第4話 裏切り
男爵夫人と会った十日後。
アリアの部屋に一人の男が訪れた。
年の頃は二十代後半か。ふくよかな体型の垂れ目の男だった。
「愛人だというから、もっと色っぽいのを想像していたんだが……幼女じゃないか」
アリアの頭から足先まで、ねっとりと視線を這わせ、最後に平べったい胸に目を留めて男は言った。
「どちらさまですか? ノックもせず入室するのはマナー違反です」
目の前の男はノックもせずにドアを開け、アリアの部屋に入ってきていた。
どれほどの緊急時であっても決してノックを忘れてはならない……と家庭教師からアリアは教えられていた。
「生意気な女だな。俺はアダム・ソラリーヌ。お前のご主人様の息子だ」
にやついた笑みを浮かべて男は言う。
アリアは目を瞠る。
アダムは男爵にあまり似ておらず、先日会った男爵夫人の面影もなかった。
「はじめまして。アリアと申します」
男爵家の嫡男にしては、態度や言葉使いに品がない。
身ぎれいな服こそ着ているものの、孤児院にいた年長者たちと同じ、粗野な印象を受けた。
できれば関わりたくない部類の人間だったが、ソラリーヌ男爵家の嫡男だというのに失礼な真似をとるわけにはいかない。
アリアは丁寧に淑女の礼をする。
「孤児院にいたんだろう? 貧民のくせに、いっぱしの挨拶をするじゃないか」
アダムは嘲るように嗤うと、アリアの後ろ髪を引っ張った。
「顔はまあ、悪くないな。父上が飽きたら俺が飼ってやってもいいぞ」
強引に仰のかされた頬を、太い指が辿る。
芋虫が肌を這うよりも気持ち悪い。
振り払いたくなるが、アリアはじっと我慢した。
男の顔が近づいてくる。
荒々しい息を吹きかけられ、口臭で目眩をおこしかけていたときだ。
「アダム様、何をしておいでですか!」
執事の声が響く。
アダムは舌打ちをして、アリアから身を離した。――離したというか、突き飛ばされた。
「アダム様。屋敷への立ち入りは禁止されているでしょう!」
「父上に少し、用立ててもらおうと思って寄っただけだ」
「旦那様には用件は伝えておきましょう。すぐにお帰りください」
「くれぐれも父上に、よろしく頼むと伝えてくれ」
床に転げているアリアに目もくれず、二人は話をしながら部屋を出て行った。
「…………乱暴な母子……」
アリアは一人呟きながら、立ち上がった。
その日の夕方。
「アダムが来たそうだな」
執事から聞いたのだろう。
いつものとおりテーブルに向かい合って食事を取っていると、男爵がふと思い出したかのように言った。
「……はい」
アリアはナイフとフォークを置き、口の中の肉を咀嚼して飲み込んでから頷く。
「愉快だろう? 金がなくなっては私にたかりにくるのだ。すでに妻も子もいる身だというのに、精神年齢は小娘、お前以下だぞ」
息子がたかりに来る話が、どうして愉快なのかわからないが、男爵は満足げに笑んでいた。
口の端を上げて笑む男爵は意地が悪そうに見える。けれど……昼間見たアダムの下品な笑みとは違って見えた。
「あまり……似ていません」
アリアは思わず、感想を漏らしてしまう。
口にしてから不敬だと気づき、青ざめる。
アリアが慌てて謝罪をしようとすると、それより先に男爵は声をあげて笑い始めた。
「ハハハッ。実に、実に愉快だ。小娘、似ていないのは当たり前だ。血が繋がっていないからな。アダムは私の妻と、私の弟の子だ」
三十年前、男爵は十歳年下の令嬢と結婚をした。
政略結婚ではなく、令嬢から一途な想いを向けられ、その熱意に男爵がほだされての結婚だった。
仲睦まじく暮らしていた夫婦が長男アダムを授かったのは、結婚から五年後。
しかし喜ばしい出来事とはうらはらに、産後の肥立ちが悪く男爵夫人は寝込むようになった。
そして、出産から半年後。男爵夫人は静養のため、領地から離れた場所になる屋敷へ移った。
夫人のたっての願いで、母子ともにそちらで暮らすことになったのだ。
その屋敷は生まれつき病弱な男爵の六歳年下の弟のため、療養地として建てられた屋敷だった。
弟もそこで暮らしていたが、屋敷は広く、使用人も多い。
不便はないだろうし、弟もまた義理の姉と甥との暮らしを喜んでいるようだった。
男爵は真面目で心優しい弟を可愛がっていた。
床についてばかりで外出もままならない。おそらく家族を持つことができないであろう弟のことを、不憫にも思っていた。
幼い甥と触れ合いは、弟にとって豊かな経験になるに違いない。
妻は若いながらしっかりしているので、気弱な弟の支えになってくれるだろうし、妻もまた心優しい弟にならば気安く相談ができるはずだ。
一人離れて暮らすのは寂しいか、家族のためにそれが一番良い方法だと考えた。
遠方なため頻繁に通うことは難しかったが、たまに顔を覗かせると、みな晴れやかな表情で男爵を歓迎したという。
三人での生活は、男爵が期待していた以上に上手くいっていた。
よほどあちらでの生活が気に入ったのか、戻ってくる素振りがないのは気になったが、大事な家族が幸せならばそれでよいと思っていたのだ。
しかし――。
アダムの出産から十年後。
弟が亡くなった。
「欺いたまま死ねないかったのか、弟は私に手紙を残していた。私が結婚して二年ほど経った頃から、妻と不実な関係を続けていたそうだ。おそらくアダムは自分の子だ。兄さんを裏切ったわけじゃない。兄さんのことは愛している。大好きだよ。ただ彼女を愛してしまった。僕がいなくなったあとは、僕の代わりに今まで以上に二人を愛してほしい――そう書いてあった」
男爵は淡々と語り、薄く笑む。
「アダムが私の子の可能性も、もちろんある。不実な妻を許し、弟の言うとおり妻を愛そうと試みたこともあった」
しかし男爵は、生前の弟と妻、アダムがどのような生活を送っていたかを知る。
二人は夫婦のように仲睦まじかったうえ、アダムは弟を「父上」と呼んでいた。
そして男爵が訪れる前、「邪魔者」が来るとうんざりした様子で言い合っていたという。
「私を夫だと、父親だと思っていない。金ずるとしか思っていない者たちを、愛する気にはなれなかった。妻と離縁し、二人を追い出そうとも思ったのだが、私は不能になってね」
「……不能」
「子どもを作れなくなったのだ。私の子でなくとも、アダムは弟の子だ。私の死後、私がアダムを我が子と認めなかったとしても、私の子がいなければソラリーヌ男爵家の財産はすべてアダムが継ぐことになる。それが許せなくてね。だから小娘、私はお前を引き取ったのだ」
ラクーン王国では親近者が他にいる場合、養子が遺産を相続するにはいくつかの条件があった。
まずは遺言があること。遺言の作成から、三年経過していること。
養子縁組みしてから五年が過ぎていること。その期間、実質的な親子関係があること。
そしてラクーン王国で成人と見なされる十八歳を過ぎていること。
「あの人たちに財産を渡さないために、あなたは私を養子にしたのですか?」
「そうだ」
男爵がなぜ自分を養子に迎えたのか、アリアは不思議だった。
復讐のための駒を孤児院に探しに来て、アリアに目を留めたらしい。
「…………それまで、あなたの愛人のフリをしろということですか?」
「物わかりが良いな。その通りだ」
男爵はアリアを養子として引き取ったが、周囲には秘密にしていた。
男爵夫人やアダムに知られたら邪魔されかねないと考え、アリアを愛人と偽ることにしたのだ。
「それに、私が変態趣味だと広まれば、あやつらも多少は恥ずかしかろう」
男爵は彼らが嫌な思いをするなら、自分が変態趣味と噂が立っても構わないらしい。
「十八歳になれば、私の財産は小娘、すべてお前のものだ。悪い話ではないはずだ」
もしも目の前の男が、自分を復讐の駒に選ばなかったとしたら。
孤児院で鬱憤晴らしの的にされ、死んでいたかもしれない。
運良く生き延びて、孤児院を出れたとしても……。
懐かしい母の姿が脳裏に浮かぶ。
自分のような人間が行き着く先は、だいたい想像できた。
ゴミ溜めのような場所で生きて死んでいくはずだったアリアにとって、男爵に選ばれたことは間違いなく幸運だった。
財産になど、興味はなかった。
十八歳の自分など、遠い未来のことなどわからない。
アリアは安心して眠れる部屋、そして温かく美味しい食事を与えてくれるこの生活を少しでも長く続けたかった。
「旦那様のおっしゃるとおりにします」
アリアの言葉に、男爵は満足げに微笑んだ。
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