9.別の火種の件
「はあ」
離宮の自室のベッド上で、私は包帯の巻かれた足首を眺めながら、大きな溜息を吐いていた。
「痛みますか?」
気遣うのは、部屋付きメイドのマゴットだ。
「ううん、だいじょうぶよ」
実際もう痛みはほとんど引いている。ただ大事を取っているだけだ。
「怪我ではない憂鬱なことというと、やはりエトガル様のことでいらっしゃいますか」
「それもあるけど……ハルさまにむりをいってしまったわ」
皇帝陛下の決定を、例え皇太子の婚約者とはいえ一介の王女が覆すことは、難しい。
だからあえて心情に訴える作戦に出た。
『暇で寂しい。仲直りをして、エトガル殿下の話し相手になるのはどうか』と。
幼い王女の要求には陛下も頷かざるをえず、様子を見た上で、もしもエトガル殿下に更正の余地がないようなら、改めて北方へ送ることに決まった。
フォルクハルト殿下はというと、私の意見を尊重してくれたものの、相談したときは今にも吹雪を起こしそうなくらい不機嫌になった。
第二皇子が私と接するのは、やはりまずいのだろうか。
とにかく、エトガル殿下と過ごす時間や場所、内容については、全てフォルクハルト殿下管理の下でという取り決めになって、ようやく納得された。
「あんなん、気にせんでええねん。ただのヤキモチやで」
マゴットが洗濯のため部屋を出て行った後で、にやける侍従が発した単語には、聞き覚えがなかった。
「ヤキモチって?」
「あーそか。えー。……なんでもあらへん」
「んも~エン?」
いつもならちゃんと解説してくれるのに、教えてくれないな? と不思議に思う私に向かって、エンゾは目尻を思い切り下げた。
「良かったですねえ」
「よかった、て?」
「リア様今、心穏やかに過ごせてますやんか。氷の皇太子殿下のおかげや」
「おだやか……そうかも。だってぜんぜん、れいこくじゃないじゃない?」
むしろ、大切にしてくれていると感じる。
お茶会での誓いを守るだなんて、律儀な人だと思う。誠実な性格なのだろう。
「ところがどっこい、殿下が優しいんは、リア様に対してだけやねんな~。クヒヒ。いっぺん執務の様子見に行ったらどないです? あのお方、ほんまおっそろしいで」
「そうなの? しつむのごようす、みてみたいわ!」
エンゾがこれ以上ないくらいにニコニコしていて、私は首を傾げた。
「どうしたの?」
「いよしゃ。となれば溺愛ルート作りにフラグ立てて回収やろ。あと好感度アップのフォローせなな……タスク盛だくさんやぁ~、
「……わかるようにいって?」
「リア様が幸せになるんを、今度こそ見れそうやなって」
ぼんっと頬が熱くなるのは、初めての経験だった。
「うひょー、かんわええ!」
「っからかわないで!」
渾身の力で枕を投げてみたけれど――にっくきこの護衛は、軽く避けてから「執務室に行くんやから、オシャレせなあかんな~! ドレス選んできますわぁ!」とあっという間に枕を拾って戻し、ぴょんぴょん飛び跳ねるような足取りで寝室を出て行ってしまった。
「しあわせ……なれる? わたくしが?」
静かになった部屋でぽつんとひとり、口に出してみたけれど、まだそんな風には思えなかった。
◆
エトガル殿下と私が交流を開始するための最初の場は、フォルクハルト殿下の執務室となった。
マホガニーでできた重厚な両袖机が部屋の中央奥に置かれ、背後には凝った彫りの木枠に囲まれた腰高の窓があり、濃紺のカーテンが付けられている。今は開け放たれているので、窓越しに青く晴れた広い空が見え、室内も明るい。机の前に敷かれた華やかな織のラグマットには、帝国の紋章である『躍動する騎馬』が描かれている。壁際には天井高の本棚が並び、暖炉にも同じマホガニーが用いられた統一感のある、品の良い部屋だ。
当人であるふたりは、部屋の中央に下げられたシャンデリアの下、応接セットのローテーブル越しに向かい合わせで立っていた。他は、執務机に腰かけたままのフォルクハルト殿下と、その背後に侍従であるミヘルが控えている。私の背後には、エンゾが立ってくれていた。
「エトガルでんか。ごきげんうるわしゅうぞんじます」
「……ん」
顎を動かすだけの挨拶を見たフォルクハルト殿下が、たちまちエトガル殿下を叱責する。
「なんだその挨拶は」
「っ」
「それが許されるのは陛下だけだと知らないのか? 帝国皇子としての礼儀すら、学んでいないとはな。リアは見事なカーテシーだったぞ」
容赦のないフォルクハルト殿下のダメ出しは、場の空気を凍り付かせた。
エトガル殿下は下唇を噛みしめ、気丈に立っている。反論を必死で呑み込んでいる様子に、思わず眉尻が下がった。
(まだ納得いってないのかしらね)
私は、助けようと決めた。皇子といえど、まだ七歳である。意地を張るのも仕方ないと思ったからだ。
「ハルさま。おてほんがみたいです」
「リアのためならば」
す、と音もなく立ち上がったフォルクハルト殿下の所作には、無駄がない。今日の服装は、華美な装飾の少ない紺色ウエストコートに白いシャツとクラヴァット、紺色のブリーチズと黒いブーツ。高身長と均整の取れた体つきで、より洗練されて見える。
机の前まで出て来てくれた彼の前へと私が歩き、しっかりと目線を合わせ立ち止まると――
「エトガルは、ちゃんと見ておけ」
フォルクハルト殿下は右足を引き、右手を体に添え、左手を横方向へ水平に差し出すようにする『ボウ・アンド・スクレープ』をして見せる。
私もそれにカーテシーを返してから、自然と右手を差し出していた。
「ごきげんうるわしゅうぞんじます、ハルさま」
彼は目線を合わせたまま、私の小さな手を取るために膝を軽く折り曲げ、優しくすくうようにして甲にキスのフリをする。
お互い敬意を持った挨拶に、心から嬉しくなった。これこそ、権威や身分階級を尊重し合う態度ではないだろうか。
ふたりの様子を見ていたエトガル殿下が、ついに感情を吐き出す。
「そんなの、知らない! 僕は、皇太子じゃないから!」
「お前はまだそんなことを」
「おまちください、ハルさま」
追い詰めたらダメだ。常に追い詰められていたから、逃げ場のない辛さはよく分かる。私には学ぼう、なんとかしようという反骨精神が芽生えたからまだよかった。
けれどもそうでない場合は、権力を利用することで考えることを放棄し、弱いものいじめに快感を得るようになるのだ――あの侯爵令嬢みたいに。
「エトガルでんか。わたくしは、ハルさまのこんやくしゃになるときいて、がんばりました」
フォルクハルト殿下の鋭い目つきと雰囲気の違う、大きく潤んだ水色の瞳が、まるで行き所がないかのように床を見つめている。
窓から差す日光を受けてキラキラと輝いているその目が、まだ澄んでいると感じた直感を、私は信じたい。
「がんばれば、できるようになります。いっしょに、がんばりましょう」
「……」
「れんしゅうですから。できなくてもいいんです」
「できなくても、いい?」
ようやく、目が合った。
「はい。さいしょは、できなくてあたりまえです」
「リアーヌ嬢も、そうだった?」
「ええ。でんか。どうぞわたくしのことは、リアと」
目が、見開かれた。
「呼んでいいの?」
「はい」
「リア」
「はい」
「ぼくのことは、ガルって」
「ガルさま」
エトガル殿下は、さきほどのフォルクハルト殿下のボウ・アンド・スクレープを見よう見まねで、やってくれた。
「はじめてなのに、とってもおじょうずです」
褒めたら、すかさず右手を取られて――手の甲にぷちゅ、と直接キスをされた。配偶者や婚約者以外はフリで済ませる、と教えねばならないなと心に刻む。
なんだか背後で侍従が肩を揺らして笑いを堪えている気配がするけれど、きっと気のせいだ。
「リア! ぼく、がんばるね!」
うん。エトガル殿下の背後で、ものすごい吹雪が渦巻き始めましたけれど、がんばりましょうね……。
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