言った。これは安奈のいつもの言い方で、「また、会って」と言う意味だった。

 そういえば、あのダブルデートの後、学内で会えるのをいいことに、正臣は一か月ほど安奈とデートしていないことに気が付いた。正臣が、

「また」

 と返事をすると、安奈は、

「本当に、また」

 と言って潤んだ瞳で正臣を見つめた。正臣は、

「本当に、また」

 と返事をして、心の中で、

(クリスマスも近いことだし、今日は彼女を帰さないことにしよう)

 と決心した。

 正臣は安奈に自宅にいる親に電話で、

「今日は遅くなって帰れそうにないから、先輩の古山さんの所に泊めてもらうことにした」

 と嘘をつかせて、安奈と二人きりになろうと思ったのである。そして正臣は安奈に気持ちを打ち明けて、子供ができるようなことはしなくても、安奈と結婚の約束をしようと決めたのである。

 古山さんは二人が付き合っていることを知っているので、正臣は古山さんに口裏合わせを頼もうと思っていた。

 恋愛における行き違いは、こんな時に起きるものである。

 安奈はその飲み会の二次会の途中で、正臣の後輩の大学院生の一人と行方をくらましたのである。その当時の悪い言い方をすれば、『二人でどこかにしけ込んだ』のである。それは安奈が半年以上付き合っているのに何も約束してくれない正臣にやきもちを妬かせるためにやったことだったが、正臣には許せない行為になったのである。

 次の日の朝、正臣は安奈に電話した。

「研究室の和を乱すようなことをしてもらったら困る。それから、お前とは、もう会わない」

 正臣は安奈に別れを告げたのである。


 『失恋する度に、男はひとまわり大きくなり、女は卑しくなる』と言うが、正臣はその次の日、ベッドと炊飯器を大学の研究室に持ち込み、研究室に寝泊まりしながら実験し始めた。

 正臣は、午前十時から夕方の五時までワンクール、そして四時間睡眠をとり、午後十時から次の日の未明の五時までワンクールというやり方で実験した。正臣の二回目の睡眠は未明の五時からであるが、朝の九時くらいになると後輩の学生や助手の人が研究室に出て来るので、正臣は起こしてもらえた。

 すなわち正臣は、一人で二交代をやったのである。

 正臣の朝食は、生協の食堂に行くこともあったが、炊飯器で炊いたご飯の上に生卵と納豆を混ぜたものを乗せて食べる、『卵納豆ご飯』が多かった。正臣は、週に二回くらいは間借りしていた部屋に帰り、銭湯にも行った。銭湯に行った時は、銭湯の近くにあった「赤のれん」でラーメンを食べた。

 休日の前の日に泊まり込みの実験をして後輩に起こしてもらえない時など、正臣は未明の五時にベッドに入って、その日の夕方まで寝ていたことが二、三回あった。

 その時に覚えた妙な感覚は、次のようなものである。

(すっきり目覚めて時計を見ると五時三十分を指している。夜明け前の五時にベッドに入ってまだ三十分しか寝ていないのに、こんなに目覚めが良く、気分がすっきりしているのは熟睡したせいか?)

 そう思っている内に、周りがだんだん暗くなっていく。

(えっ、俺は十二時間以上寝ていたのか!)

 そういった生活が一年続いた。その頃の正臣は、生活のすべてを研究に打ち込む、マッドサイエンティストだったのである。

 なぜそんな無茶をやったのかというと、正臣の博士論文のテーマがデータの数で優劣が決まるというテーマだったこともあるが、小百合を忘れることができそうな恋をして、その恋に破れたからというのが本当の理由であった。


 正臣は安奈に「もう会わない」と言ったが、学会のお世話や図書の貸し出しといった日常業務では、二人は少なくとも一週間に二度は会っていた。

 正臣が安奈のいる事務室に行くと、安奈はいつも高校三年の時に真樹が見せたような表情で正臣を見つめていた。

 安奈は人一倍実験に打ち込んで、研究発表をたくさんしている正臣のことを前にも増して好きになっていた。そして安奈は、心の中で次のように思っていた。

(なぜ私はあの時、あなたを裏切るような、あんな馬鹿なことをしたのか自分でも分からない。でも、あなたの後輩の彼とは何にもなかったのよ。あなたのためならどんなことでもするから、私を許してほしい)

 九大にいる助手や大学院生の何人かが安奈に交際を申し込んでも、彼女は「私には好きな人がいる」と言って、誰の申し出も断っているという噂が流れていた。

 正臣には、安奈が好きな男は自分だという自信があった。それは彼女が段カットの髪型を変えないことから判断された。

 安奈に別れを告げたとはいえ正臣も心の奥底では彼女のことを愛しく思っていた。昔のように誰にも内緒で会って、二人きりになったりしたなら、おそらく二人は激しく求め合って、結ばれていたと考えられる。

 しかし、安奈に「お前とは、もう会わない」と言ったからには、正臣は仕事以外で安奈に会ってはいけないと思い、安奈と二人きりになるのを避け続けた。

 

 その頃、正臣は若松に実家がある後輩の学生から、

「近美小百合さんには、子供が二人いる」

 という話を聞いた。

 正臣は小百合が遠方に嫁いだことは人づてに聞いていた。

 今回小百合の状況を正臣に話してくれた学生は、小百合の母親と懇意こんいにしている自分の母親からその話を聞いたと言うことだった。

 正臣は、

(僕はまだ社会に出ていないのに、あいつはもう二児の母か。僕の周りはあの時から時間が止まったままみたいだな)

 と思った。


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