二 ふたつの魂

 歓呼かんこの声が今も耳の奥に残っている。つむぎはベルベットのやわらかいソファーに体を沈めながら、深く息をした。

 ここは〈光和之堂こうわのどう〉から近い場所にある〈室咲むろざき〉という名前の純喫茶だった。軍人御用達のお店で、貸し切りのため、店内には紬と屋隈やくま顕谷あらや蓮香はすか日納ひのうとマスター以外に人はいない。

 紬は立ち上がって、窓の外を見た。窓の下では群衆が踊り、騒ぎ、歌っている。〈まれびと〉である紬を歓迎する声だった。〈光和之堂〉を出て、街に出た瞬間から〈室咲〉に入るまでに紬は歓呼の声を浴び続けたのだ。

 屋隈に聞けば、紬が〈神風の子〉だから、だけではなく、〈異世いせくに〉から来た〈まれびと〉であるからだという。〈まれびと〉をもてなし、元の世界に送ることで幸福がもたらされると言われているのだそうだ。

光和之国こうわのくに〉は紬が思っている以上に日本と大きくかけ離れていた。街並みは上空から見たとおり、外国の街並みを思わせる風景だった。着ているものもそうだ。和服ではなく、洋装だった。女性はドレスやワンピースといった服装だけではなく、動きやすいパンツスタイルの人が多い。

 四人の着ている軍服も男女ともに変わりない。合理的に考えればパンツスタイルのほうが動きやすいのだから、あたりまえかもしれない、と紬は一人、納得した。かく言う紬も制服のスカートの下は体育用のハーフパンツをいている。

 落ちついた紬は室内を見回した。きらびやかで落ちついた装飾のお店の中は耳に心地よい音楽が流れている。大正浪漫。時代も文化も違うが、一言で表すならばこの言葉が似合う。自分の黒いブレザー、灰色のスカートの自分の制服を見た紬は、この店でも、いや、この国では、浮いている、と心の中で思った。そしてバイオレットのリボンはやはり、気に入っていない。

 かん、と軍靴を鳴らし階段をあがる音が聞こえて、紬は階段を見た。屋隈達がそろってこちらに向かっていた。

「紬さん。お待たせしました。マスターの許可を得ましたので、これからお話させてください」

 紬は蓮香と日納にはさまれる形でベルベットのソファーに座り、テーブルをはさんだ向かいには顕谷と屋隈が座った。

 同時に、甘い香りが漂って来た。

「お待たせいたしました」

 テーブルにやってきたのは純喫茶〈室咲〉のマスターだった。ロマングレーのオールバックが似合う上品な年配の男性だった。左手にトレーを持ったマスターは皿にのった大きなプリンをテーブルの中心に置いた。濃い色のカラメルが照明によって光り、つややかな姿を見せている。

 紬はホールのプリンの迫力に目を輝かせた。

「すごい」

 紬はマスターに声をかけた。

「あの……写真を撮ってもいいですか?」

「写真、ですか?」

 マスターに聞かれて、紬はブレザーのポケットからスマートフォンを取り出した。

「これでプリンを撮ってもいいですか?」

「なるほど。〈異世いせくに〉のカメラですか」

 慣れているのか、マスターは興味深そうに紬の手にあるスマートフォンをながめていた。

「いいですよ。ご自由にどうぞ。私はその間に珈琲をお持ちします」

 紬は四人にも許可を取ってから、カメラを起動して写真を撮った。

「終わりました」

 四人が興味深そうに見るので、紬はスマートフォンを四人に見えるように手を伸ばし、今、撮ったばかりの写真を見せた。

「これは……精密なものだ」

 顕谷が感嘆の声をあげた。

「こっちだと、ちょっとぼやっとしているものねえ」

 蓮香が目を輝かせながらスマートフォンの画像を見つめている。屋隈と日納は無言であるが、目の輝きから気に入っている様子が分かる。

 紬は画面をなぞって、他の写真を見せた。学校の帰り道に見た赤い夕日。川面に反射する光。路地裏に入ろうとする猫……。紬が撮った、たあいのない写真を四人は楽しみながら見つめていた。

「〈異世の国〉は、ずいぶんと、進んでいるのですね」

 屋隈は感心しているようだった。

「お待たせいたしました」

 マスターの声と共に珈琲の香が一気に漂う。中腰になっていた顕谷と屋隈は同時にソファーに腰を下ろした。紬はマスターを見て、おどろいた。左腕だけでトレーをふたつ、支えている。揺れることなく美しい所作でそれぞれの目の前に珈琲の入ったカップとソーサー、お皿と紙ナプキンで先を包んだスプーンを並べた。次にテーブルの中心に置かれたプリンの隣にカトラリーレストを置くと、その上にナイフとケーキサーバーを並べた。

 マスターは紬を見ると、ほほえみを向けた。

「さしつかえなければ、私にも写真を見せていただけますか?」

「はい」

 紬はマスターにスマートフォンを見せた。自分の作ったプリンを前に、マスターは嬉しそうに目を細めた。

「とても綺麗に写っていますね。ありがとうございます。では、ごゆるりとお楽しみください」

 深々と頭をさげたマスターは足音もなく下に降りていった。

「じゃあ、切り分けるぞ」

 そう言って立ち上がった顕谷はあっという間にプリンを五等分した。それはもう、鮮やかだった。綺麗に五等分した顕谷はケーキサーバーを使ってプリンを皿に取り分けた。

 顕谷からプリンを皿にのせてもらった紬はケーキの形をしたプリンの美しさに思わず、息をはいていた。そんな紬を見て、顕谷が口元をほころばせた。

「では、いただきましょうか」

 屋隈が手を合わせると同時に他の三人も手を合わせた。紬も皿を置いてから慌てて手を合わせると、それぞれの声がぴたりと重なりあった。

「いただきます」

 紬はスプーンの紙ナプキンを外してから、美しい形をしたプリンにスプーンを入れた。思った以上に固いプリンはスプーンを入れても揺れることなく、しっかりとした形をたもっていた。

 プリンをスプーンで口に運ぶと、カラメルのほろ苦さと共に甘くて濃厚な卵の味が舌の上に広がった。苦いカラメルとこっくりとしたプリンの甘さが口の中で調和して丁度いい。

「どうかしら?」

 蓮香に聞かれ、紬はうなずいた。

「おいしいです」

 おいしいと言えるうちは大丈夫だ、と紬は思った。

 濃厚な甘さのプリンを堪能した紬達はカップを手に珈琲を飲んでいた。プリンの甘さをまろく包む珈琲の酸味が口の中をさっぱりとさせてくれた。

 屋隈がカップをソーサーの上に戻したとき、さきほどまでの、やわらかな雰囲気が固く引きしまった。

「では、お話を始めましょうか」

 紬はうなずき、空になったカップをソーサーの上に戻した。


 **

「〈ふたつたましい〉はその名のとおり、ひとつの体にふたつの魂が入っていることを言います。今、紬さんの中には冬部ゆらの魂が入っています。〈ふたつ魂〉の厄介な所は宿った魂が〈異世の国〉の住人である場合、魂が役目を終えて消えるまで、元の世界に帰ることができません」

 屋隈の表情は険しいものだった。

 紬は屋隈の表情を見て、それが難しいことであるのを察した。

「日納。顕谷。あなた達、ゆらとは昔からの付きあいでしょう? なにか、分かることはない?」

 蓮香が日納と顕谷を見ると二人は同時に首をふった。

「ゆらは、大事なことだけは誰にも言わない。それはあんた達だって分かっているだろうさ。屋隈。ゆらはあんたにだって、言わなかったんだろう?」

 日納は視線だけで屋隈を見た。屋隈は静かにうなずき、口を開いた。

「ただ、ゆらは、災厄がなぜ、起きるか分かっていたようだった」

「はあ?」

 顕谷が声をあげると、屋隈は続けた。

「その正体を教えてもらう前に、ゆらは死んだ。だから、私は知らない。だが、ゆらの役目はおそらく、神風を吹かせることではないか」

「でも、違和感があるわね」

 蓮香は紬を見た。

「ゆらは……他人を巻きこむ子ではないでしょう」

「ゆらは、自分の身は二の次だっただろう」

 屋隈に言われて蓮香は目を開いた。

「……だからって」

 蓮香はくちびるを震わせた。

「私は、大丈夫です」

 紬は自分でも分かっていた。冬部ゆらは、生まれ変わりならいいと思ったのだ。生まれ変わりとは言え、紬の体は紬のものであって、ゆらのものではない。それでも、紬に不思議とゆらに対する怒りはなかった。むしろ、ゆらに感謝さえしていた。

(あなたが私の中にいなければ、彼らは強制的に私を帰していた)

 身勝手な願いをつらぬく彼らだ。どんな手を使ってでも自分を帰すだろうことを紬は分かっていた。

 落ちついている紬の様子に腹をくくったのか、屋隈が口を開いた。

「この話は一旦、保留にします。まずは〈日欠ひかけ〉について話します。〈日欠け〉はあなたの国における、日食です。〈つき〉が〈〉の上に重なる〈日欠け〉自体はめずらしいことではないのですが、〈日重ひかさなり〉と重なるのは、大変めずらしいのです。百年に一度の現象です」

「百年に一度……」

 紬が口にすると、屋隈がうなずいた。

「はい。同じく百年に一度の〈神風ノ日かみかぜのひ〉と重なるのもめずらしいことです。ただ、この現象、我が国にとっては問題があります。〈日欠け〉が近いときは〈日重なり〉から災厄までの時間が早まるのです」

「早まると、まずいことがあるのですか?」

「人々を避難させる時間が短くなります」

「あ……」

 紬は〈光和之国〉の人達の存在を失念していた。自分の世界の狭さに気づいた紬は自分の膝に視線を落とした。

(――私は、この国の人間ではないのだ)

 そんな紬の気持ちをおもんばかるように屋隈は続けた。

「前例がないため、はっきりと言えませんが、〈日重なり〉と〈日欠け〉が重なる日、我々もなにが起きるか、分からないのです。せめて、〈日重なり〉の時間が分かるといいのですが、相手は自然のような災厄です。広大な土地ですから、民間人が災厄に巻きこまれないように注意を払わねばなりません。それに、紬さん。あなたも、軍人ではありません。災厄と戦う術を、あなたは持っていません。ですから、絶対に我々から、離れないでください」

 屋隈の真摯な表情に気圧され、紬はうなずいた。

「あ、でも私は駄目よ」

 緊張感を断ち切るような声で言ったのは蓮香だった。

「私は、自分の身を護るので精一杯だから、共倒れになっちゃう。屋隈、顕谷、日納の所に行くようにね。……絶対に私の所には行かないでちょうだい」

 蓮香は、そう言うと、やわらかにほほえんだ。

「分かりました。蓮香さんを傷つけたくないので、そうします」

 紬の言葉に蓮香は含み笑いながら目の前の顕谷に視線を向けた。どこか自慢げな表情を浮かべて鼻を鳴らす。

「顕谷! 聞いた? 嬉しいこと言ってくれるわあ」

 顕谷はそんな蓮香を無視して紬を見た。

「蓮香は基本、非戦闘員だ。蓮香もそうだが、俺もやめたほうがいい。俺が龍の姿になったとき、災厄の形状によっては、あなたを護ることが難しいこともある。できれば、日納か、屋隈に護ってもらったほうがいい」

「分かりました。顕谷さん、気遣ってくださり、ありがとうございます」

 顕谷は、紬を不思議そうな目で見ると、困ったように目をそらした。そして屋隈に視線を移した。

「屋隈」

「ああ。紬さん。ゆらの魂があなたの中にある以上、あなたには、あらためて協力をお願いしたいと思います」

「はい」

 紬がうなずくと、屋隈は続けた。

「二日後の〈日重なり〉と〈日欠け〉の重なるときが〈神風ノ日〉です。その日、〈神風の子〉としてあなたには神風を吹かせていただきたいのです」

「分かりました」

 うなずいた紬の前で屋隈は軍服の前ポケットから鏡を取り出した。空を見るときに使う〈日見鏡〉を、屋隈は紬に差し出した。

「こちらをあなたに預けます。空を見るときに使ってください」

 差し出された〈日見鏡ひみかがみ〉を紬は受け取った。

 緻密な浮き彫り細工の黒い額縁を見て、紬は思わず吐息をもらした。

「綺麗だろう? この意匠いしょうは屋隈が考えたものだよ」

〈日見鏡〉に見惚れる紬に日納が声をかけた。

「意匠……」

 紬は顔をあげて日納を見た。

「模様のことだよ。〈光和之国こうわのくに〉の紋様と、〈星降ほしふはな〉をあしらった意匠さ」

「〈星降る花〉、というのは、なんの花でしょうか」

 紬は聞き覚えのない単語を聞いて、日納に問いかけた。日納は、そうだ、と言うように目を開いた。

「紬さんの所では、言い方が違うんだったね。〈星降る花〉は金木犀きんもくせいさ。この鏡はね、軍学校を卒業するときに送られる鏡でね。卒業する前に生徒全員が意匠を書いて、選ばれた人の意匠が使われるんだよ」

 紬は屋隈を見た。

「そんな立派なもの……私が持っていて、いいんですか?」

 屋隈は当然だというようにうなずいた。

「ゆらが使っていたものだからこそ、あなたに持っていて欲しいのです」

 それを聞いた紬は首をふった。

「なおさら、受け取れません」

 だが、屋隈は首をふった。

「だからこそ、持っていて欲しいのです」

 屋隈の力強い声に紬は〈日見鏡〉に視線を落とした。

「……分かりました。しばらくの間、お借りします」

 紬は〈日見鏡〉を制服の胸ポケットに入れた。

「……ゆらがすまない」

 紬が顔をあげると、屋隈は目をふせていた。

「いえ。冬部さんは、あなた達を護りたかったんだと思います。素敵なご友人ですね」

 屋隈は少しだけ目を開き、うなずいた。

「……はい」

 とたん、手のひらが弾かれるような痛みに紬はおどろいた。嘘をつくことのできない〈光和之証こうわのあかし〉の紋様が入った手が痛む意味は、ひとつしかない。屋隈の隣に座る顕谷が無言で手のひらを下にふり、紬の両脇に座る蓮香と日納もまた、無言で手のひらを親指でさすっていた。屋隈は自分の手のひらを見つめながら、困ったようにほほえんだ。

「申し訳ありません」

 そのほほえみは屋隈にとって、冬部ゆらは友人ではないことを告げるものだった。

「紬さん。ゆらは、私の恋人です。妻になる人でした」

「そう、だったのですか」

「はい。言わなくてもいいことだと思ったのですが……。痛くありませんでしたか?」

「……はい」

 紬は屋隈に向ける言葉を持たなかった。どんな言葉を向けようと、紬は屋隈に寄り添うことはできないからだ。

「――紬さん。私は、ゆらに対して怒っています」

 おどろいて顔をあげた紬に、屋隈は言った。

「生まれ変わりであろうとも、あなたは、冬部ゆらではありません。あなたは紬さんです。それだけはお伝えさせてください」

 言葉をのみこもうと、ぼんやりとしている紬の耳に顕谷の声が飛んだ。

「そうだ。紬さん。あなたはもう少し、ゆらに対して怒ってもいいんだぞ」

「そうよねえ。自分の体を勝手に使われた怒りとか、私達に言ってもいいのよ? 友人だからってなんでもゆらのことをかばったりはしないわ」

 蓮香が優しい笑みを向けながら言った。その隣で日納が静かに声を落とした。

「そう。紬さん。あなたの体は、あなたのものだ。私達はあなたのことを、ゆらだとは思っていない。紬さんとして、私はあなたの意志を尊重したいと思う」

 紬は顕谷を、蓮香を、日納を見た。そして、困ったようにほほえんだ。

「ごめんなさい。私は、冬部さんに感謝していました」

「は?」

「へ?」

「あら」

「……は」

 顕谷、日納、蓮香、屋隈が発した声に紬は笑顔で答えた。

「これで、目的を果たした後に、元の世界に安心して帰ることができます」

 この国に来てから初めて見た紬の笑顔と、どこか嬉しそうな声に屋隈達はあきれたように息をはいた。

「……本当、あなたは厄介な人だよ」

「あら、顕谷。奇遇ね。私も同じことを思ったわ」

「蓮香。それは私も同じだ」

「……私も、同じですよ」

 屋隈は紬を見た。その目は子供を気遣う大人の眼差しだった。

「ならば紬さん。ひとつだけ、約束してください。あなたは、私達にちゃんと、護られてください」

「はい」

 紬が答えると、屋隈は口元をほころばせ、うなずいた。


 **

 それぞれがソファーから立ち上がり、外に出る為の準備をしているときだった。紬は旗を手にしてから、あ、と声をあげた。

「あら、どうしたの?」

 のんびりとした蓮香の声に紬はふり返った。軍帽を被り、身だしなみを整えた屋隈達

 に、紬は今、聞いていいものか悩んだ。悩んだが、聞かなければいけないような気がしたのだ。

「……今、聞くことではないと思うのですが、〈光和之国〉の神様は、どうして殺されたのですか?」

「……人を、殺したからです」

 屋隈の声はどこか、落ちついていた。

「ゆえに復讐のために殺されました」

 紬は言葉の意味をすぐに理解することができなかった。ただ、手にした旗竿をつかむ手のひらがじっとりと汗ばむのを感じていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る