第三章 また会う日まで
一 風にひらめく旗の色
そして珈琲を飲み終えた紬は、夢の中で見たこと全てではなく、神風が吹かないことをゆらに告げられたことだけを話した。
屋隈は無言で話を聞いていたが、その表情には動揺が見て取れた。
「……紬さん。ゆらは、俺に乗れと言っていたのか?」
「はい。顕谷さんに乗れば大丈夫だと、言っていました」
顕谷はそれを聞いて、あごに手を当てた。
顕谷の向かいでは日納が険しい表情を浮かべている。それに気づいた顕谷が日納に声をかけた。
「おい。日納。なにかあるのか?」
顕谷に問われて日納は一瞬、ためらいの表情を見せたが、間を置かず、すぐに答えた。
「顕谷。あんたなら分かるだろう? ……ゆらは、おそらく、なにかをたくらんでいる」
日納の言葉に紬は内心、おどろいていた。
顕谷は目を丸くしたが、すぐにうなずいた。日納は続けた。
「ゆらは、自分の命は、二の次なところがある。
「ちょっと、それ、初耳なんだけど……」
蓮香が不満の声をあげると、日納は悪いな、と続けた。
「ゆらとの昔からの約束だったからね。あんた達には言わなかっただけだよ。それよりも……あんた達にここで聞いておきたいんだけどね、ゆらが、わざと、死んだってことはないかい?」
静寂が一瞬にして満ちる。
「お前……なにを……」
とまどう顕谷に対して、日納は冷静だった。
「……あんた達だって、おかしいと思わなかったのか。一年前、ゆらが死んだとき、ゆらは、さけられなかったんじゃない。さけなかったんだよ」
「日納。これ以上は、やめてちょうだい」
蓮香のとまどう声を払うように日納は続けた。
「蓮香。私達は、災厄が降り立つまでの間、災厄に手を出せない。でもね、災厄からの攻撃は物理で防ぐことができる。なのに、ゆらはあのとき、なにをした? そのまま、災厄からの攻撃を受け入れたんだよ。当時、ゆらの自殺がうたがわれたんだ。ゆらを殺したあの災厄が、ゆらの知っている人の形をしていたから、ゆらは手が出せなかったと思われたからだ。でも、違う」
紬は日納が言ったことが引っかかった。
(災厄が、知っている人の形をしていた……?)
なおも続けようとする日納を顕谷が止めた。
「日納。もう、言うな」
だが、日納は引かなかった。
「顕谷。もう、これは私達の問題じゃない。紬さんだって巻き込んでしまっているんだ。あんただって分かるだろう。〈ふたつ
「それでも、言葉を考えろ。残された屋隈の気持ちはどうなるんだ」
日納は斜め向かいに座る屋隈に視線を移した。
「屋隈。あんたはどう思う?」
「お前……」
屋隈に問いかけた日納に顕谷はとまどいの声をあげた。
「顕谷」
なにかを言おうとした顕谷の言葉を屋隈が止める。うつむいていた屋隈は顔をあげて日納を見た。
「……ゆらなら、やると思う」
「屋隈……」
「いいんだ。顕谷。私達は、ゆらが死んでから、あの日のことについて、話をしたことがないだろう。目をそむけて、なかったことにしたかった」
だから、と屋隈は続けた。
「日納の言っていることは、分かる。私はゆらが死ぬのを目の前で見ていた。……あのとき、ゆらは、ほほえんで、私に謝ったんだ」
屋隈は諦めたような口調で言った。
屋隈の話を聞きながら、紬は今日の夢を思い出していた。ゆらは、有無を言わせない強引なところがある。そうまでしても〈ふたつ魂〉になることを選んだ理由を、紬は、ゆらから聞けていない。
『いいかい。重なるんだよ』
紬は
〈
物思いにふけっていた紬は、がたん、と椅子を引く音で我に返った。紬が顔をあげると、蓮香が立ち上がったところだった。蓮香は無言でその場から離れると、ホールへと出る扉へ歩いた。屋隈家の執事が扉を開けると、そのまま外に出て行ってしまった。
「屋隈……せめて、蓮香には言っておいたほうが……いや、違うな。俺が言うことではないな……」
顕谷は深く息をはいて、背もたれに寄りかかった。
「悪い。言えなかった。……言いたくなかったんだ」
顕谷は無言で屋隈の肩を叩き、つかんだ。
紬は彼らの中で、ゆらの存在はあまりにも大きいのだということを、つきつけられた。
だが、それ以上に、紬はさきほどの彼らの会話を聞いて、どうしても聞かなければならないことがあった。
「ひとつ、確認してもいいでしょうか?」
「どうされましたか?」
屋隈の顔を見たとき、紬は聞くべきか悩んだが、それでも口を開いた。
「災厄は、人の形をして降りてくる、と言っていましたよね?」
「ああ」
紬の問いかけに屋隈はうなずいた。紬は、さきほどの会話を思い出していた。
「ゆらさんが死んだときのことで気になる発言があったんです。日納さんは、災厄のことを、知っている人の形をしていた、と言っていました。もしかして、災厄は……皆さんの知っている人なんですか?」
紬の問いかけに、青ざめたのは日納だった。さきほどの発言を口にしてしまったことを悔いているのだろう。
紬は屋隈を静かに見つめていた。
屋隈はどこか困ったようにほほえむと、口を開いた。
「あまりいい話ではないので、あえて言わないつもりでした。でも、それは、あなたに対して不誠実でした。謝らせてください。申し訳ありません」
紬は首をふった。
「……災厄は、様々な形をして降りてきます。いずれも、この国で生まれた人々の姿を模しているにすぎません。つまりは、にせものです」
にせものと分かって紬は安心した。だが、それでも知っている人の形をしたものが攻撃してくるのだ。黒い姿をしていたとしても、知っている人を前にして、手を出すのは覚悟がいることだろう。
安心した自分を恥じて、紬がなにも言えずにいると、屋隈は優しいほほえみを浮かべていた。恥じた紬の気持ちをおもんばかるような、ほほえみだった。
「そうですね。にせものでも、気分のいいものではありません。知った人を前にして、動きが止まることもあります。……それでも、わりきらなければ、ならない」
屋隈はまるで、自分に言い聞かせているようだった。
「……すまない」
日納が声を落として、続けた。
「ゆらは、向こう見ずなところがあったから、もしかしたら……なにか目的があって、わざと死んだんだと決めつけてしまった。ゆらを殺した災厄は、ゆらにとって大事な仲間の形をしていたんだ。動きが止まることだって……」
日納は言葉をつまらせて、それ以上、なにも言わなかった。
『それでもゆらは、そうしなければならなかったんだろうよ』
三ノ緒とのやり取りを思い出した紬は、自分がゆらのことを知らないことに気づいた。
ゆらのことを知らなければ、三ノ緒の言っていたことを理解できないと思った。
「ゆらさんは、どんな人だったんですか?」
紬の質問に屋隈と顕谷は少し、とまどったようだった。
紬の質問に先に答えたのは、日納だった。日納は、ほほえみ、答えた。
「……高潔な人だよ。揺らがぬ芯を持つ人で、誰からも好かれていた」
「日納さんは、ゆらさんのこと、昔から知っているんですか?」
「ああ。かれこれ十九年かねえ。私と顕谷とゆらは幼馴染でね。私はゆらの家の関係で護衛をつとめていたんだ」
「護衛ですか?」
「そう。聯隊旗手候補は良くも悪くも狙われやすいんでね。同年代の私がゆらのそばにずっといたわけさ」
「屋隈さんと蓮香さんは、ゆらさんとはいつから?」
顕谷は屋隈を見ながら答えた。
「屋隈と蓮香は、幼年学校からだから、十四か?」
屋隈はうなずいた。
「一緒にいて、気負わなくて、楽しかった」
屋隈はそう言うと、ほほえみを浮かべた。
「確かに。でもゆらは、ああ見えて、力あったよなあ」
顕谷が言うと日納が答えた。
「顕谷を背負うくらい、余裕だった」
日納の答えに屋隈が笑うと、日納もつられて笑った。
「私を背負うのは無理だったけどねえ」
「お前、一番大きい上に筋肉で体重あるだろう」
顕谷が苦笑すると、日納はなんども小さくうなずいた。
「たしかに」
日納はうらやましかろう、と言わんばかりに鼻を鳴らした。
「お前なあ……」
顕谷はあきれながらも、どこか楽しそうだった。
「紬さん」
屋隈に呼ばれて、紬が顔を向けた、そのときだった。
「屋隈! 顕谷! 日納!」
蓮香があわてて食堂に入って来た。
「蓮香、どうした?」
「三ノ緒様が……避難するって」
紬以外の三人はとまどいの表情を浮かべながら、蓮香を見つめていた。
**
人の声があちこちにあふれている。紬は〈
「危ないよ」
ふっ、と紬の下に影が落ちる。紬は慌ててその場から離れた。三ノ緒は時計塔の真下に着地した。
「ぎりぎりだけど、間に合いそうだねえ」
三ノ緒は行き交う人々をながめながら、つぶやいた。
「三ノ緒様は、ここに残るつもりだったのですか?」
なんとなく分かっていたけれど、紬は問うた。
「そうだよ」
三ノ緒は悪びれることなく答えた。
「私は土着の神。この土地の神さ。おいそれと移動はできないのだけどね、ゆらに言われたのさ。まあ、ゆらを一度だけ、信じることにするよ」
三ノ緒はどこか嬉しそうな様子で、避難する人々をながめていた。
「それよりあんた、今日はなんとしても自分の身を護りなさいな」
「え?」
「初めての災厄だろう。昨日はめずらしく、空からなにも降りてこなかったからねえ」
「……あの、神風は吹かないときもあるのですか?」
「おや? あんた、聡いね。なんでそう思う?」
「ゆらさんが災厄で戦死したと、日納さんから聞きました。……つねに神風を吹かせられるなら、災厄で死ぬことはないと思ったので、不思議に思いました」
三ノ緒はにたり、と笑んだ。
「そのとおりだよ。そう。そのとおりさ。〈神風の子〉はね、あくまで神によりその力をさずかるものだからねえ」
話を聞きながら、紬は不思議そうに三ノ緒を見つめていた。
「おんや。不思議かい?」
「いえ。ただ……なにが違うのかと――」
「待ちな」
三ノ緒が鋭い声と共に空を見あげた。
「――まずいね。重なるよ」
紬は制服の胸ポケットから〈
「屋隈さん!」
「全員! 早く逃げな! いいかい! まちがっても欠けていくほうに逃げるんじゃないよ!」
三ノ緒の声が響くと、あちこちからどよめく声があがる。
「こちらへ! 早く!」
遠くのほうでは、誘導する軍人の声が聞こえた。
紬はもう一度、〈日見鏡〉を通して、空を見た。〈日〉は少しずつ溶けあい、ひとつになろうとしていた。
ふたつの〈日〉がひとつになったとき、紬はさけんだ。
「重なりました!」
ふっと天と地が真っ黒になり、人々の悲鳴があちこちであがった。
「落ちついてください! 災厄が来るまでまだ、時間があります!」
蓮香の声を聞きながら紬は〈日見鏡〉を制服の胸ポケットにしまった。そのときだった。
下から突きあげるような揺れが襲いかかり、紬の体が浮きあがった。
いくら時間が早まるとはいえ、ここまで早くなるものなのか、と紬は青ざめた。
紬はそのまま石畳の上に音もなく着地した。紬は前に転びそうになりながらも、こらえて、屋隈の下に走った。
ぎらぎらとした光が目の前に広がり、彼らが変化していくのが分かる。そのとき、紬は腕をつかまれた。
「紬さん! 悪い!」
顕谷は言うや、紬を背負うと、ゆっくりと龍の姿に変化した。紬は硝子の砕け散るような音を聞きながら、顕谷の背中がみるみるうちに大きくなり、鏡のような鱗に変化していくのを見つめていた。
「顕谷! すぐに飛んで!」
蓮香がさけんだ。
「分かっている!」
顕谷の声と共に悲鳴があがる。紬は顕谷の体から上を見た。真っ黒な空から、ぬらり、と黒い手がはい出して来る。空を地面のようにつかみ、もうひとつの手がぬるり、と出る。空を押さえ、上半身が出る。
それは、人の形をしていた。そして、頭に日納と同じ、二本の角があった。それを見たとたん、屋隈の顔は青ざめた。
「まずい! 〈鬼の子〉だ! 早く逃げろ!」
屋隈が周囲の人々に向かってさけぶ。屋隈は半分、狐の姿に変化していた。大きな三つの尾を踊らせて、屋隈は、かけだした。
そのとき、海鳴りの音が大きく聞こえて、紬は深淵のほうを見た。深淵はゆっくりと海鳴りのような音を響かせて土を食んでいく。
深淵にのまれるように土がゆっくりと欠けていく。
紬は国が欠ける光景を顕谷の上からぼうぜんと見つめていた。
「あ、顕谷さん……」
紬の声に顕谷は海の方向を見て、金色の目を大きく開いた。
「欠ける速度が速すぎる! 逃げろ! 日納! 蓮香をこっちに!」
「駄目!」
蓮香がさけんだ。
「紬さんを連れて逃げて! 私はなんとかする!」
紬はとっさに旗を留める飾り紐に手を伸ばした。
——つむぎ。駄目。
ゆらの声が聞こえて、紬の手は虚をさまよった。
——大丈夫、だから。
苦しそうな声だった。紬は迷いながらも、ゆらの声に従った。
紬は空を見た。
空からはい出た災厄が地面にゆっくりと、落ちているところだった。
ゆっくりと、地面に降り立った災厄は、〈鬼の子〉の形をしていた。黒い〈鬼の子〉の形をした災厄はゆっくりと顔を動かして、周囲の様子をうかがっているようだった。
「逃げろ! 逃げるんだ!」
どこからか声が聞こえ、悲鳴と共に人々が逃げまどう。逃げまどう人々を導くように蓮香が鐘のように響く声をあげた。
「大通りへと向かって! 真っ直ぐに!」
すると、人はおどろくほど、声に従って、国のまんなかに続く大通りへとまっすぐに走った。さきほどまで、ばらばらだった群衆がひとかたまりになって一目散に大通りへと走る様子を紬は、おどろきながら見ていた。
風を切る音が聞こえる。白く短い髪をなびかせて、足で黒い鬼の災厄の攻撃をいなしているのは日納だった。足で足を受け止め、次に体を回転させて右腕で、次に頭、左腕――と流れるような動きで日納が災厄からの攻撃を受け止めるたびに、衝撃の波がこちらにまで、せまって来る。
その間にも黒い空から地面へと災厄は落ちてきた。そのどれもが人の形、あるいは獣の形をしていた。そして、紬は〈光和之国〉が少しずつ欠けるのを龍と化した顕谷の背中から、見おろしていた。
すさまじい光景を前に紬は動かず、じっとしていることしかできなかった。自分が一歩でも動けば、なにかが変わってしまうような、緊迫感の中で紬は息も止めていた。旗竿を強く握りしめながら、彼らの無事を、強く祈るしかできない。
「すさまじいだろう」
頭上がかげり、声がする。
顔をあげると、子供達を背に乗せ、体にしがみつかせ、三つの尾に乗せて浮いている三ノ緒がいた。子供は慣れているのか、涙目になりながらも三ノ緒に引っついていた。
「三ノ緒様……」
「〈神風の子〉がいなくなってからは一年、ああして災厄からの攻撃を防ぐしかなかった。〈光和之国〉中に軍人を配置してもね、人手が足りないんだよ。そうだろう? 顕谷」
「そうですね。三ノ緒様。早く逃げてください」
「言われずとも、行くとするかね。紬。分かっているね?」
三ノ緒は金色の牙を見せてほほえむと、ちろん、と鈴を鳴らしながら、子供達を乗せて空をかけ抜けていった。
「紬さん。かなり動きますが、あなたが落ちることはありませんので安心してください」
自分を気遣う顕谷の声に紬はうなずき、答えた。
「はい」
紬は屋隈の姿を捜した。さきほどから、屋隈の姿が見えない。その間にも天から角を持つ黒い人の形をした災厄が降り立ち、〈三ツ街〉の通りを埋めつくしていく。災厄は軍事行列のように並び、大通りへと逃げる人々の後を追うように進んでいた。
逃げる人々の上にも災厄はゆっくりと降り立とうとしている。その度に人波が割れて人々がまばらに散っていったが、足は大通りへと向かっていた。
紬は空の果てまで、様々な形をした災厄が、雪のようにゆっくりと落ちていく光景を眺めていた。どこに逃げようと災厄は国中に降り注ぐ。〈日重なり〉の度に訪れる災厄から逃れながらこの国はこれからも生きていくのだ。逃れられない災厄と共に。
その光景に恐怖を覚えながらも紬の目は屋隈を捜していた。鈴の音が聞こえたとき、紬は不思議と屋隈の場所が分かった。軍事行列のはるか後ろに溶けこむように、狐の頭をした屋隈は立っていた。
ゆっくりと手のひらを軍事行列の背後に向けた屋隈は祈るように口を動かした。
ここからは届くはずのない声なのに、紬はなんと言っているか、分かってしまった。
すまない、と言って、屋隈は手のひらを握りしめた。
軍事行列の動きが止まる。だが、完全に動きを止められた訳ではない。無理矢理に前に行こうとする動きを見せる黒い人々から、なにかか、ぱきっと折れる軽やかな音が聞こえた。紬は音の正体を知って、思わず、息を止めていた。
骨だ。骨が折れてまでも、軍事行列は前に進もうとしていたのだ。
見えぬ糸に抗うように軍事行列は前に進もうとしている。そのたびに腕が、足が、あらぬ方向へ折れていた。
手のひらを握りしめ、見えぬ糸をたぐり寄せるように腕を曲げている屋隈の、手が震えている。
当たり前だ。あの災厄は――黒い人の形をしたものは、災厄によって死んだ人達の姿を模しているのだから。
『……それでも、わりきらなければ、ならない』
自分に言い聞かせるように口にした屋隈の顔を思い出して紬は胸が痛くなった。
(こんなむごい形の災厄があるだろうか)
いてもたってもいられなくなった紬は旗竿を握りしめた片手を離して、飾り紐に手を伸ばした。旗を立て、空を見る。旗がひらめき、黒い旗がおどる。二重の金環の上に放射状の光の筋を重ねた金色の紋様が風にひらめいている。
「神風よ。吹き渡れ!」
だが、ゆらの言葉通り、神風は吹かなかった。
「な、んで」
紬がとまどいの声をあげたのと、顕谷が声をあげたのは同時だった。
「日納!」
鼓膜を震わせる音が聞こえ、紬は身を乗り出した。日納は煉瓦の建物に体を叩きつけられていた。建物がくずれる音と共に黒い地面の上に日納が倒れたのが見えた。煉瓦がくずれて日納の体の上に降り注いだ。
「日納さん!」
紬は思わず、声をあげた。日納は動くことなく、その間にも日納と同じ鬼の角を持つ黒い人型が日納を囲んでいった。
「日納! 起きろ!」
顕谷がさけぶも、日納は気を失ったままだった。日納の白い髪を黒い手がつかむ。
「日納!」
屋隈がさけび、右手が黒い鬼に向けられる。黒い鬼の動きを止めるように屋隈が手のひらを握りしめたとき、黒い鬼の動きが止まり、日納の髪をつかんだ手が開いた。日納はそのまま黒い地面の上に倒れた。だが、黒い鬼の動きを止めたと思われたとき、屋隈の手が折れる音がした。それでも屋隈は握りしめた手を離すことなく顔をゆがめて耐えていた。
「日納!」
遠くから日納の下に走る蓮香の声が聞こえる。蓮香はすう、と息を吸ってさけんだ。
「離れなさい!」
だが、黒い鬼の耳には届かなかった。黒い鬼は自分の動きを止める屋隈の腕を折りながらも、日納に手を伸ばしていた。
「日納! くそっ」
顕谷の体がぎらぎらと光る。鱗が鏡となって空の色を映したとき、真っ黒な空が目の前に広がったのを紬は見た。真っ黒な空から、ライフルの先端が、軍刀の先端が見える。黒い空に溶ける色なのに、はっきりと分かる。
「顕谷さん! 上!」
顕谷は体をうねらせ、尾を紬の頭上にかざした。災厄から放たれた弾は雨のように降り注ぎ、顕谷の体を貫通した。
「顕谷さん!」
硝子の割れる音と共に顕谷の体が落下していく。紬の体がふわり、と浮かびあがり、耳元で風を切る音が聞こえる。紬は旗竿を強く握りしめながら、旗を離すまいと体を固くした。
衝撃が来る、と思ったその瞬間、ふわ、と花の香が鼻をかすめた。
どこからともなく現れた白く大きな花びらは顕谷と、紬の体を包みこんだ。顕谷の体は地面に叩きつけられることなく、白く大きな花びらに包まれながら、ゆっくりと降りていった。
「ゆら……?」
紬は顕谷から降りて地面に着地するや、周囲を見回した。白い花びらは雪のようにゆっくりと落ちながら災厄の動きを止めていた。
紬は旗を見あげた。
墨色の旗のまんなかに金色の刺繍で施された〈光和之国〉の紋様。災厄によりぼろぼろになった〈三ツ街〉のまんなかで旗はひらめいている。
腕が折れた屋隈の姿を、倒れ伏したままの日納の姿を、血を流す龍の顕谷の姿を、こちらに向かい走る蓮香の姿を、紬は見つめていた。
その間にも災厄はゆっくりと降りて、紬を囲んでいる。絶え間なく降る白い花びらによって、動きを止められた災厄を間近で見て、紬は一人、得心した。黒い姿をしていても分かる。屋隈達と同じ軍服を着た黒い人は、ちゃんと、一人一人、違う顔をしていた。
(これ以上、彼らを戦わせたくない)
紬が旗竿を強く握り締めると、地面から妙な感覚がした。足元からはいあがるような感覚に紬はなにをすればいいのか、分かった。
――つむぎ。それは駄目!
ゆらの声が聞こえる。その声は否定の声ではなく、心から紬を心配する声だった。
「ゆら。私は、今、あの人達を護りたい」
紬は旗竿を強く、握りしめた。
――つむぎ!
ゆらが止める声を無視して紬は声をあげた。
「――神風よ、どうか、吹き渡れ」
ぱあん、と弾けるように地面から、風が舞いあがった。風鳴りの音が耳元で聞こえる。空に吸いこまれ消えゆく風の姿を見つめながら、紬は自分の体が冷えていく心地を感じていた。鼻からぬるり、と流れたものをそのままに、紬は遠のきそうな意識をこらえるためにくちびるをかみしめた。じわりと口の中に血の味が広がっていく。
風鳴りの音がやんだとき、黒い空は晴れ晴れとした群青色に変わっていた。紬は一瞬、重なった太陽の姿を見た。大きさの違う太陽が重なっているような違和感を覚えたが、すぐに太陽から目をそらした。
目の前の災厄が霧のように散っていくのを見つめながら、紬は狭くなる視界の中で、ゆらが神風は吹かない、と言った意味を理解した。
(ああ、そっか。ゆらは、私も、護ろうとしたのか)
意識が遠のいていくなか、紬の頭にあるのは旗を倒さないという、意地だった。奥歯をかみしめて、紬は旗竿をつかみ直した。
「紬さん!」
屋隈が旗竿をつかんだとき、紬の意識は一瞬にして深い闇の底に落ちていった。
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