第8話 修士課程2年
――― 奈美 ―――
その年の十一月、正臣の母親が友達のレストランの開業記念の祝賀会に出席するため、鎌倉から若松に出て来たことがあった。正臣は戸畑から若松に行き、その祝賀会に母親と一緒に出席した。
そして正臣は、子供のころから知っている奈美ちゃんのお父さんに会った。
正臣の母親は、祝賀会の会場で奈美ちゃんの父親を正臣に紹介した。
「この方は、奈美ちゃんのお父さんの宮本さんよ。奈美ちゃんは知っているよね? 尚江と同じ英語の塾の帰りに、いつも車でお家まで送ってあげていたでしょ」
母親のその口ぶりに正臣は、
(お母さんは子供の頃からよく知っている奈美ちゃんなら嫁に迎えてもいいと思っている)
と感じた。そして正臣は奈美とのいきさつを思い出した。
宮本奈美は正臣の妹の尚江の幼い頃からの友達で、彼女の家は、正臣の昔の家や真樹の家と同じ深町一丁目にあった。奈美は小学校までは深町小学校に通っていたが、中学は小倉にある中高一貫教育のお嬢様学校に進学した。しかも奈美は女の子ばかりの三姉妹の長女だった。奈美の父親は陸軍士官学校を出たエリートで、個人事業をやっていた。
そのため奈美は、行く末は婿養子を迎えるということであった。
すなわち奈美は小百合の何十倍も、「私は、お父さんが決めた人と結婚するの」と言わざるを得ない娘であった。
幼い頃の奈美は、尚江と遊ぶために家に来ると、
「尚ちゃんのお兄ちゃん、また、おままごとしよう」
と言って、正臣の後を追っかけていた。正臣はその頃、三つ年下の奈美のことを、
(幼くて、かわいい女の子)
としか思っていなかった。
奈美は男の子の遊びには興味がないみたいだったので、正臣は「ままごと」以外の遊びの相手の仕方を思い付かなかった。
その「ままごと」では、いつも正臣がお父さん役で、奈美がお母さん役だった。
奈美が小さな木片でできた「だし巻き卵」を出すと、正臣はそれを口の中に入れて食べる真似をした。そうすると奈美は、正臣がそれを本当に食べてしまったと思って驚いた顔をした後、正臣のお腹の具合を心配してくれた。
しかし、奈美が小学校に入って学年が進むと、奈美は正臣を追っかけなくなった。
奈美は高校時代、尚江と一緒に一週間に一度、昔正臣もお世話になっていた英語教室に通っていた。それが終わるのは夜になるので、正臣が大学二年になってからは車で迎えに行っていた。
その前の年に母親が迎えに行っていた時もそうだったが、尚江だけを車に乗せて、奈美を一人で夜道を歩いて帰す訳にはいかないので、奈美も一緒に車に乗せて彼女を家に送り届けていた。
二人が通っていた英語教室は、その当時の正臣の家の近くにあり、奈美の家はそこから離れた小田山にあった。そのため正臣は自宅で尚江を車から降ろした後、奈美を彼女の家まで送っていた。
尚江が車を降りた後、車内は正臣と奈美の二人だけになっていた。
奈美の両親がそれを黙認していたのは、正臣のことをよほど信頼していたのか、それとも正臣なら娘の奈美と恋仲になってもいいと思っていたのかは定かではない。
とにかく娘が夜道で変な男に襲われる可能性を考えると、正臣の送迎を有難いと思っていたことだけは確かであった。
高校三年生になった宮本奈美は、若い頃の仁科亜希子に似た、飛び切りの美人になっていた。
しかし正臣はその頃はまだ、若い頃の吉永小百合に似た近美小百合のことを思っていたので、奈美のことを何とも思っていなかった。
そのため、「勉強頑張って」と言う以外は、正臣は奈美と話らしい話をしたことがなかった。
正臣が奈美を家まで送って車の中からバイバイすると、彼女は潤んだ瞳で正臣を見つめて手を振った後、顔を赤くしてうつむいた。
正臣は奈美のその表情を見て、
(もしかして奈美ちゃんは僕に気があるのか? でも、僕には近美さんがいるから、ごめんな)
と思った。
奈美は中学から男の子がいない学校に通っていたので、身近にいる男性は父親だけだった。
一週間に一度とはいえ、子供の頃から知っている三つ年上のやさしい男性と車の中で二人きりになって、何も感じなかったら不自然である。
奈美は、
(私にも尚ちゃんのお兄さんみたいなお兄さんがいたら良かったのに)
と思っていた。それはやがて恋心に変わっていった。
正臣が奈美を彼女の家に送るようになって半年たった十二月の中旬、尚江と奈美の英語教室が終了する日が来た。英語教室が終わる理由は、新年になると二人の大学受験が始まるからであった。
正臣はその日、いつもと同じように二人を迎えに行った。その日限りで奈美に会えなくなる少し寂しい気持ちもあったが、これで車を出さなくてよくなるという
その頃正臣は英検1級に合格し、それは英語教室で話題になっていた。
その日、正臣が奈美を家に送って車を停めると、奈美が、
「尚ちゃんのお兄さん、これ」
と言って、後ろの席から正臣に紙袋を差し出した。それは、小倉にあるデパートの井筒屋の袋だった。正臣が、
「これ何?」
と聞くと奈美は、
「これまで家に送ってもらったお礼です。お母さんが買ってきたものと私が作ったものが入っています。私が作ったものは恥ずかしいから家に帰ってから見てください。それから、尚ちゃんには言わないでね」
と言った。正臣は、
「ありがとう、奈美ちゃんが作ったの、何か知らないけど、大事にするよ」
と言った。正臣が子供ではなくなった奈美とまともに話したのは、それが初めてであった。
正臣がその紙袋を奈美から受け取ろうとした時、紙袋のひもの所で二人の指が触れ合った。正臣が奈美の細くて白い指に触れたのは、それが初めてであった。
奈美は正臣と別れがたい感情を覚えたのか、正臣の手を握ってきた。
年下の女の子の方からそんなことをするのは、よほどのことだった。奈美は潤んだ瞳で正臣を見つめていた。いつもは制服だった奈美も、その日はピンクのセーターと青いジーンズのミニスカートを履いていた。
その短いスカートには白いものがのぞいていた。
運転席から見る奈美のその白いものの見え方は、「チラッと」というよりも「モロに」と言った方が正しかった。
車内に若い女性のあの甘酸っぱい香りが漂った。
正臣の手を握った奈美の手は湿っていた。正臣のものは、既に大きくなっていた。
正臣が今しがた通ってきた小田山の草むらの横にある人目につかない駐車場に車を戻せば、奈美と性的な行為ができる状況だった。
その時、奈美が、
「尚ちゃんのお兄さん」
と言った。
正臣は奈美にそう呼ばれて、
(そうか、奈美ちゃんは僕の名前を知らないのだ。名前を知らなくても恋は出来るけど、その気持ちに付け込んで、奈美ちゃんにエッチなことをしちゃいけないな。奈美ちゃんは幼い頃から知っている僕の大切な少女なのだから。それに僕は、近美さんともまだやってないのだから・・・)
正臣はそう思い、奈美の手を解いて紙袋を受け取った。
「本当にありがとう。とにかく受験、頑張ってね。じゃ、ばいばい」
正臣がそう言うと、奈美は少し涙ぐんだような顔で正臣を見た後、車を降りた。
正臣が家に帰って紙袋を開けると、中にはケースに入ったモンブランの万年筆と黄色い小さな折り鶴が入っていた。どちらが奈美の作ったものであるかは火を見るより明らかであった。
黄色い折り鶴は、
(あなたのことを尊敬しています)
という気持ちを表すものだと、折り紙の贈り物に詳しい英語教室の女の先生が言っていたことを正臣は思い出した。
奈美には『奈美ちゃんが作ったものを大事にする』と言ったが、それを持っていることは小百合を裏切ることになると思い、正臣は奈美からもらった黄色い折り鶴をくず籠に捨てた。
その二か月後、奈美は第一志望の津田塾大学に合格した。
そしてさらにその一か月後、尚江が東大に合格した。
奈美の合格祝いに、正臣はプラチナのペンダントを買った。
ペンダントトップは、人魚がうれし泣きした時に流す(出す)涙と言われているホワイトピンクのあこや真珠を選んだ。それも奈美に似合う清楚なものにした。それは奈美の母親からもらったモンブランの万年筆へのお返しを兼ねたものだったので、けっこうな値段がした。
そして正臣は、それを尚江に頼んで奈美に渡してもらった。
「お兄ちゃん、自分で渡せば」
尚江はそう言ったが、奈美を呼び出したら彼女に何かしそうで、正臣はそれが怖かったのである。
尚江が上京する日、正臣は尚江を車で福岡空港に送って行った。尚江のボストンバッグを一階の手荷物カウンターに預け、正臣は尚江と一緒に二階に上がった。するとそこに奈美がいた。
奈美は尚江と同じ便で上京するということで、彼女は、母親と一緒に空港に来ていた。正臣は、奈美の母親に万年筆のお礼を言って、少し談笑した。
飛行機の出発までにはまだ一時間半ほどあったので、正臣たちは福岡空港の会員制ラウンジで時間を
正臣が飲み物を持ってカウンター席に座ると、隣の席に奈美が来て座った。
彼女の胸には正臣が送ったペンダントが光っていた。
奈美がペンダントを示して、
「これ、有難う」
と言った。
「気に入ってくれたら、嬉しいけど。それより奈美ちゃんは、大学も男の子がいない大学に行くんだね。東京に行ったら、変な男に引っかからないように気を付けなよ」
正臣は妹の友達だった小さい頃の奈美と話しているような気になってそう言った。
「尚ちゃんのお兄さんは、東京に出てくることがありますか?」
奈美がそう聞くので、正臣は、
「今は分からないけど、どうして?」
と言った。すると奈美は、
「若松じゃ噂になるから駄目でも、東京だったら会えるでしょう。私、尚ちゃんのお兄さんといっぱいお話がしたいの。本当言うと私、尚ちゃんのお兄さんと一緒に・」
後の方はよく聞き取れなかったが、正臣は自分にとって大切な少女だと思っていた奈美がそんなことを言うとは思ってもいなかった。
正臣は、
「分かった。東京に行くことがあったら、奈美ちゃんに連絡するよ」
と返事した。
しかし、その頃に起こった母親の誤解による小百合とのごたごたで、正臣は奈美とのその約束をいつしか忘れてしまった。
さて、正臣が九工大の大学院修士課程の二年生だった冬に話を戻そう。
正臣は奈美のお父さんとブランデーを飲みながら、大学院での研究のことや当時の社会情勢について話をした。奈美のお父さんは正臣のことを気に入ったようで、
「河村のお坊ちゃん、うちには娘が三人いる。今度うちに遊びにいらっしゃい。そしたら、お坊ちゃんの前に娘を三人並べて見せてあげる。その中に気に入った娘がいたら、それをお坊ちゃんに上げる」
と言った。
正臣は、奈美のお父さんのその言葉に驚いたが、
「犬や猫じゃあるまいし、そんなことをおっしゃってはいけません。お嬢さん達が可哀そうですよ」
とやんわりとかわした。
その時、近美小百合はすでに他家に嫁いでいたので、
「それでは、奈美さんを僕にください」
と言うこともできたのだが、正臣は、それにはやはり奈美の気持ちを確かめてからという思いがあった。
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