第12話
ふぅ、と大きく息を吐いた。電車の扉がピロンピロンと軽やかな音と共に開く。
降りないといけない。でも、降りるのが少し怖い。
人の波が、後ろから寄せ、前から迫る。寄せる波に身を任せ、私は自分が幾度も降りてきた、最寄駅のホームに立った。
歩き慣れた道を避けたかったのか、それとも、ただ単純にその道を通りたい気分だっただけなのか、私にはわからない。
いつもと違う道は、通りがかる人もまた違う。家が近づいてようやく、私は帰ってきた、という実感を得る。
家を視界にとらえると、立ち止まった。
ふぅ、と大きく息を吐く。
今日は家に着くまでに、一体何回こうして呼吸を整えるんだろうか。
カバンの中に手を入れ、ペンケースを取り出す。
何度も手に取り、なんども瞳に近づけた、からっぽのマスカラを握りしめ、
「よしっ」
と、覚悟を決めた。
もう、私は立ち止まらない。
掴み取りたいものを掴み取りに、ひたすらに前へ歩んでいく。
「た、ただいまぁ」
「おかえり」
帰宅後のルーティンは、一体どんなものだっただろう。
緊張のせいか、はたまたいつもと違う自分だからか、いつも通りがわからない。
なんとなく、手を洗って、うがいをしてみる。
この後は?
自分の部屋に行くんだっけ? それとも、声をかけに行くんだっけ?
洗面台の鏡を見つめ、考える。
自分の部屋に逃げちゃダメだ。私はこのまま突き進むんだ。と、鏡の向こうにある顔が言っている。
「ねぇ、お母さん」
「んー?」
声をかけると、視線が私へぬるりとやってきた。
その表情は、刻一刻と険しいものへと変わっていった。
「なに、それ」
「えっと、その……」
「なんか最近変わったと思ったら。なるほどね。変な子と付き合うようになったと」
「変な子って、言わないでよ!」
「じゃあ、なんなのよ」
「きゅ、救世主!」
「……はぁ?」
ズカズカと、お母さんが近づいてくる。
怖い。
だけど、どこか不思議な心地がする。
かわいいの仮面をかぶった私は、いつもの私じゃない。みんなの応援を背に受けた私は、いつもの私よりずっと強くて、いつもの私よりずっと、偽りのない私だ。
「ぶ、ぶっちゃけ、どう思う?」
「……はい?」
「お母さんは、この顔、どう思う?」
お母さんは顰めた顔で私を睨む。
怯まない。私は、この道を貫き通す。明日からのかわいいを手に入れるために。
「かわいいよ? そりゃあ、私の子だからね。でも」
「でも?」
「なんか、憎たらしい」
「……へ?」
「とりあえず、クレンジングオイル使わせてあげるから。落としてきなさい」
「やだ」
「やだ?」
「私、これから、いつもメイクしようと思う」
「意味がわかんない」
「でも、ちゃんと勉強する」
「それは当たり前」
「派手なメイクはしない。ただ、今よりちょっとかわいく、今よりちょっと自信を持って生きるために――」
「私たちの遺伝子が、そんなに気に食わないの?」
「……へ?」
「そういうことでしょ? すっぴんじゃダメって、そういうことでしょ?」
「いや、なんか話がズレてない?」
「はぁ……」
確実に、怒ってる。
いつもの私だったら、ヘラヘラ笑いながら、前言撤回したんじゃないかと思う。でも、武装した私は、撒き散らされる怒りくらいでは折れない。
「勉強したいの。英語とか数学だけじゃなくて、自分をより良く見せる方法も。スーパーで売ってる野菜とか、そのまま食べても美味しいかもしれないけど、お母さんが料理した方が美味しくなるじゃん」
嘘じゃない。本心だ。
でも、なんだかくどくて、むず痒い。そうならない他の言葉が思い浮かべばよかったけれど、私はまだ、そういう部分も勉強不足だ。
「素材が良くても、活かせなかったらもったいないじゃん? 私は、お母さんからもらった素材を活かせるようになりたいの。進学とかバイトとか就職とか、いろんなことに挑戦するってなった時、たくさん学ばないといけないことがあるでしょ? 今、メイクのことを少しでも学んでいたら、未来の学びが少し楽になるんだよ。そう。未来の自分に楽をさせるために、スタートダッシュをかますために、私は今、かわいいも学びたいの!」
語れば語るほどに、険しかったお母さんの顔が、ポカンと間抜けになっていった。怒りの温度に合わせて続けた叫びは、いつのまにか激しい温度差を生んでいた。私が私の思いを語り切ったとき、強者と弱者の立場はくるりと入れ替わったように見えた。
「本当に、変わったね」
「い、いつまでも、子どもじゃないし」
頬杖をついて私を見るお母さんの目が、私じゃない何かを見た。
「どうすんの?」
「ど、どうする、とは」
「いくらするか知ってんの? メイク道具っていうのは、安物買ったって、あれこれ集めたら結構な額になるんだから」
「知ってる。おこづかいと、あとは友だちのおさがりとか」
「そそのかしたお友だちね」
「なんか、言い方」
「はいはい、ごめん。……ふーん。そう」
「うん。……そう」
沈黙が広がる。息苦しい。でも、闘える。
今の私は、自分から負けを宣言することはない。
「成績落ちたら、イエローカード」
「……へ?」
「校則違反だけど、黙認されてるだけでしょ? もし、生徒指導で呼ばれたりしたら、イエローカード。お母さんが我慢ならないほどけばけばしいメイクをしたら、イエローカード」
「それって――」
「二枚累積でレッドカード。メイク道具没収」
「つまるところ、そのぅ……」
「気に食わない。気に食わないけど、全くわからないでもない。だから、様子見。今のそのメイクなら、うん。いつもよりもかわいい気が、しなくもないし」
ツンデレかよってツッコミかけて、グッと飲み込んだ。
これは〝ツンデレ〟と形容していいものじゃない。
もっと深い。
言うならば、大人の階段を上ろうとする者と、子を手離す準備をする者の歩み寄りだ。
「ありがとう」
「裏切らないでよ」
「わかってる」
「はぁ。ご飯作らなきゃ」
一見、いつも通りのような、お母さんの料理姿。でも、違う。いつもよりどこか、嬉しそうで、悲しそう。
複雑な何かを隠し味にした料理は、いつものように美味しくて、いつもより少し甘塩っぱかった。
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