第一章 異なる世界

一 かくれんぼ

 ――こうわさま。

 誰かを呼びかけるやわらかな声が耳元で聞こえたとき、滝頭たきとうつむぎはとっさに、ふり返った。

 桜が舞う河川敷の道は、紬以外に誰もいない。紬は疑問に思いながらも、前を向いて、ナイロン製の黒いスクールバッグを肩にかけ直してから、歩き始めた。

 前から吹き抜ける柔らかな風が紬のベリーショートの黒髪を揺らす。耳をなでる風のくすぐったさに目を細めながら、紬は大股に足早に歩いていた。

 紬は今年の春、中学二年生になった。黒いブレザーにグレーのプリーツスカート。学校指定の太陽の校章がついた黒い靴下。そして、あまり気に入っていないバイオレットのリボンを紬は鞄を持つ手の指先でもてあそんだ。

 家までの道を足早に歩きながら、紬は今しがた聞こえた声が気になっていた。なぜなら、聞き覚えのある声だったからだ。

 遠い記憶の扉を一瞬にして開いた声を、紬はおぼろげながらも、覚えていた。あれは、幼い頃によく聞いた声だった。

 幼い頃の紬は、よく、なにかに話しかける子供だったという。母はそのときのことを困ったように話していた。

『やくそくだからね。まだ、あおうね』

 なにもない場所に向かって、くりかえし言うものだから、怖かったと、母は話していた。だけど、あるときを境に、ぱったりとなくなったのだという。

 紬は、そのときのことをあまり覚えていなかったが、母は、はっきりと覚えていた。あれは八歳になるまでの出来事だったという。なぜ、八歳になるまでだったのか、それは分からない。

 自分が八歳のときに、なにを口にしたのかなんて、当然、忘れている。それでも、こうわさま、と呼びかける声が聞こえていたことだけは、おぼろげに覚えていた。

 紬はなんとなく立ち止まると、声を聞きとろうと耳を澄ませた。桜の花を散らす風以外に音は聞こえてこない。

 紬が気のせいだと思ったそのとき、同じ声がくりかえし聞こえて来た。

 ——こうわさま。

 その声は、さきほどよりも、はっきりと紬の耳元で聞こえた。紬は思わず立ち止まって、ふり返った。桜がはらはらと舞い落ちる風景が目の前に広がるほかにはなにもない。声の主らしき人物はどこにも見当たらなかった。

 あの頃よりも大人びた声に紬は忘れかけた声を少しずつ、思い出していた。

 そう。あの頃も、声だけは聞こえていた。そして。

 ちろん。

 こもったような鈴の音が聞こえたとき、紬は、息をのんだ。次の瞬間、紬は周囲を気にすることなく、姿の見えない声に話しかけた。

「ねえ。私の声が聞こえる?」

 しばらく耳を澄ませても、声が聞こえることはなく、風の音が耳のそばを通り抜けるだけだった。やはり気のせいだと思った、そのときだった。

 ——つむぎ?

 聞き覚えのある声に紬はおどろいた。すぐに反応することができずにいると、うなるような風の気配がした。

 前を見ると、河川敷の砂をえぐるような風がせまってきた。体が持っていかれないよう、とっさにスクールバッグの持ち手を両手でつかんで身構えた。同時に目を開けられなくなるような砂まじりの風が吹いてきた。風と共に吹いてきた砂が顔と手足に当たって痛い。目を閉じて痛みに耐えていると、冷たく、やわらかなものが紬の頬に触れた。

 それは自分と同じ年頃の少女の手のようだった。

(誰?)

 顔に当たる砂のせいで紬は目を開けることができなかった。

 ——重なったのね。

 その声は風の中にあってもよく聞こえた。紬の頬を優しい手が包む。

 ——つむぎ。ごめんなさいね。

 どういうことなのだろう。紬は問いかけたくても、顔に当たる砂のせいで口を開けなかった。砂が肌をたたく痛みに耐えながら、体が吹き飛ばされないようにするだけで精一杯だった。せまりくる風は紬の体を押し包んだ。

 ——あの人達を、よろしくね。

 続けて声が聞こえると、紬は、どういうこと、と思った。あの人達とはいったい、誰のことを言っているのだろう。

 ちろん、と鈴の音が聞こえたとき、風の音が一瞬にしてやみ、風の名残が耳に残った。

 紬が、おそるおそる目を開けると、景色が一変していることに気づいた。最初に目に入ったのは、黒い景色に浮かぶ太陽のような紋様だった。

 目を惹く紋様だった。二重の環の上に放射状の光が重なっている。

 紋様に目をうばわれながらも、紬は次に空を見あげて、あまりのまぶしさに目を細めた。空の色は夜そのものなのに、周囲は昼のように明るかった。

 紬は空の色も気になったが、なによりも、見なれぬ人間が自分を囲んでいるのが気になった。黒い景色の中に浮かぶ紋様の前には男性が立っている。

 紬は警戒しながらも、自分の周囲を見た。前に一人、左右に一人ずつ、後ろにも一人。四人に囲まれている。全員が同じグレーの軍帽と、黒い飾り紐がたくさんついた軍服を着ている。見なれぬ格好をした人間に囲まれているのに、紬はなぜか、落ちついていた。

 紬は警戒したまま、制服のポケットからスマートフォンを取り出した。とまどう声が飛んだが、紬はかまわずにスマートフォンの電源を入れた。

 圏外だ。スマートフォンを制服のポケットに入れた紬は覚悟を決めて、自分を囲む人達を見た。

 見た所、襲いかかってくる様子もない。誘拐や物取りと言ったようなものでもないようだ。なら、愉快犯だろうか。それはそれで厄介だ、と思った紬は肩にかけたスクールバッグの持ち手をつかむ手の力を強めた。なにかあれば鞄を武器にこの場から逃げるつもりでいた。

 紬は目だけで周囲を確認した。逃げてどうにかなると思っていなかったが、自分を囲む人間が信用できる人なのか分からない以上、警戒する必要があった。

 紬は周囲を確認してから、やはり空の黒さが気になった。紬が足を引いたとき、靴底を砂がこする感触がした。紬はとっさに下を見た。

(黒?)

 紬は自分が立つ場所が、真っ黒な地面の上だと気づいた。それなのに、見た目は地面ではない。まるで、地面との間に薄いなにかを敷いたような違和感があった。

 そういえば、と紬は空を見あげた。空もなにかが、おかしい。吸いこまれてしまいそうな真っ黒な空を前にして、紬は息をのんだ。

 ここで逃げきれるとは思えなかった。ここがどこで、どういうところなのか、紬は分からないからだ。

 それでも念のための逃走経路を確認した紬は、自分の目の前にいる男性に声をかけようとして、とまどった。

 なぜなら、目の前の男性は自分を見て、困惑した表情を浮かべていたからだった。

 どこか悲しげにも見える表情を向けられて、紬は警戒心をほんの少しだけ解いた。ほんの少しだけだ。

 紬は、改めて目の前の男性を見た。険しい表情をしているが、敵意をあらわにしている様子ではない。紬は自分よりもはるかに年上の男性を前にして、少なくとも、話が通じなさそうな相手ではないと思った。そう願いながら紬は問いかけた。

「あの、誰ですか? 私に、なにか、ご用ですか?」

 様子見の言葉で問いかけると、目の前の男性は狼狽した様子で自分を見つめていた。その表情に紬はどうしてか胸が痛んだ。同時に、なつかしさがこみあげてきた。胸をしめつけ、喉がつまるような、言葉にできない苦しい感情が濁流のように押し寄せた。

 その感情を、紬は知らなかった。それなのに、目の前の男性に対する気持ちは、自分のものではないことを、紬はなぜか、分かっていた。

「あなたは……」

 あなた、目の前の男性は、そう言った。子供である紬に、最大限の敬意を払うような声だった。

 険しい表情を浮かべながらも、その目にどこか優しさを感じる男性は、姿勢を正すと、右手で敬礼をした。

「……私は、〈光和之国こうわのくに〉、帝国軍省ていこくぐんしょう兵務局へいむきょく大尉、屋隈やくま治正はるまさと申します。あなたに危害をくわえるつもりはありません」

 屋隈と名乗った人は敬礼をしたまま、隣に視線を移した。踵まである長い髪の男性は屋隈の隣に移動すると、姿勢を正して敬礼した。

「帝国軍省軍務局ぐんむきょく中尉、顕谷あらや柳一郎りゅういちろうと申します」

 顕谷の目は紬ではなく、背後に向けられた。紬は体を少しだけ動かして後ろを見た。

 後ろを見たとき、紬はおどろきに目を開いた。さきほどは足元でしか確認できなかったが、後ろにいたのは女性一人と、鬼、だった。額に角を生やした背の高い女性が紬を見おろしている。

 すると、角を生やしていないほうの女性が優しそうなほほえみを浮かべて姿勢を正し、敬礼した。

参謀本部さんぼうほんぶ諜報課ちょうほうか少将、蓮香はすか市子いちこと申します」

 黒く艶やかな、癖のある長い髪をそのままにした蓮香はにっこりと、ほほえんでいる。最後に敬礼したのは額から角を二本生やした、紬と同じように短い黒髪の女性だった。この中で一番、飛びぬけて背が高い女性は威圧感があった。

「参謀本部戦争指導課せんそうしどうか中尉、日納ひのう千寿ちとせと申します」

 紬は視線を屋隈に戻した。

「我々はあなたに危害を加えないことを約束します。……さしつかえなければ、お名前を教えていただけないでしょうか」

 屋隈治正と名乗った男性に問われて、紬はためらい、悩みながらも、名前だけを教えた。

「……紬です」

 屋隈は、紬の名を聞くや敬礼を解き、頭をさげた。

「紬さん。あなたに謝らなければならないことがあります」

 屋隈だけではない。顕谷、蓮香、日納も同じように頭をさげた。紬は、おどろきながらも口を開いた。

「その前に、頭をあげてから、説明していただけませんか」

 紬は並んだ軍人を前に警戒しながらも話を聞くことにした。異常事態であることは分かっているが、頭は意外にも冷静だった。ここから逃げてもどうにもならない。ならば、一度、話を聞いてからどうするか判断したほうがいい、と紬は思った。

「まず、最初に謝らなければならないのは、あなたを、ここに呼んでしまったことです」

 屋隈は、紬に、丁寧に淡々と、説明を始めた。

「先に国の説明をさせてください。この国は〈光和之国こうわのくに〉と言い、産土神うぶすなかみが住まう国々のひとつの名称です。この国は円状のまんなかに穴の開いた土地があり、そのまんなかに円状の土地がある、日輪にちりんの形をしている国です。私達の国は、百年に一度、神風が吹かなければ、この先、凶事に見舞われると伝わる国です」

 紬は話を聞きながら、日本ではない別の世界に呼ばれてしまったことを知った。目の前にいる人達は日本人のように見えるが、どことなく雰囲気が違う。こうわのくに、なんて聞いたことがない。さいわいなのは言葉が通じることだった。

「それが私となんの関係があるのでしょうか」

 紬は屋隈に問いかけた。

「神風は、我が国の行く末を決めるものです。しかし、神風を吹かせる者は一年前に戦死しました。ゆえに、ひとときの間だけ、〈常世とこよくに〉、いわゆるあの世からその者を呼び寄せようとしました。ですが、その者はすでに生まれ変わった後でした。そのため、あなたが呼ばれたのです」

 大変申し訳ないことをしてしまった、と頭をさげた屋隈を前に紬はどこか夢の中にいるような心許なさを覚えていた。

 考えてもしかたないことに気づいた紬は、一番、聞きたいことを聞くことにした。

「私は、元の世界に戻れますか?」

「はい」

 力強い声に安堵すると、次に聞こえたのは信じがたい言葉だった。

「ですが、あなたに協力していただきたいことがあります。どうか、我が国を凶事から護るために、神風を吹かせていただけないでしょうか」

「――え」

 呼吸と共に声が出る。

「ま、待ってください。神風って、私は、なんの力もないです」

 紬がすぐに否定するも、屋隈は首をふった。

「いえ。あなたには、その力がある。でなければ、〈まれびと〉として〈異世の国〉からこちらに呼ばれるはずがないのです」

 屋隈の目は紬をまっすぐに見つめていた。

 紬は、屋隈の信じがたい言葉を聞きながらも、不思議と混乱していなかった。まるで夢の中の不条理さを受け入れるかのように紬は落ちついていた。

「……神風、ですか。それを吹かせることができたら、私は、元の世界に帰れるということですよね?」

「はい」

「では、私が、神風を吹かせることができなかったら、どうなるのですか?」

 屋隈は目を開いた。他の人もまた、とまどいに満ちた目を紬に向けていた。

「それでも、あなたを元の世界に帰すことを約束しましょう」

 屋隈の静かで力強い声に紬はうなずいた。

(この人は、約束をやぶることはしない)

 それでも、紬には迷いがあった。しばらく迷った後に、紬は問いかけた。

「神風を吹かせることができなかったとき、あなた達はどうなりますか?」

 紬が問いかけながら彼らの顔を見たとき、紬はどうしてか、胸が痛んだ。

 彼らの顔はおどろきでも、とまどいでもなく、紬の問いかけに納得したような表情だったからだ。屋隈はほほえみ、うなずいた。紬はおどろいた。あんなにも険しい表情をした屋隈が、優しくほほえむことに、おどろいたのだ。

「あなたは気にしなくてもいいのです。私達は、勝手にあなたを呼んでしまった。その始末をあなたに負わせることはしません」

 紬は、屋隈の言葉に、聞きたい答えを得ることはできないのだと、分かってしまった。

「私は、元の世界に帰れるのですね?」

「はい。約束を違えることはしません」

 屋隈は目に強い光を宿しながら、うなずいた。紬は一度目を閉じると、大きく深呼吸し、何度か呼吸をくりかえした。

 そして目を開けると、屋隈やくま顕谷あらや蓮香はすか日納ひのうを見た。

 不思議と彼らに対する怒りはなかった。それがなぜなのか、分からなかった。ただ、彼らの顔を紬はどこかで見たようなことがあった。知らないはずの彼らに対する気持ちは怒りではなく、しかたないという、あきれた気持ちだった。

(元の世界に戻りたいなら、やるしかない)

「分かりました。協力いたします」

 安堵の表情を浮かべる彼らが、なにか言おうとするのを手で制して、紬は続けた。

「その代わり、絶対に、私を元の世界に戻してください。その為なら、私にできることはします。なにをやるか、どうすればいいか、全部、説明してください」

 屋隈はうなずき、敬礼した。同時に他の三人も同じように敬礼する。

「確かに約束しましょう。私達はあなたに対して、最大限の礼儀を払い、接すると約束します。〈光和之国〉軍人の名において、嘘偽りなきことを、ここに誓いましょう」

 屋隈は黒革の手袋を外し、手を差し出した。傷跡があちこちに見える骨張った手を見て、紬はいぶかしげに屋隈を見た。屋隈は紬の様子に気づいて、一度、手をおろした。

「申し訳ございません。今から行うのは〈光和之証こうわのあかし〉である握手です。たがいに嘘偽うそいつわりなき約束であることを示すための証として手のひらに紋様が入ります。そして誰かが嘘をつけば、紋様を入れた手が痛むようになっています。つまり、私はあなたに嘘をつくことができません」

 そう言って屋隈は再び手を差し出した。だが、紬はすぐに握手に応じなかった。

(この人は、私に嘘をつけない。それは同時に、私もこの人に嘘をつくことができない)

 色んな思いがよぎったが、紬は、はっとひらめいた。嘘をつくことができない。それは紬にとっての幸運だった。だが、そのひらめきは、真摯に対応してくれた屋隈の思いに泥を塗ることになる。一瞬、ためらったが、それでも紬は屋隈と握手を交わした。

 ちり、とした痛みと共に足元から光の環と共に風が舞いあがった。光の環が爆ぜるように消えたとき、風はゆっくりとやんだ。

 紬は離した手の、手のひらを見て目を開いた。確かに紋様が入っていた。それは、目の前の黒い景色に浮かぶ太陽のような紋様と同じ形をしていた。

「ご安心を。約束を果たした後、紋様を消します」

 紬は手のひらを親指でこすった。刺青を入れたようにくっきりとした黒い紋様に、本当に消えるのか、とあやしんだが、屋隈の言うことを信じることにした。

「じゃあ、ここにいる全員と〈光和之証〉を交わしましょうか」

 そう言ったのは、蓮香だった。

「いや、しかし……」

 とまどう屋隈に蓮香は困った表情を向けた。

「私達が始めたことよ。私達も紬さんと約束を交わすのが道理だと思うけれど?」

 蓮香はほほえみながら、言った。そして紬に向き合うと、黒革の手袋を外して、問いかけた。

「紬さん。どうかしら?」

 蓮香に問われて紬は迷いなく答えた。

「お願いします」

 紬は蓮香と握手を交わした。さきほどと同じ、ちり、とした痛みが広がり、地面から光の環と共に風が舞いあがり、爆ぜるように消えた。紬は黒革の手袋を外した顕谷と日納とも同じように〈光和之証〉を交わした。

 紬は違和感の残る手のひらをしばらく見つめると、顔をあげた。四人はそれぞれに黒革の手袋をはめ直していた。その様子を見つめていた紬は覚悟を決めて、〈光和之証〉が刻まれた手のひらを握りしめた。

「……私は、人を殺したことがあります」

 宣誓するように紬が声をあげた。四人はぽかん、とした表情の後、おどろきに目を開いた。

 その瞬間、手のひらに弾かれるような痛みが走った。紬は手のひらを見て、屋隈の言ったことが本当であることを痛みと共に知った。

 紬は迷いながらも、彼らに問いかけた。

「私を呼んだ本当の理由を教えてください」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る