三 さらば、私の神様
室内だというのに、天井に桜の木が生えている。天井から落ちる薄紅色の花が
そして紬は、またも部屋のまんなかに立っていた。〈
ここは〈光和之国〉の北部先端、屋隈の故郷の産土神様の住居であった。〈光和之国〉の神様が殺されたのを目の当たりにした生き証人である。
「やれやれ。また
目の前の両開き扉の奥で声が聞こえた。扉の奥でいくつもの声が聞こえ、同じ声が納得したようになるほどねえ、と言った。
同時に両開きの扉が開けられた。紬は、開け放たれた両開き扉を前に息をのんだ。開け放たれた扉全体を埋めつくように大きな黒い狐の顔がある。金色の目をした狐は紬をしばらく見つめたかと思えば、口の端をあげて、にたり、と笑った。金色の歯がぎらり、と光る。
「やれやれ。治正。あんた、馬鹿だねえ」
半ば、あきれ口調でゆっくりと話す黒い狐はけだるそうに顔をかたむけた。
「ゆらの性格を考えれば、あの子が〈
本当に、馬鹿な子だ――と狐はふう、と息をはいた。そして顔をあげると、目を細めた。
「我が街へようこそ。私は〈
「紬です。よろしくお願いいたします」
三ノ緒は頭をさげた紬を見て満足そうな笑みを向けた。
「よい。頭をおあげ。それで屋隈。なにが聞きたいんだい?」
「〈光和之国〉の神が死んだ話をお聞かせいただけますか」
三ノ緒は目を大きく開いた。
「あんた、〈
屋隈は答えなかった。答えない屋隈に変わって声をあげたのは、紬だった。
「ごめんなさい。私が、聞きたいとお願いしました」
「紬さん」
「……どうしても、気になることがあって、さしつかえなければ、聞かせてください」
紬は旗を持ったまま、深々と頭をさげた。
三ノ緒はしばらく紬を見つめると、深く息をはいた。
「本当に、根本的な所は似通うものだねえ。顔をあげな」
紬はおそるおそる、顔をあげた。三ノ緒はおどろくほど、優しい顔をしていて、その顔は屋隈に似ていた。
「いいだろう。屋隈。後はあんたが語り継ぐ話だ。最後と思ってあんたも、よくお聞き」
「はい」
すう、と三ノ緒が息を吸う。始まる、と思った紬は無意識に姿勢を正していた。
「〈光和之国〉の神様はね、人の形をしている。人と違うのは、深淵を覗き見たような真っ黒な肌だ。服を着ているから分からないけどね、その体には金色の紋様が刻まれている。そして、白い髪と、金色の目を持つ、天を照らす〈
紬は目を大きく開いた。幼い頃に聞いた『こうわさま』の声を思い出した紬は、なにか関係があるのかもしれない、と黙って三ノ緒の話の続きを聞いた。
「〈光和〉はね、私ら産土神と違い、限りある命の神でもあった。まるで〈人の子〉のような神でね……。色んな〈光和〉を見て来たけど、全員、自分の役目をよく、分かっていた。
けどね、百年前の〈光和〉はただ、護られるのをよしとしない神様でね。自分の身は自分で護ろうとしていた。……私らが大切だったんだろうよ。でもね、〈光和〉は穢れを得てはならぬ神と言われていてね、人の血は御法度だ。だけど、〈光和〉は、それでも人を殺してしまったんだよ」
三ノ緒はやれやれと言わんばかりに目を閉じた。
「百年前はね、今と違ってちょっと国が荒れていた時期でね。今は災厄もあってよその国が入って来られないようになっているけれど、異国との戦争が激しい頃だったんだ。戦争におもむいて帰ってこなかった軍人は何千人といた。……多分、その中の遺族なんだろうね。〈神風の子〉を殺そうとしたのさ。……〈光和〉は〈神風の子〉を護ろうとして、人を殺してしまった。立派な行いさ。でも、役目を考えたら、〈光和〉は
神には神の生き方がある。人の道理に神は関与してはならない。人の道理は神の道理に
紬は話を聞きながら、理解しきれぬとまどいを感じていた。そんな紬の気持ちを察したのか、三ノ緒は喉の奥でくっくっと笑った。
「……馬鹿なことをしたものだろう? 神を殺してまでも、つらぬく復讐があるものか」
氷の割れる音が聞こえるような、冷たい声だった。三ノ緒は一度、ため息をつくと、続けた。
「だけどね、護れなかった私らも私らだ。特に帝国軍人の罪は重い。やすやすと殺させるような護衛のずさんさが神殺しを招いたんだからね。〈光和〉が殺されたその瞬間から〈光和之国〉は〈
三ノ緒は目を細めて口の端をあげた。金色の牙がむき出しになって光った。
「……以上、〈光和〉が殺されるまでの顛末さ。これで気になることは解決したかい?」
紬はうつむき、首をふった。
「……私、勘違いをしていたみたいです」
「おや」
「神風が神の威光を表わす風ならば、〈光和之国〉の神様が死んだのに、神風が吹くのか、不思議だったんです。でも……〈神風の子〉を護ろうとした神様だからこそ、神風は吹くのだと思いました」
紬が顔をあげると、三ノ緒は目を大きく開いた。大きな金の目に紬の姿が映り、揺らめいた。そして、感心したように深い深い息をはいた。
「なるほどねえ……。紬よ。私はあんたに問いたいことがある」
「はい」
「あんた、なんでこの国のためにここまでする?」
「え?」
「不思議でならないのさ。〈異世の国〉から来た〈まれびと〉はね、混乱するか、この国を観光したがるかのどちらかさ。そりゃあそうだろう。なにもかも自分の生きている場所とは違うのだから。それでもね、まあ、帰りたくないやつもいてね、そういう人間はこちらで生きていくこともある。だけど、あんたは見た所、単に目的を達成していないから帰りたくない。こういう人間はね、厄介だよ。覚悟を決めたときの思いきりが、えげつないのさ」
三ノ緒は目を細めた。紬は三ノ緒を見つめたまま、どう答えようか、悩んでいた。悩んだ末に、紬は答えた。
「心置きなく帰りたいから、です」
三ノ緒は、またも大きく目を開いてきょとんとした顔をした。そして、喉の奥から笑い声をあげた。部屋を震わすような笑い声は桜の木を揺らして、より多くの花びらを落としていった。笑いが波引くように消えると、三ノ緒は悪いね、と言った。
「心置きなく、ねえ。あんたは正直だね。救えなかった命を頭の隅に抱えるのが嫌かい?」
細めた目を向けられて、紬はゆっくりと口を開いた。
「……多分、やらなかった後悔を残したくないんだと思います」
「やらなかった後悔?」
「例え、先が分かっていたとしても、自分が決めたならどんな結果であろうと最後までやり通したいからです。やらなかったことは、ずっと、自分の中で納得いかないまま残ります。私はそれが嫌なんです。……だから、私の自己満足なんです」
三ノ緒は紬の答えを飲みこむように目を閉じた。
「それは、神風を吹かせようとも、この国が滅びの途上であることは変わらないことを、分かって言っているのかい?」
「はい」
すぐに答えた紬に三ノ緒はうなずいた。
「そう」
三ノ緒の目が開かれ、再び紬の姿が映る。
「あんた、子供らしくないね」
三ノ緒に言われて、紬は旗竿を強く、握りしめた。心臓が早く脈打ったとき、三ノ緒は嬉しそうに紬を見つめていた。紬は三ノ緒の嬉しそうな顔にあっけに取られてしまった。
「そこがいい。あんた、そのままでいなさい」
「えっ……」
紬は予想していなかった言葉に思わず、おどろいた声をあげた。
「おんや。そうしておどろくと、年相応の顔をするねえ。うん。そのままのあんたでいなさい。そうして、そのままのあんたを、ちゃんと子供として扱ってくれる人を信じるんだよ。これは、これから先も生きるあんたに向ける言葉さ」
おどろいたままの紬に、三ノ緒は嬉しそうな笑い声をあげた。そのとき、ちろん、とこもったような鈴の音が聞こえた。紬は、なにかに気づいて、三ノ緒を見た。
こもったような鈴の音。口を開こうとした紬を止めるように三ノ緒はゆっくりと口を開いた。
「最後に、いい出会いを果たせてよかったよ」
両開きの扉がゆっくりと閉じていく。紬は慌てて、頭をさげた。
「こちらこそ、ありがとうございました」
「屋隈」
扉がゆっくりと閉じる中、三ノ緒の目が動き、屋隈に向けられた。
「あんた達もだよ。さかしいことを考えるんじゃあないよ。分かっているだろうね?」
屋隈は無言で頭をさげた。扉が閉まる音が聞こえてからも、屋隈はずっと、頭をさげたままだった。
**
紬はその露台の上から深淵に沈む夕日をながめていた。
「本当は、ここから森が見えたんですけどね」
屋隈は紬の隣に並んで説明を続けた。
「私が子供のときはまだ、三ノ緒様の屋敷の奥に森がありました。今は災厄により少しずつ欠けて、森はなくなりました。明日には三ノ緒様の屋敷も災厄によって欠けるでしょう」
「三ノ緒様は、避難されないのですか?」
「はい。あの方は、〈三ツ街〉の産土神様ですから」
屋隈は三ノ緒の屋敷を見つめていた。
「……さみしくないのですか?」
紬は聞いてから、後悔した。だが、屋隈はほほえんで、うなずいた。
「さみしいですよ。でも、そうですね。諦めがついているのだと思います。どうにもならないならば、今できることを。……それは紬さん。あなたも同じでしょう」
「はい。でも、私は……」
紬はその先を言うのを止めた。それはずるい言葉だからだ。頭をふって、紬は別のことを問いかけた。
「屋隈さん。私、不思議に思っているのですが、殺したのは一人の人間なのに、どうして皆さん、神を殺した国、と言うのですか?」
夕日がとぷん、と深淵に沈んだ。すっかり夜の色を帯びた露台は室内の灯りで仄あわく照らされた。
「……護れなかった自戒の言葉です。三ノ緒様がおっしゃるように、〈光和〉様を護れなかったことに変わりはないのですから。我々が殺したようなものです。あの日の悔恨を、忘れないための言葉なのですよ」
紬は深淵を見た。深淵を見て、紬はおどろいた。水平線の境目に金の光が見える。紬の様子に気づいた屋隈は水平線の境目の金の光を見て、説明した。
「夜になると分かるのですが、ああして金の光が見えるのですよ。一度、顕谷と上から見たことがありますが、国を囲む金環がまるで国旗の紋様のようで皮肉にも美しい光景でした」
――金環?
一瞬、なにかが、浮かんだが、それはすぐに消えてしまうもろいものだった。
「治正様。お食事の用意ができました」
屋隈家の執事の声に屋隈がうなずいた。
「爺やに呼ばれましたので、行きましょうか」
屋隈に続いて紬は室内に入ってから、ふり返った。爺やと呼ばれた執事が窓をゆっくりと閉める。紬の目にはまだ、深淵の、水平線の境目の金の光が焼き付いていた。
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