第5話 末路

 『男爵家の財産を継いいだあと、お前が領地をどうしようが自由だ。だが、知識はいくらあっても邪魔にはならない』

 

 アリアが文字の読み書きができないと知った男爵は、そう言ってさらに二人の家庭教師を雇った。

 午前中は礼儀作法、午後からは読み書きや計算、歴史を学んだ。

 休みはひと月に二日だけ。その二日間も、周囲に親密さを知らしめるため男爵とともに外出をした。

 忙しかったけれど孤児院にいた頃のような労働はないので、さほど苦ではなかった。

 物覚えがよいほうではないので時間がかかったが、一年経つ頃には本も読めるようになり、計算もできるようになった。

 

『外見には常に気を遣うように』


 みっともない姿は見るに堪えないと、男爵はアリアに何着もの衣服を仕立ててくれた。

 成長期ですぐにサイズが合わなくなるというのに、お構いなしだった。


 アリアが社交界デビューをしたのは、十五歳のときだ。

 若草色の可憐なドレスと、小粒で品のよいエメラルドのイヤリング。胸には薔薇をかたとどったガーネットの鏤められた薔ブローチ。 

 アリアの可憐な姿を見た男爵は「なかなかの化け具合だ」と、ご機嫌だった。

 

 夜会に招待されていた男爵夫人やアダムに見せつけるように、アリアは男爵とダンスを踊った。


「小娘。どんな顔をしている?」

「どちらのお顔ですか?」

「両方だ」

「奥方様は顔を真っ赤にしております。アダム様は……私に見蕩れていらっしゃるのかもしれません」

「うぬぼれは大概にせねば、身を滅ぼすぞ」

「ですが、本当に怖いくらいに私をみつめているのです」

「……警護をつけたほうがよいかもしれんな」

「私は一人では出歩きはしませんし、大丈夫ですよ」

「屋敷に忍び込み、私の大事な愛人に手を出されたら困る」

 

 ダンスをしながら小声で会話をする。

 男爵夫人やアダムだけではない。

 親子以上に年の離れた自分たちの仲睦まじい姿に、周囲の者たちは興味津々だった。


 そしてその夜会以降、アリアは『毒婦』と呼ばれ、『魅了』の力があると実しやかに囁かれ始めた。


 大陸の果てには、住人のほとんどが魔力持っている国があるという。

 しかしラクーン王国では魔力を持つ者は珍しく、大抵が風火水土に属する魔法しか使えなかった。

 闇属性と光属性と無属性の魔法を扱える者もいるというが、アリアは今まで出会ったことがない。

 

 魅了は無属性の魔法である。

 もちろんアリアは無属性の魔法など使えない。そもそも魔力など一切持っていなかった。

 だというのになぜ魅了の力があるなどという噂が立つのか。

 不思議に思っているアリアに、男爵は愉快げに『お前が孤児で、私が今まで堅物なほどに品行方正だったからだろうな』と言った。


 人々は、真面目だった男爵が貧しい孤児に入れ込んでいる理由を探し、その結果アリアに『魅了』があることにしたらしい。

 もしかしたら変態男爵の妻、もしくは変態男爵の息子だと思われたくない者が、すべての非をアリアに被せようとしてて噂を立てたのかもしれないが……何にせよどんな噂が立とうとも、男爵が問題にしないのならばアリアは別に構わなかった。


 アリアは穏やかな暮らしのために、ダン・ソラリーヌに従い、彼の思うがままの女を演じた。

 十八歳になったあとのことは、考えなかった。

 初めて自分が男爵にとって復讐の駒だと知った日から、アリアの気持ちは変わらない。

 一日でも長く、忙しいけれど穏やかなこの生活を続けたい。それだけだった。


 三年が過ぎ、五年が過ぎた。

 もしかしたらこのままずっと、こんな生活が続くのだろうか。

 明日を不安に思わず、十日後の予定を平気で立てられるようになった頃、アリアのその生活は思ってもみなかったかたちで終わりを迎える。


「残念だが、復讐は終わりだ」


 男爵はまるで天気の話でもするように、さらりと言った。

 母子と和解したのかと思ったが――違った。

 

 「肺の病のようだ。医者から半年、早ければ三か月だと言われた」


 そうえば最近、嫌な咳き込み方をしていた。

 もともと痩せ気味だったが、特にここ一か月で急激に体重が落ちているように見えた。


「……治療はできないのですか」

「上手くいけば延命はできるかもしれないが、一年持たせるのは難しいだろうと言っていた。……小娘、そのような顔をするな」


 どのような表情を浮かべていたのだろう。

 男爵は片眉を上げて、呆れた風に肩を竦めた。


「お前が私の遺産を受け取れる権利を得る十八歳になるまで、可能であれば生きたいところだが。……お前がもっと早くに生まれていたならな」

「すみません」

「こればっかりは、仕方あるまい」


 アリアを責めている様子も、落ち込んでいる様子もなく、男爵は皮肉げに笑んで言った。



 病の進行は予想していたよりも早く、一か月経つ頃には男爵は、支えがなくては歩けないようになっていた。

 そしてさらに一か月過ぎる頃には、起き上がることすら難しくなっていた。

 医者からは『いつ亡くなってもおかしくありません』と告げられた。


 骨と皮だけになった病人を見下ろし、アリアは男爵に引き取られてからの日々を思い返していた。

 アリアはたくさんのものを、男爵から与えられていた。

 今着ている染みひとつない清潔な衣服も、男爵の金で買ったものだ。

 艶やかな長い髪や血色のよい滑らかな肌も、あかぎれのないしなやかな指や割れてない綺麗な爪も。

 アリアのすべては、男爵のおかげだった。

 けれどアリアは、彼に何も返せなかった。

 男爵の言っていたとおり、もっと早くに生まれていたら……いや彼が引き取ったのが自分より年上の者だったなら。

 そう考えずにはいられなかった。


 「小娘……そんな顔をするな」


 どんな顔をしていたのだろう。

 眠っているとばかり思っていた男が、目を開けてアリアを見上げていた。

 

「愛は人を愚かにする……。愛しているから傷つき、愛しているから、いらぬ心配をする。愛しているから無理をして、愛しているから己を失う。小娘、愛などまやかしだ。愛などというあやふやな感情に惑わされて、己を犠牲にするのは愚かでしかない」


 弟と妻と、子ども。

 かつて愛した者たちを思ってか、男爵は掠れた声で言った。

 

 たくさん言いたいことがあるのに、何も言えなかった。

 黙っていると「そんな顔をするな」と再び言い、笑う。

 笑ったせいで咳き込んだので、アリアは慌てて彼に近づき、骨張った薄い肩を撫でた。

 アリアの手に、硬くかさついた手が重なる。


 引き取られたばかりの頃、男爵はアリアに触れるとまるで汚れが付着したとばかりに、ハンカチーフで手を拭っていた。

 けれどアリアが令嬢らしくなってきたからだろうか。

 いつの頃からか、接触しても手を拭うことをしなくなった。


「情を抱き、己を捨てるのは愚か者がすることだ」


 男爵は死を間近にした病人とは思えないほどの力で、アリアの手を握り、振り払った。


 

 それから三日後。

 ダン・ソラリーヌは六十七年の生涯を終えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る