第7話


「まぁ、急いで落とす必要はないか。この家出るまではこのままでいいよね。それで、あと、コレ」

「な、なに?」

「マスカラ」

「マスカラ?」

「からっぽの」

「からっぽ……?」

「あたしから、マイコにひとつ命令をする」

「命令?」

「あたしのコスメ、使った罰」

 罰、という言葉には似合わない、柔らかな微笑。

「これからマイコは、毎日このマスカラで、まつ毛をなでるふりをしなさい」

「……へ?」

「それで、もし。かわいくなりたいって気持ちが膨らんだら、お母さんにちゃんと、自分の気持ちを言いなさい」

「どういうこと?」

「マイコには、かわいくなる覚悟が足りないんだよ。本当にメイクが好きとか、かわいくなりたいとか思っていたら、お母さんにダメって言われたってするものだよ。妥協点を見つけてでも、手に入れようとあがくものだよ」

「でも、まだ高校生だし。だから、お母さんが言っていることも、わからなくもないかな、って、思うし」

「はぁ……」

 ミサコが頭を抱えた。

「ほんと、中学の時のあたしにそっくり」

「……へ?」

「マイコを見てると、中学の時のあたしに見えてきてしょうがないんだよね。で、あたしは突如として現れた救世主によって、今のあたしにしてもらったわけなんだけど。あたしは、その救世主さんに感謝してるの。おかげで、なんだか今が楽しいと思えるようになったし、未来もなんだかんだキラキラしているように思えるから。マイコが今のままでいい、変わる気ないですっていうのなら、それでいい。だけどね。もし、本当は今が窮屈だって感じているとしたら、変わったほうがいいと思うし、それに助けが必要なんだとしたら、あたしは手を差し伸べたい。あたしの直感が正しいなら、本当のマイコは月じゃなくて、太陽なんだ。すべての顔を出すのが一時しかなくて、時にかくれんぼをして、誰かの光を反射することによって光を放つんじゃなくて、マイコ自身が光を放てるはずなんだよ」

「いや、そんなはずないよ」

「自分で自分に制限かけてちゃ、もったいないよ」

「だけど……」

「だいたいね、まだ高校生だしっていうけど、高校卒業してすぐに働きだす人だっているんだよ? 社会に出たら、女の子はメイクをするのがほとんど義務みたいになってる。絶対しなきゃならないってわけじゃないだろうけど、メイクできないやつは礼儀がなってないみたいに思う人は、まだまだたくさんいる。でもさ、高校を卒業したら、みんなメイクできるの? メイクの授業があったわけでもないのに? 一足す一だって、習わなきゃわかんないでしょ? それなのに、なんでメイクはわかることになってんの? おかしいじゃん。もう、成人だって、社会に出るのだってすぐそこなんだもん。すっぴんを脱ぎ捨てるために学び始めることのどこがおかしいんだよって」

 つー、と涙が零れ落ちた。

 感情はぐちゃぐちゃだ。いったい何が雫と化したのかを、自分に問う。

 喜びが、ほんの少しだけ混ざっているような気がする。怒り、も、少しあるかもしれない。哀しみもまた、含まれているだろう。楽しさは、ないに等しい。

「ごめん。熱くなりすぎちゃった。ひいた?」

「ううん。ひいてない」

 ただ、気づきはあった。とても身近な場所に、救世主はいた。


 せっかくかわいくしてもらったけれど、家に帰るために、かわいいをぬぐい落す。

 いつもの自分に戻っていくのは、うれしいようで、なんだか悲しかった。

「あたしのわがまま、付き合ってくれてありがとね」

「わがままだなんて」

「楽しかった」

「うん。私も」

 家を出るとき、ミサコは駅まで送ると言い出した。

 私は、せっかく家にいるんだから送らなくていい、と、申し出を断った。

 これまでは、ちゃんと会話ができていた気がする。だから、私の言葉がミサコの耳に届かない、なんてことはないと思う。

 それなのに、「送らなくていい」という言葉だけはなぜだか、ミサコの鼓膜を揺らせなかった。

 ミサコはルンルンと嬉しそうに、私についてきた。

「じゃあ、あたしの宿題、ちゃんとやってね。毎日確認するから」

「わかった。じゃあ、ちゃんと報告、送るね」

「え、なんで?」

「いや、だって……。さっき連絡先交換したのって、宿題のため、じゃないの?」

「いやいや、普通に連絡取りあうためでしょ。マスカラのことは、教室で聞くから」

「いやいや、そんな、私に話しかけたりしたら、いろいろ、ほら」

「なに?」

「人間関係的に、ほら」

 ミサコって、こんな顔もするんだ。何言ってんだコイツ、とでも言いたげな、全くもって理解不能です、っていう顔。

「クラスメイトに話しかけて崩れる人間関係ってなに? 豆腐? 寒天?」

「……あは、あははは!」

「え、まって? あたし、なんかおかしいこと言った?」

 ミサコって、こんな感じで慌てるんだ。私は今、ようやく、彼女と同い年っていうことをかみしめられた気がする。

「ううん。豆腐とか寒天に例えるの、なんか面白かった」

「なんだぁ、そんなことか。よかったぁ」

 私は、夢でしか発したことがない青い笑い声を、暮れていく街に響かせた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る