第3話 男爵家での生活
ソラリーヌ男爵はアリアのために、屋敷の二階にある陽当たりの良い部屋を用意してくれていた。
部屋にはベッドと机と棚が置いてある。
装飾品の類いはなく簡素な内装だったが、綺麗に掃除がされていて床には埃ひとつなかった。
ベッドに敷かれたシーツも染みはなく真っ白だ。
広さは孤児院で使っていた部屋よりも少し狭い。
けれど孤児院は共同部屋で、多いときは十人が寝起きしてた。一人で使うとなると、広すぎて寂しいくらいだった。
部屋を見回していると、トントンとドアを叩く音がした。
アリアが返事をする前にドアが開き、男爵が部屋に入ってくる。
男爵はアリアに近づくと、眉を寄せて見下ろした。
「匂うな……。さっさと浴室に行き、その汚い服を捨てろ」
男爵は低い声で命じる。
アリアは今日、いつもの染みだらけの汚れた服ではなく、孤児院で用意してくれた真新しい衣服を着ていた。
二十日に一度しか許されていない入浴も昨日すませ、しっかり身体と髪も洗っていた。
けれど、まだ臭くて汚かったらしい。
(それとも……これから、そういうことをするとか……?)
初日から、年若い養女に手を出すつもりなのか。
怖いけれどアリアに拒否権はない。
性的倒錯者で、過去に人殺しをしている。
そういう過去があってもおかしくないほど、男爵の顔つきは厳めしく、眼差しは澱んでいる。
楽に殺してくれますように、とアリアは心の中で願った。
アリアの心の中の声が聞こえたわけではないのだろうが、男爵はどこか面白げに訊いてくる。
「私が恐ろしいか?」
はい、と正直に打ち明けたら許してくれるのだろうか。
それとも、無礼な口をきくなと殴るだろうか。
アリアは迷ったすえ「わかりません」と震える声で答えた。
男爵は何がおかしいのか、声を立てて笑った。
「安心しろ。私は、お前のようなみすぼらしい小娘に手を出すほど、飢えていないのだ。悪い病気が、うつっても困るしな」
ひとしきり笑ったあと、男爵はそう言った。
愛人にするつもりがないのから、なぜ自分を養女にしたのかとアリアは困惑する。
「ゴミだめのような孤児院で暮らすよりはマシだろう」
男爵は嘲るように言って、部屋を出て行った。
入れ替わりに侍女が入ってくる。
侍女に指示されるまま、アリアは浴室に行き身体を清めた。
それまで着ていた服は処分されたらしい。
代わりに、肌触りのよいおろし立ての衣服が用意されていた。
新しく始まったソラリーヌ男爵家での日々は、母と暮らしていたときや孤児院で暮らしていたときよりも、ずっと裕福で穏やかなものだった。
侍女たちにより部屋はいつも清潔さが保たれ、洗濯を終えた衣服が毎日用意される。
用意された衣服は、どれもがつぎはぎも染みもなく新品同様だった。
侍女たちはみな淡々と仕事をこなしていて、余計なお喋りはしない。
アリアを歓迎していない雰囲気こそあるももの、意地悪もされなかった。
食事は朝昼晩とあり、毎回豪華な料理が並んだ。
男爵が屋敷にいるときは、彼と二人、テーブルに向かい合って食事を取った。
初めて男爵と食事をともにしたとき、アリアはナイフとフォークの扱い方がわからなかった。
男爵を真似するものの上手くいかず、食材ごとフォークを床に落とす始末だった。
『見るに堪えない。せっかくの食事が台無しだ』
男爵は顔を顰めて吐き捨てるように言い、翌日からアリアの元に家庭教師が訪れるようになった。
家庭教師は五十代半ばの女性だった。
厳しい女性だったが、彼女はアリアを鞭で叩いたりはしなかった。
冷淡な口調で端的に、食事のマナーだけでなく、貴族令嬢としての作法。言葉使いや振る舞い、姿勢まで家庭教師は厳しくアリアに教え込んだ。
侍女も家庭教師も男爵も、みな一様にアリアに対する態度は冷たかった。
けれど誰一人として、アリアに暴力はふるわなかったし、苛酷な労働を言い付けもしなかった。
いつか豹変し、殴られたり蹴られたりするのだろうかとビクビクしていたが、一か月経っても彼らのアリアへの接し方は変わらぬままだった。
そして、不安感が薄くなってきたからだろう。
アリアはその頃になってようやく、ソラリーヌ男爵家の奇妙さに気づいた。
男爵には妻と、嫡子である息子がいた。
けれどこちらに住むようになってから一度も、アリアは男爵の家族に会っていない。
気になったけれど、詮索して男爵の機嫌を損ねるのも怖かった。
いつか放り出されるにしても、少しでも長くこの心地よい家で生活したかった。
男爵の妻と顔を合わしたのは、アリアが養女になり二か月が過ぎた頃だ。
侍女に呼ばれ応接室に行くと、開いたドアの向こうから言い合う男女の声が聞こえてきた。
男のほうは男爵、女のほうは初めて耳にする声だった。
「まだ十歳の子を愛人にするなんて! あなた、正気ですの!?」
「十一歳だ」
「同じようなものでしょう! ソラリーヌ男爵は幼女趣味があったのかって、みなの笑いものになっているのよ! すぐに追い出すべきだわ!」
「お前が口出すことではない。おお、アリア。来たのか。私の妻だ。挨拶しなさい」
ドア近くに立っていたアリアに気づき、男爵が緩やかに笑んで言った。
アリア。男爵にそう呼ばれるのは初めてだ。
優しい声音なうえに笑みも穏やかで、アリアは初めて見る男爵の態度に驚いて立ち竦んでしまった。
「アリア、緊張しているのかい? さあ挨拶をするのだ」
男爵の眼光が鋭くなり、アリアはハッとする。
『私の妻』ということは、彼女はソラリーヌ男爵夫人だ。
男爵は六十歳だったが、白髪のせいか実年齢よりも年老いて見える。
対する男爵夫人は化粧が濃く若作りしているのかもしれないが、四十代くらいに見えた。
顔立ちは醜女ではないが、美人でもなかった。
アリアは彼女に向かって微笑み、淑女の礼をした。
「はじめまして。アリアと申します」
アリアが名乗り終えるやいなや、男爵夫人がツカツカと歩み寄ってくる。
そして――パチンと乾いた音が響いた。
頬が熱くなる。
殴られたのは久しぶりで、足を踏ん張っていなかった。
アリアはよろけ、転んでしまう。
「恥知らず! すぐにここを出て行きなさい!」
女の怒鳴り声が上から振ってくる。
頬を押さえて身を縮めていると、肩に手を置かれた。
「おお。アリア。大丈夫か?」
甘ったるしい声とともに、男爵がアリアの腰に手を回した。
「こんなか弱い少女に手をあげるなど……心底見損なった。お前こそ、さっさとこの屋敷を出て行くのだ」
アリアを支え起こし、男爵が厳しい口調で言う。
「あなた!」
「アリア、頬が赤くなっているではないか。可哀想に。痛かっただろう?」
男爵の骨張った冷たい手が、アリアの頬に触れた。
いつもとは違う態度に困惑しながら、アリアはチラリと男爵夫人を窺う。
彼女は熟れたトマトのように顔を真っ赤にさせ、アリアを睨み付けている。
そして歯を剥いて獣のごとく威嚇したあと、応接室を出て行った。
男爵夫人がドアを閉めたのを確認すると、男爵はアリアから離れた。
「ふふ。見たかあの顔を……実に愉快だ」
男爵は唇を歪め、嗤う。
先ほどまでとは違う、アリアの知るいつもの男爵に戻っていた。
(いったい……何だったの……?)
呆然としているアリアを男爵は冷たく見下ろす。
「侍女に氷を用意させる。冷やさねば、腫れ上がるぞ」
男爵はそう言うと、まるで汚れが付着したかのごとく、胸ポケットからハンカチーフを出して手を拭いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます