第2話 高校1年

 正臣は、若松東高に入って良かったと思えることがあった。

 それは、それまでの正臣は『家に自家用車があり、お手伝いさんがいるのが当たり前』と思っていたが、それは当たり前ではなく、自分が恵まれた環境で育ったということが認識できたことである。


 若松東高は一学年十クラスで、一つのクラスが五十人という、当時としては普通の規模の高校であった。

 なに分、人口約十万人の若松の町に一つしかない普通高校なので、若松区内の六つの中学から様々な目的を持った生徒が集まっていた。

 そして、一年生の間は十クラスがすべて男女クラスで、二年になると五つのクラスが男女別クラスになるというクラス編成をとっていた。

 

 高校でも真樹と同じクラスになりたいという正臣の願いは叶わず、正臣と真樹は違うクラスになった。

 

 高校に入学して二か月も経たない内に真樹が髪形を変えた。

 中学までは髪をまっすぐ肩まで伸ばした髪形だったのに、ある日から真樹は、左右から編み込んだ髪を後ろでまとめて、そこに紺色のリボンを付けて高校に来るようになった。

 

 何も知らない正臣は、登校途中の真樹に、

「お早う、髪形、変えたね」

 と話しかけた。

 すると真樹は返事をせずに、正臣から話しかけられたことが迷惑だと言わんばかりの顔をした。

 

 正臣が真樹に避けられたのは、それが初めてであった。


(いったい、何があったのだろう?)

 紅葉中学時代からの友人で、真樹と同じクラスにいる川口に真樹のことを聞くと、

「高良真樹さんは高党中学出身の和田に好きだと告白されて、和田と付き合う約束をしたそうだ」

 ということだった。


(和田と言えば、体が大きいだけで、あんな奴のどこがいいんだ)

 正臣は胸が張り裂けそうな感情を覚えた。


(真樹は、ずっと僕のそばにいてくれるものと思っていたのに)

 それは幻想だったのかと正臣は思った。

 

 正臣は、失ったものの大切さは失ってみなければ分からないということを知った。そして正臣は、真樹と一緒に写っている写真をすべて庭にあった焼却炉で燃やした。

 


 高校一年の夏休みの前に、正臣は職員室の横にある階段で可愛い女の子とすれ違った。

 彼女とすれ違いざまに正臣は、

(この高校には、こんなにも可愛くて、きれいな娘がいるんだ)

 と思った。

 それはちょうど、正臣が真樹に振られて間もない頃であったが、いわゆる一目ぼれであった。

 階段ですれ違った彼女の胸の名札には「近美」とあった。

 正臣と同じ一年生だった。

 正臣は、その日以降60年間、彼女に恋をし続けた。


            ――― 由美 ―――

 

 高校受験から解放された高校一年の夏休みは、青春の始まりという時期だった。

 特に出身中学が違う友達との交流を目的とした遊びの計画がいくつか立っていた。


 男女混じっての海水浴やキャンプや登山も、グループ交際なら許されるという暗黙の了解があった。


「河村、七月三十日に海水浴に行かんね。女子も何人か来るぞ」

 高校に入って友達になった芦田が正臣を誘ってくれた。

 

 その頃は携帯電話がなく、集合場所や時間は前もって決めておく必要があった。

 計画では、福岡県下でも水質の良い海水浴場として知られている脇田海水浴場に十二時に集合し、食べて、泳いで、花火をして解散するというスケジュールであった。

 

 正臣は、『女子も来る』という芦田の言葉に、

(近美さんが来ればいいのに)

 と期待して、その誘いに乗った。

 

 正臣の期待は外れたが、男女、五対五の海水浴はとても楽しかった。

 

 正臣は海の家のメニューにあったマルタイラーメンと女子が作ってきたおにぎりを食べ、準備運動をして海に入った。

 正臣はもともと海が好きで、釣りや素潜りが得意だった。


 水中眼鏡にシュノーケルを付け、手作りのやすを持って海に入り、女子には目もくれずに魚突きをしていた正臣に一人の女の子が話しかけてきた。


「河村君、何しているの? 一緒に泳ごうよ」

 青い水玉模様のワンピースの水着を着たその女の子は、京南中学出身の大野由美だった。

 

 彼女は髪の短いボーイッシュな顔立ちの女の子だったが、それはそれでとても魅力的だった。と言うよりも、正臣の目から見て、その日に来た女子の中では一番かわいい娘であった。

「分かった。これを海の家に置いてくるから、この辺で待っていて」

 正臣は由美に持っていたやすを示して海から上がった。

 

 素潜り用具とやすを海の家に預けた正臣が浜辺に戻ると、由美は白い砂浜の波打ち際で正臣を待っていた。

 正臣は、由美の水着の立ち姿をとてもまぶしく感じた。

「泳ぐぞ~」

 正臣はそう掛け声をかけて、由美と一緒に海に入った。

 

 正臣はクロールだけは下手だったが、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライ、横泳ぎ、立ち泳ぎと、いろんな泳ぎ方を由美に見せた。


「立ち泳ぎって、どうやるの?」

 と、由美が聞くので、

「手でゆっくり水をかきながら、足を海の中で蹴るように動かすんだ」

 正臣がそう教えると、

「やってみるね」

 由美はまねをしたが、上手くいかなかった。

 

 正臣は、そのまま海に沈みそうになる由美の両腕をつかんで彼女を海から引き上げた。その拍子に、海の中で二人の体が密着した。

 

 若い二人にとって、それは雷に打たれたようなショックであった。

 

 正臣は思わず右手で由美の腰を抱き、彼女の下半身に自分の下半身を押し付けた。

「あっ」

 由美は小さな声を上げたが、正臣と水着越しに性器が触れ合うのをこばまなかった。

 正臣には彼女の目がみるみる潤んでいくのが分かった。

 

 正臣は、あわてて彼女から離れた。正臣が若い女性の体に触れたのは、それが初めてであった。

 

 由美は何事もなかったかのように、

「喉が渇いた」

 と言った。

 由美がそう言うので、二人は海の家に戻ってバヤリースを飲んだ。

 

 由美はそれを飲み終えると、

「また泳ごう」

 と言って、海にかけていった。


 正臣は後を追わないと彼女を誰かに取られそうな気になって、由美の後を追った。  

 彼女とはその日初めて会ったのに、何故そう思ったのか、正臣には理由はよく分からなかった。


 正臣と由美は、今度は疲れるくらい泳いだ後、脇田海水浴場の防風林の中に入った。そして二人は、防風林の中にあった人目につかない神社の松の木の下で腰を下ろした。

 どうしてそんな所に行ったのか、正臣と由美には理由はよく分からなかったが、とにかく誰にも見られない所で、二人きりになりたかったことだけは確かだった。

 

 正臣は落ちていたビニール袋をお尻の下に敷いて、足を投げ出して座った。

 その横で由美は、膝を抱えて体育座りをした。

「河村君、彼女いるの?」

「いたけど振られたから、今はいない」

「誰に振られたの?」

「そんなこと、いいだろう。それより、彼氏いるんだろう?」

「ううん、いない」

 

 男女間でのお決まりのせりふから始まって、お互いの小学校や中学の話、友達の話をした。よく行くお好み焼き屋や本屋は一緒でも、共通した友達はいなかった。

 

 話が途切れた時、由美が右手で松の木の根本に「の」の字を書いて、正臣の肩に頭を付けてきた。それは、当時テレビで流行っていたラブコメディーの主役の女性が口づけを待つ仕草であった。

(えっ)

 驚いた正臣が由美を見ると、彼女は目を閉じていた。

 

 若い正臣の視線は、すぐに由美の水着の股間に移った。

 そこだけ水玉模様が付いていない由美の水着のその部分の布地は、彼女のそこの形をリアルに映し出していた。

(ヘアースタイルは男の子みたいだけど、体はちゃんと女なんだ)

 そう思うと同時に、正臣は自分のものが大きくなるのを感じた。

 

 両親から男女交際について厳しく言われていなかったら、正臣はその場で由美と一緒になっていたかもしれない。

 

 海の中での出来事を含めて、若い二人の行動と体の反応は、パブロフ流の条件反射の理論からして当然の事であった。

 好ましいと思った異性と水着越しとは言え、お互いの性器がくっついたら、「このままこの人と結ばれたい」と思ってもそれは致し方ないことである。

 人間以外の動物なら、そのまま交尾に至ることがある。

 しかし人間がそうしたら、それは間違いなく「野合」である。

 お互いの価値観や将来何を目指しているか、この人のためなら人生を変えてもいいと思えるか、それが確定しない限り、それは恋愛とは言えないのである。


「そろそろ花火の準備を始める頃なので、海の家に戻ったほうがいいね。僕はもう少し魚を追っかけたいから、大野さんは先に海の家に帰っていて」

 正臣は由美にそう言って立ち上がり、海に向かった。

 

 やすも持たずに魚を追っかけるなんて嘘っぱちだが、由美にはそう言うしかなかった。


 花火の開始予定時刻は、午後六時半だった。

 それまでには皆、水着から私服に着替えたが、北九州の夏の午後六時半は、昼間とあまり変わらない明るさだった。それでも帰りのバスの時間の関係で、正臣達は予定通りに花火を始めた。

 

 女子の多くは火の粉が激しく吹き出る花火を怖がって、「キャー、キャー」と騒いだが、由美だけはどんな花火も怖がらずに、花火を手に持って回して楽しんでいた。

 

 花火が終わって若松の町に帰るバスの時間が近付いた時、由美がバス停で、

「河村君、家まで送って」

 と言った。

 正臣は帰りは母親に車で迎えに来てもらうことになっていた。そして、母親に迎えを頼んでいた時間は、すでに少し過ぎていた。

 

 正臣が由美の頼みをどうやって断ろうかと考えていた時、母親の車が到着した。


「正臣ちゃん、たった一日ですごく焼けたわね。あら、お友達? どこまで帰るの? 乗っていけば」

 

 正臣は母親の言葉に驚いたが、

「僕の母さんが乗っていけって言っているから、乗れよ」

 正臣はそう言って、車の後ろのドアを開けて由美を乗せた。

 そして正臣は、助手席に座った。


「かわいいお嬢さんね。お家はどこ?」

 と聞く母親の言葉に、正臣は彼女の家がどこにあるか知らないことに気付いた。

「有難うございます。家は波打町です」

 という由美の返事に、

「あら、うちのお父さんの会社の近くね。それなら、分かるわ」

 正臣の母親は、そう言って車を出した。


 車を運転しながら、正臣の母親は由美にいくつか質問をした。

 正臣は母親の質問に対する由美の答えで、彼女のことを結構知ることができた。


 由美を彼女の家の前で降ろして正臣達は自宅に帰り、夕食になった。

 夕食を食べながら、正臣の母親は父親に由美のことを話した。

 正臣の父親はその話を聞いて、

「良かったな、正臣。新しいガールフレンドができて。なかなかいい娘みたいじゃないか」

 と言った。

 

 正臣の母親は、真樹に振られて落ち込んでいる息子を元気づけようとしているだけではなく、由美のことを気に入ったようであった。


 

 高校一年の夏休みの間に、正臣と由美は小倉にある到津遊園地でのピクニックや八幡の皿倉山からの夜景見物、そして若松の高塔山の花火大会に行った。

 それらはいずれも海水浴の時と同じメンバーによるグループ交際だったが、夏休みが終わる頃には、グループ内でのカップルがだいたい決まっていた。

 

 花火大会に由美は、青い浴衣を着てきた。

 由美にとってそれは花火大会のための精いっぱいのおしゃれだったが、正臣は、

(ボーイッシュな由美に浴衣は似合わないな)

 と思った。


 由美は正臣に寄り添い、

「あっ、菊だ」

「今度は、柳よ」

 と、目をキラキラさせて、正臣に打ち上げ花火の名前を教えた。

 

 花火大会が終わった後、正臣は由美を彼女の家まで送って行った。

 由美の家に着いて、

「じゃ、バイバイ」

 と正臣が言うと、由美は、

「河村君、それだけ?」

 と言った。

 

 正臣はその言葉が聞き取れなかったふりをして、もう一度手を振った。

 

 由美は可愛くて、とてもいい娘だが、東高にはもっときれいな女の子がいることを知っていた正臣は、恋人を決めるのは時期尚早じきしょうそうだと思っていた。

 

 

 夏休みが終わって二学期になると、正臣はクラスが違う由美とはほとんど会わなくなった。

 それでも正臣はときどき、放課後の校庭を走る由美を教室の窓から見ていた。

 由美は足が速く、京南中学時代から短距離走の選手をしていた。高校生になった由美は、ときどき戸畑にある鞘ヶ谷陸上競技場に走りに行っていた。それは、「高校総体に出場する」という彼女の目標のためであった。


「足が速くて、よく走っているのに、どうして部活は人形劇部なのだろう?」

 正臣はその理由を由美に聞けないままであった。


 一方、夏休みの前に階段ですれ違ったきれいな女の子は近美小百合といい、幼馴染みの彼氏がいるということだった。しかし正臣は、うまくやれば近美さんと友達以上の仲になれるだろうと思っていた。

 正臣自身、幼馴染みの高良真樹に振られたのだから、正臣は『娘心は秋の空』だと思っていたのである。

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