三 滅びの途上

 墨色の旗が群青の空の下でひらめく姿は、美しかった。鮮やかな対比にみほれながら、空を見ていると、とつぜん、現れたまぶしい光につむぎは思わず、目を細めた。

 まぶしい光の正体は、太陽だった。それまで見えていなかった太陽の出現におどろいた。おどろいたのは、それだけではない。

(太陽が、ふたつ……?)

 ふたつある太陽に気をとられたとき、旗の重みで手が引っぱられた。

「あ」

 倒れそうになった旗を倒すまいと旗竿を握りしめる手の力をこめたとき、慌てて近づいた蓮香はすかが旗竿を紬のほうに引き寄せた。

「大丈夫?」

 紬はうなずきながらも、蓮香が引き寄せてくれた旗を体に寄せて倒れないようにした。その様子に蓮香は、ほほえみを見せた。

「旗、倒さないようにしてくれてありがとうね。この旗は国の誉れ。絶対に倒しちゃいけない旗なの」

 それを聞いて紬は旗竿を両手でしっかりと握りしめた。紬にとっては無意識の行動だったが、蓮香は嬉しそうな顔を隠さなかった。

日納ひのう! 屋隈やくま! 顕谷あらや! 無事?」

 蓮香が声をあげると、屋隈が変化しながらこちらに近づいてきた。黒い肌がゆっくりと元の色に変化していく様子を紬はどこか遠い世界のように見つめていた。

「無事だ。紬さん、お怪我はありませんか?」

 屋隈に問われて紬はうなずいた。うなずいた紬に屋隈は優しい笑みを見せた。

「私達の変化、おどろかれましたよね?」

「はい。でも、この世界ではこれが日常なんですよね?」

「はい。私は天狐てんこの力をさずかった〈きつね〉です。顕谷は龍の力をさずかった〈りゅう〉です」

「そうだ。だが、〈神風の子〉とはまた、違う」

 地響きのような声に紬は顔をあげた。まだ変化を解いていない顕谷の、大きな龍の口が動く。紬がおどろいていると、屋隈が続けて説明した。

「私達の力は、先祖代々から受け継がれる血脈のようなものです。私は天狐の一族ですから、狐の力をさずかることができる。顕谷と日納もそうです。顕谷は龍の一族で、かつては産土神として村の水源を護る神様でありました」

「眉唾物の話ではあるがな」

 顕谷は龍の姿のまま、声をあげて笑った。地を震わせる顕谷の笑い声に対して、変化を解いていない日納があきれた声をあげた。

「お前は罰当たりなことを言うね。あんたの婆さんが文句を言うだろう。そうだ、紬さん。こちら、鞄です」

 日納が鬼の変化のまま、紬に近づき、鞄を手渡した。あのとき、塔の中に置いてきたスクールバッグだった。

「ありがとうございます」

 紬はスクールバッグを受け取ると、頭をさげてお礼を言った。

「大丈夫です。……紬さん。さきほどの説明だけじゃあ不十分なところがあったから、あらためて説明させて欲しい。私は、見ての通り、鬼の一族です」

 紬は日納の金色に光る角を見た。

「鬼の一族、〈おに〉は全員、屈強な肉体と力を得て生まれてきます。私の見目、あなたの国の人間の女性より大きいでしょう?」

 日納に問われて紬はなんと答えていいものか悩んでいた。そんな紬を見て日納はほほえんだ。

「困らせて申し訳ありません。でも、私は自分の姿が好きです。〈鬼の子〉として生まれた男女は身長と腕力に共に差がなく、見目も他の一族と比べるとやや男性的です。そして」

 日納は下に散らばる小さな石をつまんで、手のひらにのせた。

「この石を、握りしめてくださいますか?」

 紬は日納の手から石を取ると、手のひらで握りしめた。手のひらの中で石はひやりとした硬い感触のまま、びくりともしない。

「では、いいですか?」

 日納は紬から石を受け取ると、指の力だけで粉砕した。紬はびくりともしなかった石が砕け散る様を見て、あぜんとした。

「これが〈鬼の子〉の力です。肌も鋼鉄並みの硬さを持ちます。並みの銃であれば肌を通すことはありません。ゆえに私は肉弾戦担当です」

 日納は少しずつ変化を解いた。白い髪と黒い肌が元の色に戻り、口元の牙が縮んでいった。

「ちなみに私は〈ひと〉よ。この国の人間の大半がそうね」

 蓮香の言葉に紬は思わずおどろいた声をあげた。

「えっ……。でも、さっき、外で、声を使って……」

「声ね。これは、屋隈達のように、さずかったものではないの。〈人の子〉の……そうね。呪いみたいなものよ」

 そう言って蓮香は舌を出した。

 紬は蓮香の舌を見て、おどろいた。真っ黒な舌の上に国旗の紋様が刻まれている。蓮香は舌を引っこめてから言った。

「私の一族の呪いのようなものでね。人を従わせる力があるの」

 言ってから、おどろく紬の顔を見た蓮香は慌てて言葉を足した。

「ただ、人を傷つける力はないわ。あくまで、行動をうながすものなの」

 声が届かなかったら、どうするつもりだったのだろう。紬の考えを見抜いたのか、顕谷が言った。

「蓮香は豪胆だからな。いざとなれば俺が蓮香の盾になる予定だったんだ」

 顕谷があきれたように言うと蓮香は楽しそうに笑った。そんな無茶な、と紬が顔に出すと、屋隈があきれた目線を蓮香に向けた。

「だが、さきほどは危なかった」

「そうね。さっきは危なかったわ」

 屋隈に言われて蓮香はほほえみを浮かべたまま言った。

「ああ。〈日重ひかさなり〉から災厄までの時間が早くなっている。本来ならば時計の長針が十ツ回ってからのはずだ。顕谷。十分すぎていたか?」

 屋隈が聞くと、頭上で顕谷が雷のような、うなり声をあげた。

「いや。後、三分の猶予はあったはずだ」

「どちらにしても、早急に対策しなければ、まずいことになるわ」

 蓮香が声を落とした。顕谷は変化を解かぬまま、龍の姿で紬達を見おろしていた。屋隈は顔をあげて顕谷に問うた。

「顕谷。災厄はどうなっている?」

「〈神風の子〉の力で消えた」

 顕谷の龍の口がゆっくりと動く。

 紬は、さきほどから、屋隈達がなにを話しているのか、分かっていない。ただ、黒く塗りつぶされた空を前にした恐怖が今も残っている。災厄が来る、と言った顕谷の言葉を思い出した紬は、蓮香に問うた。

「あの。災厄って、なんですか? 凶事とは違うのですか?」

 蓮香の目が揺れる。紬に説明するかを迷っている様子だった。そんな蓮香を後押ししたのは日納だった。

「蓮香。説明したほうがいい。でも、ここは屋隈に説明させたほうがいいと思う」

 蓮香はためらいながらも、屋隈を見た。

「……そうね。あなたが説明するのが一番よね。ごめんなさい」

「いや。お前は上官だ。さきほどの判断は、正しい」

 蓮香は首をふった。

「今は、あなたが上官よ。……ゆらのことは、あなたに任せると言ったのだから」

 屋隈はどこか悲しそうな表情を浮かべて、うなずいた。

「……紬さん」

「はい」

 屋隈に名前を呼ばれて返事をすると、屋隈は、紬を一瞬だけ、不思議そうな表情で見つめた。紬は屋隈の表情の意味するところを知らない。それでも、冬部ゆらに対する屋隈の気持ちがなんとなく分かってしまったような気がした。

「災厄と凶事は違います。凶事は流行病や祟りといった神による災いです。我が国では神風の吹かなかった百年は流行病で多くの尊い命が奪われると言われています。実際に神風の吹かなかった年は流行病と祟りが数多く起きています。そして、災厄は、我が国の災害のひとつです。紬さん。天にふたつの〈〉があるのが分かりますか?」

 紬は空を見ようとして、屋隈に止められた。

「そのまま見ると目を傷めますから、こちらを使ってください」

 屋隈が手渡したのは、手のひらほどの大きさの、額縁のついた鏡だった。黒い額縁は旗の紋様と花を組みあわせた浮き彫り細工の見事なものだった。

 紬の知る鏡と違うのは、鏡の色が銀色ではなく、金色であることだった。屋隈は続けて説明した。

「〈日〉を見るための〈日見鏡ひみかがみ〉です。私達はこちらを使い、〈日〉を見ます。こちらを使って、空を見てください」

「はい」

 紬は見事な細工の鏡を空に向けた。すると、鏡の色は金色からオパールのような色鮮やかな色に変化した。

 だが、鏡の色が変化したことよりも、紬は太陽がふたつ並んでいるのに目を奪われた。太陽は離れたところに確かに、ふたつ並んでいる。

 紬は顔を下に戻すと、屋隈を見た。

「鏡をありがとうございます。この世界では、太陽がふたつあるのですか?」

 紬は屋隈にお礼を言ってから、〈日見鏡〉を返した。

 屋隈は鏡を軍服のポケットにしまった。

「そういえば、〈異世いせくに〉では〈日〉を太陽と呼ぶのでしたね。答えはいいえ、です。天にふたつの〈日〉がありますが、ひとつは幻影です。あの〈日〉がふたつ重なる現象を〈日重ひかさなり〉と呼びます。〈日重なり〉はなんの前触れもなく訪れ、〈日〉が重なってから十分後に災厄が来るのです」

「来る?」

 紬はどういうことが分からず、問うた。

「黒く塗りつぶされた空を見ましたか?」

「はい」

「あれが災厄です。災厄は天から地へと雨が降るようにやってきます。災厄は……ありとあらゆる形で人を傷つけます。例えば、武器を手にした人間や龍、獣と様々です。災厄が地に降り立つまでの間、我々は手を出すことができません」

「えっ」

 おどろく紬に屋隈はうなずいて続けた。

「災厄は、黒い姿が完全に天から切り離されるまで、こちらの攻撃が効かないのです。ですから、さきほどは危なかったです。あなたのおかげで、蓮香と顕谷が助かりました」

 紬は旗を握る手に力をこめた。

「それならば、さきほどの災厄は、どうして消えたのですか?」

 紬が旗を手にしたとき、風が下から吹きあがり、黒い空は瞬時に群青色の空へと姿を変えた。紬は自分でもなにがなんだが分かっていなかった。

「〈神風の子〉の持つ力です。神風は、この国の神の威光である風であり、勝利をもたらす力と言われています。同時に、災厄を消すと言われる力です」

「災厄を、消す……」

 紬はその先の言葉を止めて、うつむいた。

「……完全には、消せないのですか?」

 紬が顔をあげて問うと、屋隈はおどろいた顔をした。屋隈はおどろいたまま、答えに迷っている様子だった。

「そりゃあ、無理だ」

 屋隈に代わり、上から答える声が落ちてきた。顕谷だ。龍の姿をしたままの顕谷はゆっくりと口を動かした。

「災厄は、紬さん。あなたの国で言う所の地震や台風だ。あなたの住まう〈異世の国〉では地震や台風は防げるものですか?」

 顕谷の言葉に紬は、はっと目を開いた。そうだ。災害は前触れなしにやって来て、完全に防ぐことは出来ないものだった。

「いいえ……」

 紬は首をふった。

「それと同じだ。災厄は我が国の、災害だ。――神を殺した我が国の、罰の証だ」

「え?」

 紬は屋隈を見た。

「神?」

「……顕谷。いいか?」

 屋隈が問うと、顕谷は体を震わせた。黒い鱗が〈日〉に反射してきらきらと光った。

「もとよりそのつもりだ。紬さん。乗ってください」

 日納の背丈より大きな龍の胴体を前に、どうやって乗るのだろう、と紬が目を丸くしていると、日納に声をかけられた。

「紬さん。私が上にのせます。その前に、旗をしまいましょう」

 紬は日納と蓮香に手伝ってもらいながら、旗をしまった。旗は旗竿に巻きつけて、飾り紐で留める仕様になっていた。

「旗を使うときは、この紐をほどくだけですぐに開くようになっているから」

 金糸で作られた飾り紐を指さしながら、蓮香は紬に丁寧に説明してくれた。

「では、上に行きましょう。紬さん。いいですか?」

 日納が片手に蓮香を抱えながら、紬に問うた。

「はい」

 紬がうなずくと、腰に手を回された。日納は、蓮香と紬を両脇に抱えたまま、地面を蹴って飛びあがった。まるで空を飛んでいるような心地に目を丸くしていると、着地は意外にも、ふうわりと優しく龍の鱗の上に降り立った。

「はい。座って」

 蓮香が座るようにうながしたが、紬は旗をどうするか迷った。

「横にして大丈夫ですよ」

 あぐらをかいて座った日納に言われ、紬はゆっくりと旗を横にして座り、膝の上に置いた。

 続いて屋隈が龍の上に降り立つと、顕谷が声をかけた。

「行くぞ」

「ああ」

 屋隈がうなずくなり、顕谷の、龍の姿がゆっくりと浮かびあがり、前に進んだ。意外にも早いのに不思議と風の抵抗はなかった。

「紬さん。今から〈光和之国こうわのくに〉の姿が見えます」

 立ち上がったままの屋隈が指をさした。紬は屋隈の指さすほうを見た。国の姿を見て、紬はおどろきに目を開いた。

 紬の住む日本とはまた違う風景が眼下に広がっていた。東ヨーロッパを思わせる街並みが広がっている。それでもどこか日本的な造りをした建物が区画整理されて並んでいた。

「まだまだだ」

 顕谷の声に紬は息をのんだ。街並みが遠くなっていく。空がどんどん近くなり、建物がひとつの色彩に溶けこんだとき、紬は自分の目をうたがった。

〈光和之国〉は日輪の形をしている。まんなかに大きな円を描いた海に浮かぶ島があり、その周囲をぐるりと円で囲んだ島がある。

 だが、その島は海に浮かんでいない。黒々とした穴の上に〈光和之国〉はあった。その姿を見たとき、紬は恐怖に身がすくんだ。

 まるで宇宙の果てのように底知れぬ深さを思わせる穴だった。穴に落ちてしまえば永遠に落下し続けるような恐怖を感じ取った紬は思わず、目をそらした。

「あれが、災厄によって欠けた我が国です」

 屋隈は穴から目をそらさずに言った。

「欠けた?」

 屋隈の説明がにわかには信じられず、紬はもう一度、〈光和之国〉を見た。黒々とした穴の幅は円で囲んだ島よりも大きかった。

「はい。あの黒々とした場所はかつて、島があった場所でした」

 紬は信じられないものを見るような目で、黒い穴を見た。どこまでも吸いこまれそうな黒々とした穴に国があったことが信じられなかった。

「少し怖いですが、近づきます。顕谷。頼む」

「ああ」

 轟々とした風鳴りの音と共に落ちていく。風の抵抗はなかったが、紬は思わず体を固くした。下に近づくにつれ、穴の大きさがはっきりと分かる。島と穴の境目に差しかかったとき、紬は膝の上の旗竿を強く、握りしめていた。

 島が、国が、街が欠けている。

 かつて人々が暮らしていたであろう街の建物が鋭利な刃物ですっぱりと切られたようになくなっている。欠けた部分は穴と同じく黒々とした断面を見せていた。

「――これが、この国の災厄です。百年前、神を殺したその瞬間から現れた災厄は〈日重なり〉のたびに少しずつ、広がりを見せています。止める術はなく、後、百年経てば、この国は滅ぶでしょう」

 それでも、と屋隈は続けた。

「この先の百年を凶事に見舞われることがないようにあなたには神風を吹かせていただきたいのです」

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