四 愛しい人へ

 黒い水面の上を歩く。歩くたびに金色の波紋が広がり、波紋から広がった光の環は星のように、きらめきながら消えていった。

 つむぎは水たまりの上を歩く幼子のように、足元を見ながら、歩くたびに現れる金色の波紋を見つめていた。重なり広がる金色の波紋をたてながら、紬は旗を手に歩いていた。

 そしていくつもの金の波紋を見送ったとき、頭上からの声で、ぼんやりとしていた紬は我に返った。

「全く無謀なことをするものよ」

 紬が顔をあげると、そこには大きな石積みの上に座る〈なにか〉がいた。幾重もの白い布をまとった〈何か〉は紬を見おろしながら言った。

「地面とは、よくぞ気づいたものよ。理解していても怖いだろうに」

 鈴の音にも似た軽やかな声が紬を包む。

「ここは……?」

 紬が周囲を見回すと、〈何か〉は答えた。

「ここは〈死繋之道しつなぎのみち〉。そなたの国の言葉で言うならば、黄泉平坂よもつひらさかであると言ったほうが分かりやすいだろう」

「私……死んだのですか?」

〈何か〉はなにも言わなかった。紬を見おろしたまま、たたずんでいる。そうして、しばらくした後、〈何か〉は大きく長いため息をはいた。

「そなた、足音がせぬな」

 紬は、〈何か〉に言われたことで、今更ながら違和感に気づいた。色々あって忘れかけていたが、自分の足音が聞こえないのだ。

「……〈異世いせくに〉にくわえて〈ふたつたましい〉か。ならば、足音のせぬ限り、まだ、死なぬ」

 長いため息をはいたわりに〈何か〉は楽しそうに言った。そして続けた。

「〈ふたつ魂〉。なんと懐かしき響きよ。ああ、〈異世の国〉の〈神風の子〉。そなたの行く道に恩寵のあらんことを切に願わん」

〈何か〉の体から白い衣が一枚、はがれたかと思うと、白い衣は紬の手首に巻きついた。目を丸くする紬に〈何か〉は言った。

「迷うなよ。これは行きて帰りし物語であることを忘れるな」

 鈴の音にも似た声が笑っている。笑い声は金色の波紋となって、波のように紬の足元まで広がった。金色の波紋は紬の足に当たると千々に千切れ、やがて星のように細やかな粒となって紬の周りに広がった。

 そして爆ぜるように星が周囲に広がると、紬は星の光のまぶしさに目を開けていられなくなった。

 ――つむぎ。

 自分を呼ぶ優しい声で、紬はそうっと目を開けた。目の前には、ゆらがいて、不安そうな表情で紬を見つめていた。

 紬はまたたきながら、周囲を見た。〈何か〉の姿はどこにもなかった。

「紬。あなた、〈布吊ぬのつり〉様に会った?」

 ゆらに問われて、紬は首をかしげた。

「ぬのつり様?」

「白い布を幾重にも重ねた、あちらの国の神様」

 幾重もの白い布をまとった〈何か〉の姿を思い浮かべた紬はうなずいた。

「会った。……でも、追い出されたみたい」

 紬の言葉を聞いてゆらは安堵の笑顔を浮かべた。

「ゆら?」

 ゆらは首をふった。

「それでいいの。よかった……」

 ゆらは、そう言って紬を抱きしめた。不思議な心地だった。同じ顔で生まれ変わりのはずなのに、どこか家族のような心地がする。

「ゆら……」

 自分を抱きしめているゆらの手が震えていることに気づいた紬は、ゆらの背中に旗を持っていないほうの手を回して、優しく叩いた。

「ごめんね。ごめん。つむぎ」

「ううん。案外、楽しかったよ」

 紬とゆらは、たがいに体を離すと、見つめあった。

「不思議ね。同じ顔なのに、まったく違う」

 ゆらの言葉に紬はうなずいた。

「同感」

 そう言って紬とゆらは笑顔になった。そうしてゆらは不思議そうな表情で紬を見た。

「ねえ。つむぎ。あなた、どうして私が暗闇の中に残されること、分かったの?」

 紬はゆらの言葉に少しすねた顔をすると、次に呆れた表情になった。

「ゆらは、自分のことは二の次だから」

 紬が呆れた表情のまま微笑むと、ゆらは泣きそうな顔で微笑んだ。

 声が聞こえたのは、そのときだった。

「ここ、は?」

 屋隈やくまの声だった。紬とゆらは声のするほうに顔を向けた。

 ゆらに気づいた屋隈は、ぼうぜんとしていた。屋隈はぼうぜんとしたまま、ゆらに近づいた。

「久しぶり。屋隈」

「ゆら……?」

 屋隈はおそるおそる、ゆらに手を伸ばした。ゆらの頬に触れた屋隈の右手の上から、ゆらが手を重ねた。

 屋隈は泣きそうな、なんとも言えぬ表情を浮かべていた。

「どうして……あなたは……」

 言葉につまった屋隈の目が涙の膜をはった。屋隈は、こぼれ落ちそうな涙を閉じこめるように目を閉じた。

 なにも言えずに目を閉じた屋隈を、ゆらは、金色の目で見つめていた。

「ごめんなさい。屋隈……」

 ゆらの声は震えていた。

 そこから、二人は言葉をかわすことなく、ただ、向かいあうだけだった。

 ゆらと屋隈の足元から生じる金色の波紋が、二人の心を表すように広がっていた。

 屋隈は目を開けると、ゆらの頬から手を離した。名残惜しそうに、たがいの手が離れる様子を紬は見守っていた。

「ゆら……?」

 声のするほうに紬は顔を向けた。そこには、ゆらの名を呼んだ蓮香はすかと、日納ひのう顕谷あらやがいた。

 蓮香は目を大きく開くと、無言でかけだした。

 蓮香の手はゆらに伸ばされ、そのまま、ゆらを強く抱きしめた。蓮香は一度、体を離すと、ゆらに問いかけた。

「ゆら? ゆらなのね?」

「蓮香。うん。私」

 ゆらがうなずくと、蓮香は再び、ゆらを抱きしめた。

 ゆらが蓮香の背中に手を回すと、蓮香の目から涙があふれだした。声を殺して泣く蓮香をなぐさめるように、ゆらは背中を優しく叩いた。

「ゆらか? それにしちゃ、幼く見える、ような……」

 顕谷が言いながら、こちらに向かって歩いている。日納もとまどいながら、後に続いた。

「蓮香。そろそろ離れな。ゆらが困っている」

 日納に言われ、ゆらを抱きしめていた蓮香は、名残惜しげにゆらから離れた。ゆらは蓮香を、顕谷を、日納を、そして最後に屋隈を見て、悲しそうにほほえんだ。

「もっと一緒にいたいけど、もう、時間がないの。このまま聞いて」

 ゆらは、紬を見た。

 紬もゆらを見つめ、そして、たがいにうなずきあった。

 ゆらは視線を闇に移した。紬も同じように、ゆらの向ける闇へと視線を移した。

「〈光和こうわ〉様。そちらに、いらっしゃるのでしょう?」

 ゆらの声に導かれるようにして、闇から、ぬらり、と人の形が見えた。

 くすんだ灰色の髪、濁った金色の目。褪せた黒い肌、ボロボロになった黒い軍服を着ているその人は〈光和〉だった。〈光和〉は力のない声で言った。

「よく……私を見つけてくれました」

〈光和〉は見るもやつれていたが、とても美しい顔をしていた。〈光和〉はゆらと紬の前に立つと、ゆっくりと口を開いた。

「〈神風の子〉よ。私の犯した罪によって、長いこと、そなた達を苦しめたことを謝罪させてほしい」

 そうして頭をさげた〈光和〉を前にゆらと屋隈達は慌てていた。

「〈光和〉様! おやめください」

 だが、〈光和〉は頭をさげるのをやめなかった。

「私は最早、そなた達の神ではない」

 静かな声にゆらは息をのんだ。

「……百年。よくぞ百年もの間……」

〈光和〉は頭をさげたまま、声を震わせ、言葉をつまらせた。

 まるで人のような〈光和〉を紬は黙って見つめていた。

 やがて、〈光和〉が頭をあげると、ゆらは〈光和〉に問いかけた。

「〈光和〉様。ここに来た、いきさつを彼らに説明したいのです。いいでしょうか?」

〈光和〉がうなずいたのを合図に、ゆらは、屋隈達のほうへ顔を向けた。

「私が、〈ふたつたましい〉になった理由は、〈光和〉様に会うためだった。……〈光和〉様に繋がる道を開くために、生まれ変わりの紬の体を使って、〈ふたつ魂〉になることが目的だった」

「……どういうことだ?」

 困惑した声をあげる屋隈にゆらは答えた。

「世界を重ねるの」

 ゆらはそう言って、手のひらを重ねあわせた。

「〈日重ひかさなり〉と〈日欠ひかけ〉。つまり、天にふたつ浮かぶ〈〉の再現をするための〈ふたつ魂〉。紬を本物の〈日〉とするならば、私は、にせものの〈日〉。そして本物の〈つき〉が光和様ならば、にせものの〈月〉が災厄。〈日重なり〉と〈日欠け〉が重なる日に道は開かれる。そのための〈ふたつ魂〉だった。でも……危険な行為だった。なぜなら、口伝で伝えられても、実際にその道を開いたことがある人は、もう、この世に生きていない」

 紬は〈布吊〉と呼ばれる〈何か〉の言っていた言葉を思い出した。

『〈ふたつ魂〉。なんと懐かしき響きよ』

 つまり、過去に一度、道を開いたことはあったのだ。

「それでも、これしか方法がなかった。紬を利用してまでも……私は、いえ。自分がそうすると決めたの」

「だからって……どうして、死んだの……?」

 蓮香の震える声に、ゆらは答えなかった。代わりに答えたのは〈光和〉だった。

「それは、私のせいだろう」

〈光和〉の言葉におどろいたのは屋隈だけではなかった。顕谷と蓮香、日納も同じようにおどろいていた。

「……百年前、私は〈神風の子〉を護るために人を殺してしまった。血の穢れという言葉を私は信じていなかったからだ。……だが、それは間違いだった」

〈光和〉は自分の手を見た。褪せた黒い手を見つめながら、〈光和〉は声を落とした。

「私は、殺された。本来なら、死んだ私の魂は地へと還り、新たな命を空へと繋ぐはずだった。その循環を、私が壊したのです」

〈光和〉は濁った目を閉じた。

「神の生き方を、私は真に理解しなかった。神には神の、人には人の道理がある。このふたつは決して交わってはならない。私は人に仇なす災厄となり、護りたかったはずの〈神風の子〉を危険にさらす存在となったのです。あらがうほど、国は欠け、〈神風の子〉は私のけがれで死んでいく。これは私の罰となりました。神たるならば人の道理に入ってはならない。そのことを、私は最初から、理解しなければならなかった」

〈光和〉は目を開けた。濁った目は少しずつ、霧が晴れるように澄んでいった。

「神の生き方に背いた私の罰は、災厄となって現れた。災厄は、人の形をしている。それは国の記憶……私の記憶そのものだからだ」

 紬はひとつひとつ違う災厄の形を思い出した。人にとっても、神にとっても、なんてむごい罰だろう。

 人の道理は神の道理にあらず。神の道理は人の道理に非ず。このふたつは決して、交ざってはならなかったのだ。

「……ゆら。あなたは、分かっていたのか」

 屋隈の問いかけに、ゆらは、うなずいた。

「〈神風の子〉として役目を得たときから、分かっていた。〈光和〉様はまだ生きていて、災厄となってもなお、この国を護ろうとしていたことを、百年前の〈神風の子〉は理解していた。でも、神風を吹かせるということは、〈神風の子〉の体を使って、穢れを浄化し、空に還さなければならない。土から出で、天に還ることで災厄を消す……。簡単に言えば、ろ過。穢れは〈神風の子〉の体の中に留まり、命を削っていく。それでも、〈神風の子〉が役目をまっとうしたのは、〈神風の子〉を護り、人の道理に組みこまれた〈光和〉様に報いる唯一の贖罪だったから。そうして次の〈神風の子〉へと受け継がれ、最後の一人が私となってしまった」

 ゆらは、さみしそうにほほえんだ。

「私は、役目を知ったとき、本当なら、あなた達から離れるべきだった。いずれ死にゆく命なら、屋隈。あなたの気持ちに答えてはならなかった……。でも、できなかった」

 ゆらの目から涙が零れ落ちる。

「私は、あなた達から離れたくなかった」

 ゆらの悲痛な声ごと、屋隈はゆらの体を包むように抱きしめた。

「私は、あなたを愛したことを、後悔はしていない」

 屋隈の声にゆらは涙を零した。ゆらは屋隈の背中に手をまわすと、すがるように抱きしめた。

「本当は、死にたくなかった……っ」

 その声に応えるように屋隈はゆらを強く、抱きしめた。

「もっと……生きたかった……っ」

 ゆらと屋隈を、蓮香が上から抱きしめる。そうして顕谷が、日納が、包むように抱きしめた。

「ゆらの馬鹿……私だって、あなたにもっと、生きて欲しかった。もっと、生きて、色んな所に行きたかった……!」

 蓮香がゆらと屋隈の背中を縋るように握りしめた。

「俺だってそうさ。ゆら。お前に生きて欲しかったよ。例え、災厄が終わらなくても、俺はお前が生きていることが大事だったんだ」

 顕谷の目から涙が零れ落ちる。

「私もだよ。ゆら。あんたの覚悟を無下にするようなことを言うけどね、災厄で死んだとしても、あんたの命が助かるなら、後悔なんて、しなかったよ」

 日納の声は震えていた。

 そんな四人の姿を〈光和〉は静かに、ながめていた。

「私は、神失格だ」

〈光和〉の悔しそうな声を、紬は、手のひらでつつむように受け止めた。

「そうでしょうか?」

 紬は〈光和〉を見た。〈光和〉は目を開いて紬を見つめている。その目は透きとおった金色の目に変わっていた。

「神様に対して言うことではないですが、〈光和〉様は、それでもあらがってこられたのでしょう?」

「なぜ、そう思う?」

「……災厄であるならば、神風など、吹かないからです」

〈光和〉の髪が、白く輝く。黒い世界の中で白い髪はあわく光り、風に揺れていた。

「そなた、よく災厄が私だと分かりましたね……?」

 紬はうつむいた。

「それは、私が、この国の人間ではないからです」

〈光和〉は、はっと息をのんだ。

「この国の人間にとって、あなたは神様であり、災厄などと思いはしないのです。〈光和〉様が神失格だと言おうとも、この国の人達にとっての神様は、〈光和〉様しかいないのです」

 紬の言葉に〈光和〉はぼうぜんとしていたが、やがて、辛そうにほほえんだ。

「ならば、なおさらに私は、神の道理を、守らねばならなかった……」

 そうして〈光和〉は紬に向けて言った。

「次の〈光和〉に記憶を引き継ぐとき、どうか、神の道理を守ることをここに誓おう」

「……はい」

「紬。そなたに頼んでもいいでしょうか?」

「え?」

「次の〈光和〉が、神の道理から外れそうなとき、あなたが〈光和〉を止めて欲しいのです」

 紬はおどろきながらも首をふった。

「〈光和〉様。私は、〈異世いせくに〉の人間です。確かな約束は交わせません」

 だが、〈光和〉は、ほほえんだ。

「あなたはいずれ、また、こちらに来ます」

〈光和〉はそう言うと、紬から離れた。〈光和〉の動きに呼応するように、黒い水面が揺れて金色の波紋が広がっていく。

 日納が、顕谷が、蓮香が、屋隈がゆらの体から離れると、ゆらは紬に向かって歩いた。

「紬。旗を」

 紬はうなずいて、旗をひらくための飾り紐に手を伸ばした。

 そうして旗をひらいた紬は、風のない暗闇の中で浮かぶ、〈光和之国〉の墨色の旗を見あげた。風がないのに旗は紋様を見せるようにひらめいている。

 紬は旗から〈光和〉へと視線を移した。紬は〈光和〉を見て、息をのんだ。〈光和〉の姿が神々しく変わっていたからだ。

 黒い肌、黒い軍服を着た〈光和〉は、闇に溶けこむことなく、体の内側から発光するかのように輝いていた。

「つむぎ」

「ゆら」

「あなたが、神風を吹かせるの」

「え?」

 目を丸くした紬に、ゆらは、ほほえみを見せた。

「つむぎ。これは、生きているあなたにしか、できないの」

 紬は、息をのむと、うなずいた。ゆらも同じようにうなずくと、紬にしか聞こえないように、言うべき言葉をささやいた。

 紬は、旗竿を強くにぎりしめると、深く、息をした。

 そうして紬は、ゆらから教えてもらった言葉を口にした。

「ひいふうみいよういつむなや、ここのえとのみちゆらゆらと——神の通りの風よ吹き渡れ」

 地面から風が生まれ、風は光をはらみながら、〈光和〉の体を包みこんだ。

〈光和〉は紬とゆらを見て深く頭をさげると、最後に屋隈を、蓮香を、顕谷を、日納を見た。

「――今後、人の道理に手を出すことはしないとここに誓おう」

 屋隈達は〈光和〉に応えるように敬礼した。

〈光和〉は美しくほほえむと、目を閉ざした。〈光和〉の体は一瞬にして光の粒となり、爆ぜるように消えていった。

 闇の中で金色の流れ星が、次から次へと流れて、落ちていく。

 尾を引くように落ちる流れ星を紬は、ながめていた。

「つむぎ」

 大人びた声に紬は顔をあげた。そこには、同じ年頃のゆらではなく、大人になったゆらが立っていた。

「ゆら……?」

 ゆらは、やわらかくほほえんだ。

「ありがとう。これで、心置きなく消えることができる」

 紬はとっさに口を開いた。

「ゆら。あなたも」

 言ってから、紬は言葉をのんだ。そうして、くちびるをかみしめた紬は、首をふった。

「ううん。元気で」

 紬のせいいっぱいの言葉だった。ゆらは目をうるませると、子供のような笑顔を見せた。

「うん」

 そしてゆらは、屋隈に視線を移した。

「……屋隈。最後にわがままを言ってもいい?」

 屋隈は、ゆらをまっすぐに見つめてから、答えた。

「ああ」

「ずっと、私を好きでいて。誰のことも、好きにならないで」

 屋隈はおどろきながらも、力強く応じた。

「ああ。約束しよう」

 ほほえんだゆらは、屋隈の下に走った。屋隈は両手を広げて、ゆらを受け入れると、優しく抱きとめた。

「屋隈。ずっと、愛している」

 ゆらの言葉に屋隈は、ゆらを強く、抱きしめた。そうして体を離した二人は、ほほえみあった。そして、ゆらは、顕谷を、蓮香を、日納を見た。

「今まで、私と、一緒にいてくれて、ありがとう」

 最後に、ゆらは、紬を見た。

「紬。ありがとう。後は、お願いね」

 ゆらの体があわく光り始めたとき、紬は旗竿を強く、つかんだ。そして、祈り乞うように口にした。

「——神風よ、もう一度」

日見上花ひみかみ〉の花びらが足元から爆ぜるように舞いあがった。

 ゆらの体は光の粒となり、花びらと共に闇の中に溶け始めた。

 そのとき、紬は幼い頃の、約束を思い出した。あれは、声が聞こえなくなる前の日のことだった。

『ねえ。つむぎ。いつか、また、あおうね』

 あの日を境に、声が聞こえなくなったのだ。

(どうして、忘れていたのだろう)

 幼い声を思い出した紬は、ゆらに向かってさけんだ。

「ゆら! 私もいつか、また、あなたに会いたい!」

 紬の言葉におどろいたゆらは、ほほえむと、涙を流した。

 ——いつか、またね。

 ゆらの姿が消えたとき、肉厚で大きな、白い花びらが、紬を、屋隈を、顕谷を、蓮香を、日納を包みこんだ。

 花の香りが満ちて、周囲の闇を開くように足元が金の光に満ちたとき、〈日見上花〉の花びらが散るように、闇が晴れていった。

 花びらに包まれながら、闇が開いた足元の向こう、〈光和之国〉を紬は見おろしていた。

 屋隈も、顕谷も、蓮香も、日納も、生まれ育った国を見おろしていた。

 欠けて消えゆく国ではない。本来の国の姿を見つめながら、紬は涙を流していた。

 とめどなく流れる涙をそのままに、紬は元に戻った〈光和之国〉の姿を、地上に降り立つまで、ながめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る