第9話 博士課程1年
九工大の大学院の修士課程を修了した正臣は、九大の博士課程の入学試験に修士論文の口頭発表だけで合格した。それは杉原先生の推薦の賜物であると、正臣は杉原先生に感謝した。
正臣は大学院修士課程までは北九州の戸畑で間借りをしていたが、博士課程では福岡の箱崎で間借りすることになった。
戸畑から箱崎に移る日、正臣は久しぶりに若松を訪れた。その頃、正臣の両親や兄弟は鎌倉や東京に移り住んでいたので、若松にはもう誰も残っていなかった。
正臣は高塔山の麓にある佐藤公園を旅の出発点にした。佐藤公園は小百合の家の庭のようなもので、小百合と長い時間を過ごした場所であった。
佐藤公園の桜が花吹雪になって、正臣の一人きりの旅立ちを祝ってくれた。
そこから「大橋通り」のバス停を通り、正臣は若松駅から列車に乗った。
正臣は、動き始めた汽車の車窓を流れていく景色を見ながら、
(またここに帰って来られるだろうか?)
と思った。
正臣が中学の時から仲良くしていた魚屋の息子の浜脇のことや、昔の正臣の家の三軒隣りにあった新聞屋の息子の岸のこと、中学の頃は同じ軟式庭球部で高校に入るとギターを教えてくれた狩野のこと、独特な哲学を持っていた橘のこと、なぜか正臣よりもハンサムで女の子にもてていた永井のこと、九大の医学部に進んだ松井のこと、高校二年の時に三重県から転校してきた寺尾に、
「三重の県庁所在地は『津』だろう。東高はいい奴ばかりだから、何も心配することはないよ」
と話しかけて友達になったことなどを思い出した。
ここ数年会っていないのに、思い出すのはなぜか東高の男の友達ばかりだった。
そうこうしている内に、電車が乗換駅の折尾に着いた。正臣は折尾駅で東筑軒の『かしわめし』を買って、鹿児島本線の博多行きの快速電車に乗り換えた。
それは、正臣が遠い夢を捨てきれずに故郷を捨てた瞬間であった。
正臣は九州大学の大学院の入学式に出席して、正臣が専攻する分野の博士課程の新入生は正臣一人だけだということを知った。それは、正臣の成績が専攻で一番(首席)であり続けることを意味するものであった。
そして他にも二つラッキーなことがあった。それは授業料と奨学金である。
正臣が大学に入学してから博士号を取るまでの九年間に、国立大学の授業料は何度か値上げされた。
しかしながら大学院は進級扱いなので、正臣の授業料は九年間一度も上がらず、大学入学の時と同じ月に千円、すなわち年間一万二千円のままだった。
幼稚園児の習い事でも月に千円は安いのに、それと同じ月謝(授業料)で一台数千万円もする装置を何台も使って好きな研究ができるのだから、こんなにいいことはなかった。
正臣の父親は仕送りを続けると言ってくれたが、『博士課程に入ったら、仕送りはいらない』と大見えを切った以上、正臣は奨学金を申請することにした。しかし、奨学金には保護者の収入制限があり、高給取りの子弟は奨学金をもらえないことになっていた。
本来ならば正臣の父親の収入はそれをはるかに超えていて、正臣は奨学金の申請など出来るはずなかった。
しかしながら、オイルショックによる大不況により、正臣の父親の会社で役員の報酬の半減と賞与カットが行われ、父親の収入は正臣が奨学金を申請できる範囲に入っていたのである。
正臣の父親の収入はその年だけが例外的に少なかったのだが、正臣は公的機関が発行した保護者の所得証明書を付けて奨学金を申請し、日本育英会の奨学金を得たのである。
その頃のドクター(博士課程学生)の奨学金は月に七万円で、部屋代の一万円と食費の二万円と授業料の千円を差し引いても、正臣の手元には月に三万円以上のお金が残ることになった。正臣は残ったお金をすべて貯金した。
それ以前の父親からの正臣への仕送りは月に三万円だった。その二倍以上のお金が奨学金として入ることになった正臣は、バンドもバイトもやめて、勉強と研究に専念した。
正臣は、本気で夢に向かって努力すれば、家や親や故郷を捨てても、または捨てられても、ちゃんと生きていけるということを知った。
さらに、ドクターの奨学金は国立大学や国立の研究機関に就職したら返済が免除されるので、常に正しいことをしていれば、世界は味方してくれるということを正臣は知ることができた。
正臣が箱崎で間借りした部屋は、昔、「林田旅館」という名前の旅館だった家の一部屋だった。
そこは男女一緒で、そこに間借りしていた女の子は、九大の看護学校や看護の専門学校の女の子が多かった。しかも北九州出身の女の子が多く、そんな女の子が組み立て式の家具を購入して自分では組み立てられない時は、正臣が組み立ててあげた。
年齢が二十五歳の正臣にとって、歳が十七、八の女の子は恋愛の対象にならなかった。もちろん各部屋は、オートロックで施錠できるようになっていた。
正臣が箱崎に移って気が付いたのは、博多弁と北九州弁は少し違うということだった。
「しぇからしい」は「うるさい」で、「なおす」は「片づける」で、「すいとー」は「好き」で、「すかーん」は「嫌い」、「からう」は「背負う」、「ばってん」は「but then」または「but」は同じだが、どうして分からない言葉があった。
それは、「しろしか」だった。
正臣が箱崎に移って、間もなくして梅雨に入った。
朝から雨が降っている日に正臣が傘を出して間借りしている家を出ようとした時、昔、「林田旅館」の女将をしていたおばあちゃんが、
「今日は、しろしかですねえ」
と言った。
正臣は、一応、「そうですね」と答えて、大学に行った。
その言葉の意味が分からなかった正臣は、九大で所属した「柳研」の助教授の森田先生に、
「先生、『しろしか』とは、どういう意味ですか?」
と聞いた、すると森田先生は、
「それは、『うっとうしい』という意味で、今日みたいな天気の時に挨拶代わりに言う言葉だよ」
と教えてくれた。
正臣は、また一つ賢くなったと思った。
博士課程の一年生の間、正臣は博士号を取るために必要な授業の単位を修士課程の授業で満たした。その過程で正臣は、修士課程まで在学していた九工大で受けた講義と同じ内容の九大の講義をいくつか受けた。
その結果、「講義はどちらの大学の方がいいか?」と問われても答えようはなく、「教える先生によって違う」ということが分かった。九大でもプリントを配って輪講しかしないダメな先生もいれば、九工大でもよく分かるいい講義をする先生がいた。
正臣は、『前もってよく準備した内容を、熱意を持って分かりやすく説く講義』がいい講義であることを知った。
九州大学の博士課程で正臣は、溶融スラグの物性に関する研究を行った。スラグは日本語では鉱滓(こうさい)というが、鉱石中の目的金属以外の酸化物が高温で溶けたものをさす。自然界にあるものでは、溶岩みたいなものである。
鉄にしろ、銅にしろ、ニッケルにしろ、元々の原料は鉱石なので、これを炉で溶かして金属を取り出す製錬、いわゆる溶融製錬ではスラグは必ず発生する。そこでスラグの性質を知ることは鉱石から金属を取り出す工程で重要なものとなる。
正臣は、溶融スラグの粘度や電気伝導度や密度などの様々な高温物性を測定する装置を作成し、若手の研究者としてデビューを果たした。
正臣が九大の博士課程に進学した年の日本金属学会九州支部の講演会の時、九工大の修士課程でお世話になった杉原先生が正臣の所に様子を見に来た。
「河村君、元気でやっているかね?」
杉原先生のその質問に正臣が、
「はい」
と答えると、杉原先生は、
「あんたは周りを自分のペースに巻き込んで、あんたの好きなようにやるタイプだから、本当言うと、まったく心配なんかしていなかったけど、思っていた通りでよかったよ」
とおっしゃった。杉原先生のその言葉は、自分をほめているのか馬鹿にしているのか、それは言った本人にしか分からないが、正臣はお世話になった先生にほめられたと思って嬉しくなった。
七月になると大学は夏休みになるが、大学院生、特に博士課程の学生には、休みは八月のお盆休みしかなかった。そのお盆を挟んだ一週間、正臣は鎌倉に帰省して、少しゆっくりした。久しぶりに家族五人で食べる食事はおいしかった。
その時には光安と尚江のそれぞれの結婚が決まっていた。
光安の婚約者は、光安が幼稚園に入園した時からの幼馴染みで、光安が四才の時に『お医者さんごっこ』をした相手だった。
そのため正臣は光安の婚約者を子供の頃から知っていたが、大人になった彼女はモデルのローラさんに似たハーフっぽい美人になっていた。
尚江の方は、相手のご両親にはまだ会っていないということだったが、フィアンセは光安の親友で、東大法学部を出た、ハンサムな厚生省のキャリア官僚であった。
お盆の中日には、正臣の実家の菩提寺である「建長寺」からご住職が来て、般若心経をあげてくれた。
その次に正臣が鎌倉の実家に帰省したのは、その年の年末であった。
正臣が実家に帰ると、奈美の見合い写真が机の上に置いてあった。それは、正臣の両親に奈美の結婚相手を探してほしいということで送られて来たものであった。
そしてそれが送られて来たということは、奈美は津田塾大学の在学中に男が出来なかった証拠であった。
正臣は奈美の見合い写真を見て、
(奈美ちゃん、ますますきれいになったな)
と思った。そして正臣は、奈美が上京する時に彼女と交わした約束を思い出し、
「僕じゃ、ダメかな」
とつぶやいた。
それを聞いた正臣の母親は、奈美の縁談の仲介者に、
「ウチの正臣が『僕じゃ、ダメかな』と言った」
と伝えた。
年が明けて元日になると、正臣は午前三時に起きて、「鶴岡八幡宮」に初詣に行った。「鶴岡八幡宮」はお正月になると初詣の人が殺到するが、その時間帯は人が比較的少ないのである。
正臣が福岡に戻る一月五日、奈美のお父さんの話が正臣に伝わってきた・・・
「正臣君がウチの奈美と結婚してくれるなら、正臣君に好きな車を買ってあげる。その車でウチから九大に通ってほしい」
正臣は大人になってますますきれいになった奈美に会って、彼女の気持ちを確かめたいと思ったが、奈美の父親の話を聞いた正臣の父親が息子を取られるような気になって、
「ウチの長男とお宅の長女との結婚は難しかろう」
と、正臣には何の相談もなしに、勝手に破談にしてしまったのである。
正臣は、婿養子を取るといっていた奈美とはそんなに簡単にいくとは思っていなかったが、正臣にとってこれは一種の失恋であった。
そしてこれは、奈美にとっても失恋であった。
その頃の正臣は、『ロバート・レッドフォードを思わせるきれいな顔をした、九大の博士後期課程の首席で、日立の社長の長男』だったので、縁談は数多く来ていた。
正臣は、博士課程進学を心に決めたM2の時から家や故郷を捨てたと思っていたので、そんな打算的な縁談は最初からお断りしていた。
正臣は奈美との縁談をそんな縁談の一つとは思いたくなかった。
正臣は、
(奈美ちゃんの親は僕の親に奈美ちゃんの縁談を頼むほど親しかったのに、なぜ僕は、奈美ちゃんに会いに行かなかったのだろう?)
と思った。そして、
(もしかしたら奈美ちゃんは、僕のことを待っていたのかもしれない)
と、自分を責めた。そして正臣は、
(もしも僕が若松を出なかったら、僕は奈美ちゃんと結婚していたかもしれない)
と思った。
いくら謝っても取り返しはつかないが、正臣は奈美が幸せになることを祈るしかなかった。
『男はいつも待たせるだけで、女はみんな待ちくたびれる』のが恋だという時代であった。
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