四 夢の中で

 屋隈やくま家の客室でつむぎは、やわらかいベッドの上であおむけになり、天井を見つめていた。着心地のいい上下の部屋着は客人用のものらしく、肌の上に優しく触れる。

 両隣に並んだベッドには日納ひのう蓮香はすかがいて、二人はすでに寝息を立てていた。

 こういうときでも紬は今すぐにでも眠ることができた。だけど、なんとなく眠るのがもったいないような気がして、カーテンの隙間から漏れた夜の光が天井に細く伸びているのを、ぼんやりと、ながめていた。

(今日は、色々あったなあ……)

 濃密な一日を思い返しながら、紬は彼らと過ごす心地良さに安堵していた。

(彼らは私をちゃんと、子供として見ていてくれて、子供扱いしないでくれている)

 それは誰にでもできるように見えて、意外と難しい。

 大人にとって、紬は可愛くない子供だった。妙に達観して冷静な所が、一部の大人には癪に障るようで、今のところ、紬は教師に好かれたことがない。嫌われてはいない。ただ、目をかけられることがないだけだ。それどころかクラスでは大人扱いされてしまう。

『子供らしくない』

 突き放した声が何度も浮かぶ。だけど、前よりも軽く感じられるのは気のせいだろうか。それは屋隈さん達と、三ノ緒みのお様のおかげかもしれない、と紬は思った。

『子供らしくないね』

 どこか楽しそうな三ノ緒の声を思い出して、紬は全身の力が抜けていくような心地を感じた。

『そこがいい。あんた、そのままでいなさい』

 三ノ緒の言葉が眠気をいざなう。紬は水の中に落ち行くような感覚と共に眠りに落ちた。


 薄氷はくひょうの上を踏むように、紬は、夜の中を歩いている。

 足に力を入れたらたやすく割れてしまいそうな心許なさの中で、紬は歩いていた。

「……あれ?」

 紬は、いつの間にか知らない場所を歩いていることに気がついた。すると、目の前をあわい光が横切った。紬は、あわい光のほうへと、歩き出した。光が大きくなり、景色が見える。

 紬は、いつの間にか三ノ緒と話した八角形の部屋のまんなかにいた。

 紬は、おどろきながらも周囲を見た。すると、ぼんやりとした光の向こうで、空中に横たわる人が見えた。自分と同じ年頃の少女だった。少女の白く長い髪が水の中でたゆたうかのように揺れている。

 紬は、横たわる少女に近づいた。今にも消えそうなあわい輪郭の少女は、固く目を閉じていたが、自分と同じ顔をしていた。

冬部ふゆべゆら?」

「そうだよ」

 声がして、紬はふり返った。

 紬の声に答えたのは、三ノ緒だった。三ノ緒は金色の目を細めると、大きな口を開いた。

「そう。そこで眠っている人間が、あんたの生まれ変わる前の姿さ」

 三ノ緒に言われて紬はゆらを見た。同じ顔をしているが、髪と肌の色が違う。

 ゆらは、屋隈達が着ていた軍服と似た服を着ていた。屋隈達の軍服と違うのは色がブルーグレーの灰色かかった青色であることと、前を留める飾り紐の形が違うことだ。

 紬がゆらを見つめていると、三ノ緒の声がした。

「それにしてもあんた、ふぁいんぷれーだね。鈴の音に気づいて、なにかを言おうとして、やめただろう?」

 紬は三ノ緒と会話を交わした八角形の部屋でのことを思い出した。

「皆様の前では話して欲しくなさそうだったので……」

「そういう気遣いができるのが、ふぁいんぷれーさ。あんたの国の言葉で見事な行動というのだろう?」

「……はい」

 正確には違うような気がするけども否定するほどのものではないと思った紬は歯切れ悪く、答えた。

「私はこの言葉を気に入っていてね。それで、なにを聞きたかったんだい?」

「私、三ノ緒様の鈴の音を、聞いたことがあるんです」

 そのとき、三ノ緒の目が更に大きく開いた。

「ほおう……」

「初めて聞いたのは、多分、五歳……そのくらいの頃だったと思います。こうわさま、と呼びかける声が聞こえて、その後に、鈴の音が聞こえるんです」

 ちろん、という音が聞こえたとき、紬は声をあげた。

「この音です!」

 三ノ緒は嬉しそうに目を細めて、うなずいてみせた。

「うん。さて、なにから説明しようかね。知りたいことはあるかい?」

 三ノ緒に質問されて、紬は悩んだ。少しの間、考えた紬は、なにかに気づいて小さな声をあげた。

「どうしたんだい?」

「……ゆらさんは、私の生まれ変わりなんですよね?」

「そうだよ。あんたも見て分かるだろう?」

 三ノ緒の口から、あらためて聞いたことで、紬は、おかしい、と思った。

「ゆらさんが亡くなったのは、一年前とお聞きしました」

 そのとき、三ノ緒の目が大きく開かれた。

「それだと、年が、合わないんです。私が声を聞いたのは、六年も前です。でも、ここで眠るゆらさんは、私と同じ年に見えます。この人は、屋隈さん達の友人の、冬部ゆらさんで間違いないのでしょうか?」

 三ノ緒は金色の大きな目で紬を見つめたまま、なにも言わなかった。

 重々しい静けさが満ちるなか、紬は三ノ緒が口を開くのを辛抱強く待った。

「あんた、本当に聡いね」

 ようやく口を開いた三ノ緒は、感嘆の声をあげた。

「確かにふつうに考えれば、ありえないことさ。でもね、答えは簡単だよ。時の流れが違うのさ」

「時の流れ……?」

 三ノ緒はうなずいた。

「そう。時の流れさ。〈異世の国〉と〈光和之国〉はね、時の流れそのものが違う。本来はけっして交わることのない世界だからね」

 それを聞いて、紬は不安になった。もし、元の世界に戻ったとき、時間が大きく変わることはあるのだろうか。

 黙った紬に三ノ緒は続けた。

「元の世界にはちゃんと帰れるよ。元の時間の、元の場所にね」

 紬はふり返ってゆらを見た。

「……三ノ緒様」

「なんだい?」

「ゆらさんは……時の流れが違うことを、知っていたのですか?」

「ああ」

「もしかして、ゆらさんは」

 紬の言葉は三ノ緒の声にさえぎられた。

「それ以上はここじゃなく、あっちに行って話そうかね」

 とたん、景色が急に変わり、ゆらの姿が見えなくなった。紬は周囲を見まわして、思わず息を止めていた。

 くずれてしまった塔の内部と同じ光景が広がっていたからだ。

 まるで。

「星空の中にいるようだろう?」

 三ノ緒の声に紬は反射的にふり返った。そこには人の背丈をゆうに超えた黒くて大きな狐の姿があった。前足だけでも紬の身長を超えている。三ノ緒は三つの尾をそれぞれに動かしながら、紬を見おろしていた。

 おどろきと警戒の表情を浮かべた紬に三ノ緒は口の端をあげて笑ってみせた。

「おどろかせて悪かったね。この先の話はね、ゆらから離れたところでしたいのさ」

 そう言って三ノ緒は顔をあげた。その目線の先をたどると、遠くに、ほのあわい光が見えた。ゆらだ。

「あんまり近くで話すと起きてしまうかもしれないからね。休ませてあげたいのさ」

 遠く離れた、ゆらを見つめる三ノ緒の目は優しい目をしていた。

「しかし、あんたは本当に聡いね」

 三ノ緒が紬の目線に合うように伏せたが、それでも紬は顔をめいっぱい、あげないといけないほどだった。

「さて、隠してもしかたないから、言うよ。あんたも分かっているようだしね。その通りさ。ゆらは、〈ふたつたましい〉のために死んだんだよ」

 信じがたい言葉に紬は絶句した。

 怒りより先に、理解が勝ってしまった。嫌な感覚だ、と紬は思った。生まれ変わりでも紬とゆらはまったく別の人間だ。紬はそう思っている。それなのにゆらが死んだ理由が解ってしまった。

「信じられない……」

 怒りに声を震わせた紬を、三ノ緒は静かに見おろしていた。

「理解できないだろうよ。それでも、あんたは、解ってしまっているんだろう?」

 紬はうつむいて歯を食いしばると、落ちつくために深呼吸をした。深く息をはいた後で紬は顔をあげて三ノ緒を見た。金色の目は紬をまっすぐに見おろしている。

「ゆらさんは、あの人達を、屋隈さん達を護りたかったんですね?」

 紬の言葉に三ノ緒は目を細めてうなずいた。

「そうさ。健気だろう?」

「でも、死んだら、なにもできません」

「そうだね。それでもゆらは、そうしなければならなかったんだろうよ」

 三ノ緒の声にはどこか、悲しそうな響きがあった。

 紬は、それ以上、なにも言えなかった。どんな理由があっても死んではいけない。だけど、紬は事情をなにも知らないのだ。

「……ゆらさんは、死んでから、ずっとここで、一人で、すごしていたのですか?」

 三ノ緒は首をふった。

「ずっとではないよ。あんたがいた」

「え?」

 紬はおどろいた声をあげた。

「あんた、声が聞こえていたと言っていただろう?」

「はい。でも七歳までです。八歳になったら、聞こえなくなってしまいました」

「そりゃあ、あんた。当たり前だよ。七つまでは神様の子、というのはどこも同じなのかもしれないねえ」

 三ノ緒は感じ入るように言った。そして続けた。

「八歳になったら世界との繋がりがいっそう、強くなる。ゆらの声が聞こえなくなるのはあたりまえさ。でもね、それまでの間、ゆらは、あんたの声が聞こえていたから、さびしくなかったんだよ。〈光和こうわ〉を捜しながら、あんたの声を聞いていた。あんたとするおしゃべりが楽しかったと言っていたよ」

「私と……?」

 紬はそのときのことを覚えていないことが急に申し訳なくなった。ゆらは覚えていて、紬の名前を呼んでいた。なのに、紬はゆらの名前を思い出すこともなかった。

「三ノ緒様。私、ゆらのこと、覚えていないんです」

「そりゃあそうだよ。こういうのはね、忘れるように、できているのさ」

 三ノ緒はとても優しい表情を浮かべて紬を見つめた。紬は目を丸くした。

「いいかい。紬。本来ならね、〈異世いせくに〉と〈光和之国こうわのくに〉を行き来することはできないのさ。そもそも、交わらぬ世界だ。だけど、特定の条件を満たすと行き来が可能になる。そのひとつが〈日重ひかさなり〉なのさ」

「〈日重なり〉……?」

「そう。世界が重なるのさ」

 どういうことなのだろう。紬が質問しようとしたとき、後ろから声がした。

「三ノ緒様。それ以上は、言わないでください」

 聞き覚えのある声に紬はふり返った。

 白い髪。白い肌。金色の目。紬と同じ顔をしたゆらが紬を見つめていた。

「……ゆらさん?」

「ごめんね」

 ゆらがまっさきに口にしたのは、謝罪の言葉だった。

 紬が声をかけようとする前に三ノ緒が大きな口を開いた。

「しかし、あんたも無茶するね。〈ふたつ魂〉のために死ぬなんて、治正が聞いたら激昂するよ」

 ゆらは困ったようにも見える表情でほほえんだ。

「でも、それしかなかったんです。〈神風の子〉はもう、私しかいませんから」

「そうだね。かつては〈神風聯隊かみかせれんたい〉なんて言葉があるくらい、〈神風の子〉は多かった。でも、災厄を境に〈神風の子〉の役目が大きく変わったことで減っていった。でもね、それでもあんた、国のために死ぬことはなかったんだよ」

「国のためじゃないんです」

 ゆらは、ほほえんだ。

「あの人達に、生きて欲しいんです」

 ゆらは紬を見た。その目はあなたなら解るでしょう、という理解を求める目だった。

「私、それで誰かが傷ついたとしても、あの人達に生きて欲しいの」

 その瞬間、ゆらの思いが奔流のように紬の中に流れこんだ。これは、底なしの愛だ。心からの無事と、彼らの未来を願う愛だ。そこに例え、自分がいなかったとしても、構わないとこの人は本気で思っているのだ。

 だから、生まれ変わりの私を選んだのだ、と紬は理解した。

 彼らが、自分を呼ぶと分かっていて、彼女は死んだのだ。そうして別の世界で、交わることのない時軸から、私を呼び寄せるために、死んだのだ。

「……身勝手すぎる」

 紬は自分が泣いていることに気づかなかった。両の目から、あふれる涙をそのままに、ゆらをまっすぐに見つめていた。

 ゆらは、さみしそうに笑って、紬の頬に触れた。花びらが頬をなでるような、やわらかさだった。

「でも、私を呼んだのが屋隈達だったのは、予定外だった」

「え?」

 景色が遠のいていく。嫌な感覚だった。

「紬。後はよろしくね。あなたなら解るから」

「待って! あなたの目的は、なに?」

「――今は、言えない」

 悔しいほど、思考が分かる。言ったら、私が協力しないことをゆらは解っている。

「今日の災厄、神風は吹かない。だから、逃げてね。大丈夫。顕谷に乗って、逃げて」

「待って! ゆら! あなたの気持ちを、私は聞いていない!」

 景色が遠のき、ゆらの姿があわくなる。

 ――ごめんね。

 ぷつん、と糸が切れたように景色が変わり、後に残ったのは暗闇だった。

「三ノ緒様……」

 紬はぼうぜんとしながらも顔をあげた。三ノ緒は紬を見おろしていた。

「やれやれ。そういうことかい。あの子は身勝手だねえ」

「え?」

「重なる、ということはそういうことなのだろうね。だから、〈ふたつ魂〉にならないといけなかったのかい。なるほどねえ……」

 一人納得する三ノ緒に紬は置きざりにされた気持ちだった。三ノ緒は紬に金色の目をむけると、ゆっくりと口を動かした。

「紬。〈ふたつ魂〉の意味を考えな。あんたなら分かるよ。なぜ、あんたが〈異世の国〉から〈まれびと〉として呼ばれたのか、どうして、ひとつの体にふたつの魂があるのか、そこにゆらの目的がある」

 紬は目を開いた。

「ゆらはね、本当に心から治正を愛しているんだよ」

「だったら!」

 紬は思わず、さけんでいた。

「それは死ぬことで報われるものじゃない!」

「いんや。報われるのさ」

 三ノ緒はにたり、と笑った。金色の鋭利な歯がきらりと光る。

「あんたなら、分かるよ。だってあんたは、たった一日そこらでこの国のために動くような人間なのだから」

 風の音がする。

 轟々と、うなり声をあげている。突風によって目が開けていられなくなり、肉厚な白い花びらが、紬の体を包みこんだ。有無を言わせぬ強引さに怒りを覚えながらも、紬は風の音の中でも鮮明に聞こえる三ノ緒の言葉を聞いた。

「いいかい。重なるんだよ」

 深い眠りの底から急に覚醒した紬は呼吸も荒く、朝の光に満ちた天井を見つめていた。体中が心臓になったような胸の鼓動を感じながら、紬はただ、落ちつくための呼吸をくりかえした。

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