第4話


「おーい、久米ぇ」

 あちらこちらから食べ物の匂いがする教室に、甘くて怠い声が響く。

「なーにぃ、タケルぅ」

「ちょっとこーい」

「うぃー」

 コッペパンをくわえた久米さんが、窓際の寺田くんの席までぐねぐね進む。着くなりしゃがんで、上目遣いで、甘えるように彼を見た。

 呼びつけたくせに微笑むばかりの寺田くんを、久米さんが見つめている。フリスビーをとってきて、ご褒美を待っている犬みたい。

 心が毒を生み出すのを感じるのと同時に、ふと、寺田くんの視線が久米さんから私へと動くような予感がした。視線を手元のおにぎりにうつす。白いごはんの真ん中にある、真っ赤なリップを塗った唇みたいな梅干しを、狙いすましてかじりとる。

「ンゴッ!」

「お前、大丈夫か? 水飲む?」

 そっと視線を二人へ戻す。久米さんはこくこくと頷き、差し出された水を躊躇いなく飲んだ。

「んあーっ。コッペパン詰まったわ。ごめん、ごめん。いろいろありがと」

「気づいたのが俺でよかったな。大森先生だったら……」

「うわぁ、それだけはやめて」

「ま、気をつけろよぉ」

「へーい」

 久米さんは、コッペパンを食べ切ると、パンくずを叩いて床に落とした。寺田くんに笑顔を見せ、塊を手に、もといたグループへと戻っていく。

 その塊がなんなのか、私はよく、知っている。


 ホームルームが終わり、下校準備をしていると、私の机の周りには突如として人の壁ができた。

「ねぇ、ちょっと、聞きたいことがあるんだけどさ」

「……うん」

「喜屋武さん、ミサコのポーチ、盗んだでしょ」

 村上さんが、蛇のような目で私を見下ろす。

「え、ええっと……」

「ああ、もう。やっぱりあたし、こういうの嫌」

「そりゃあ、盗まれたら――」

「違う。人数差が嫌。喜屋武さんに聞きたいことがあるのは、あたしだけ。だから、みんなは先に帰って」

「ええ、でも……」

「いいから、いいから!」

 久米さんは、壁を二つ、追い出した。

 しゃがんで、上目遣いで私を見る。

 その瞬間、私は未来を想像するでもなく、今だけを生きた。

 寺田くんに見せた顔と、たぶん一緒。

 怒りとかそういう熱じゃない。優しくて甘いあたたかさを放つ、かわいい顔。

 かわいさが引き立つシンプルなメイクが施された、美しい顔。

 見惚れた。

 ポーチを盗んだ時と同じように、私は私を抑えきれずに、自分がこれから責められるのだろうことを気にせず、ただ見惚れた。

「ねぇ。喜屋武さんって、メイクに興味、あったりする?」

「……へ?」

「ああ、いや。えっとね。あたし、ポーチ無くしたの。昨日」

「うん」

「それで、今日、タケルが見つけて拾ってくれたんだけどね」

「うん」

「喜屋武さん、最後に更衣室にきたでしょ?」

「ああ……」

 男子は、着替えて戻るのがはやい。特に、四限目が体育の時ははやい。学食や売店へ一秒でもはやく行くために、更衣室に入ったらすぐ、イリュージョンか何かのように出てくる。

 女子が男子よりもはやく教室に戻れたことは、一度もない。

「ポーチ、置いておけたのは喜屋武さんだけじゃない? って、話になっててね」

「えっと……」

「中を見てみたらね、無くなってるものは特になさそうだったんだけど、ちょっと使われてるっぽくて」

「あの……」

 机の下、スカートを掴む。じんわりと滲み出た汗が、スカートに染み込む。

「だから、もし喜屋武さんだったら――」

「ごめん、なさい」

「ん?」

「私、です。昨日、落ちてて。拾って、持って帰って、使った。直接、返す勇気なくて、それで……」

「そっか」

 久米さんが立ち上がる様子が、俯く私の視界の隅にうつる。

 す、っと久米さんの手が、私の顔へとのびてくる。

 顎に、温もりがふれた。優しく、顔を押し上げられる。

 私は、上目遣いで久米さんを見た。

「今日、このあと、暇?」

「……へ?」

「ちょっと、顔貸してよ」


 断る権利なんて、私にはないと思った。

 すたすたと歩いていく久米さんの後ろに、金魚のフンみたいにくっついて、通学路をとことこと歩く。

 駅に着き、改札を抜け、ホームへ上がろうという時になって、ようやく久米さんの足が止まった。

「あれ? 喜屋武さん、どっち?」

「上り」

「マジ? あたし、下りなんだよね」

「そ、そっか。じゃあ……」

「家、行っていい?」

「……へ?」

「喜屋武さんの家、行っていい?」

 いいわけがない。久米さんのような女の子が家に来たら、お母さんはきっと、顔で笑って心は鬼になる。晩御飯の最中に「ああいう子と付き合っちゃダメって中学の時にあれほど言ったじゃない」とか、そんなことをぐちぐち言われる。

 そうだ、そうだった。

 付き合う人を親に選別されたから、私は一人ひっそりと過ごす術を身につけたんだった。

 過去と今が繋がって、心が泣いて、荒れた。普段の私じゃ言わないようなことを、私の口はさも当たり前のように声に変えた。

「久米さんの家に、行けばいいの?」

「ん? まぁ、来てくれたら嬉しい、かな」

「……行く」

「でも、ほら、お金かかるし、無理にとは……って、いいの?」

「うん。行く」

 罪人は、罪滅ぼしに行かなければならないだろうから。



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